《磐梯と蕗のとう》
きれいな山の水の流れ、そのせせらぎの端の柳の芽吹き、段々畑の土手の蕗のとうに春を感じながら、一人慧日寺の史跡を巡った。遙かに空との境が分かりにくい雪の磐梯が聳えていた。
慧日寺は平安時代のはじめに、南都法相宗の高僧徳一によって開かれた、東北最古の寺院で、磐梯町の本寺地区は国指定の史跡に指定されている。
最近、「徳一菩薩」(高橋富雄著)を読んだ。また、平成17年からここ慧日寺周辺の環境整備が行われていたので、今どんな様子かも見たかった。ここには慧日寺の中心的役割を果たしたと思われる礎石建物跡が見つかっていて、このうち中門、金堂、講堂、食堂と推定される建物跡は、南北同一線上に連なっていたようだ。現在、来年3月までに完成予定の建設中の金堂がずっぽりシートに囲まれ、その裏の講堂、食堂跡はもうすでにきれいに整備されていた。
《再建中の金堂》 《徳一廟》
慧日寺は最も隆盛をきわめたのは平安時代の中頃で、寺僧三百、僧兵数千にのぼり、支配権は会津はもとより新潟県の一部まで及んだと言われている。しかし、源平合戦への参戦と敗北、伊達政宗の侵攻など度重なる戦火に見舞われほとんどすべてが焼失した。江戸時代には歴代の会津藩主により保護されたが、明治の廃仏毀釈によって廃寺となった。
慧日寺の裏山にある徳一廟や周辺を散策した。廟には風雨にさらされていた徳一の墓と言われる石塔が安置されている。石塔は5重で高さが2.95メートル、軒先に風鐸をつり下げた痕がある。慧日寺周辺の住民は薬師如来信仰によるらしく石塔を削って服用したこともあったので、軸の部分が細くなってしまい、鉄枠で補強されていた。
《仁王門》
金堂わきの仁王門は江戸時代の建立で、門の通路の左右の土間には江戸時代の中期作の仁王像が安置されていた。また不動院龍宝寺不動堂や乗丹坊の墓塔へも寄ってみた。それぞれの史跡には、文化庁、磐梯町教育委員会の立派な説明案内板が建っていた。
冷たい磐梯山麓の春の風が気持ちよかった。この風の流れに平安の世の中を想像し、今ある自分の心と対話しながら慧日寺資料館へ下った。慧日寺資料館は閉館中だった。資料館の脇には、磐梯山麓の名水「龍ヶ沢湧水」が引水されていて、近在の人たちがさかんに水を汲んでいた。
《慧日寺資料館》 《「龍ヶ沢湧水」を汲む》
お寺周辺の史跡を巡り、奈良、平安からの長い歴史の流れの一瞬間にある今を思った。そして、あらためて徳一の大きさを思った。人間の偉大さとは何だろうか。会津の徳一をもっと調べてみたいと思っている。
平々凡々と、でもかけがえのない今を思い、健康で楽しく、なぜか恥じない生き方をしようと思った。
【徳一上人】(ネットより)
天応元年(西暦781年)に生まれた徳一は、若くして興福寺修円に法相宗を学び、次いで東大寺の学僧となった。後に東行し、筑波山・中禅寺や恵目寺、円蔵寺、示現寺、勝常寺、などを開いた。
当時朝廷は、仏教の教えにより国を治めようとしていた。その役をつとめたのは天台(最澄、空海など)であった。最澄の天台は、誰でも悟りが開けて仏になる事ができるという一乗であり、これによって多くの人々を教化していった。
一方、徳一上人の教えは五性分別であった。どんな人間でもそれぞれ我があり、悟りや人生も千差万別、その我は死によって滅びても、再生する生命に受け継がれるというもの。悟りには色々あり、人々は仏教に対して様々な付き合い方があるという幅広さがあった。
現実主義の徳一上人は、法相宗の教学によって人生を修業場と見極め、すべてに仏性があり等しく救われるという最澄の天台教学と、真っ向から論争して譲らなかった。
徳一上人は、会津一円の教化経営を目指した。教化とは徳化であり、経営とは営々として真理を求める意である。その意味で徳一上人は、会津に理想郷の実現を夢見ていたといえる。
きれいな山の水の流れ、そのせせらぎの端の柳の芽吹き、段々畑の土手の蕗のとうに春を感じながら、一人慧日寺の史跡を巡った。遙かに空との境が分かりにくい雪の磐梯が聳えていた。
慧日寺は平安時代のはじめに、南都法相宗の高僧徳一によって開かれた、東北最古の寺院で、磐梯町の本寺地区は国指定の史跡に指定されている。
最近、「徳一菩薩」(高橋富雄著)を読んだ。また、平成17年からここ慧日寺周辺の環境整備が行われていたので、今どんな様子かも見たかった。ここには慧日寺の中心的役割を果たしたと思われる礎石建物跡が見つかっていて、このうち中門、金堂、講堂、食堂と推定される建物跡は、南北同一線上に連なっていたようだ。現在、来年3月までに完成予定の建設中の金堂がずっぽりシートに囲まれ、その裏の講堂、食堂跡はもうすでにきれいに整備されていた。
《再建中の金堂》 《徳一廟》
慧日寺は最も隆盛をきわめたのは平安時代の中頃で、寺僧三百、僧兵数千にのぼり、支配権は会津はもとより新潟県の一部まで及んだと言われている。しかし、源平合戦への参戦と敗北、伊達政宗の侵攻など度重なる戦火に見舞われほとんどすべてが焼失した。江戸時代には歴代の会津藩主により保護されたが、明治の廃仏毀釈によって廃寺となった。
慧日寺の裏山にある徳一廟や周辺を散策した。廟には風雨にさらされていた徳一の墓と言われる石塔が安置されている。石塔は5重で高さが2.95メートル、軒先に風鐸をつり下げた痕がある。慧日寺周辺の住民は薬師如来信仰によるらしく石塔を削って服用したこともあったので、軸の部分が細くなってしまい、鉄枠で補強されていた。
《仁王門》
金堂わきの仁王門は江戸時代の建立で、門の通路の左右の土間には江戸時代の中期作の仁王像が安置されていた。また不動院龍宝寺不動堂や乗丹坊の墓塔へも寄ってみた。それぞれの史跡には、文化庁、磐梯町教育委員会の立派な説明案内板が建っていた。
冷たい磐梯山麓の春の風が気持ちよかった。この風の流れに平安の世の中を想像し、今ある自分の心と対話しながら慧日寺資料館へ下った。慧日寺資料館は閉館中だった。資料館の脇には、磐梯山麓の名水「龍ヶ沢湧水」が引水されていて、近在の人たちがさかんに水を汲んでいた。
《慧日寺資料館》 《「龍ヶ沢湧水」を汲む》
お寺周辺の史跡を巡り、奈良、平安からの長い歴史の流れの一瞬間にある今を思った。そして、あらためて徳一の大きさを思った。人間の偉大さとは何だろうか。会津の徳一をもっと調べてみたいと思っている。
平々凡々と、でもかけがえのない今を思い、健康で楽しく、なぜか恥じない生き方をしようと思った。
【徳一上人】(ネットより)
天応元年(西暦781年)に生まれた徳一は、若くして興福寺修円に法相宗を学び、次いで東大寺の学僧となった。後に東行し、筑波山・中禅寺や恵目寺、円蔵寺、示現寺、勝常寺、などを開いた。
当時朝廷は、仏教の教えにより国を治めようとしていた。その役をつとめたのは天台(最澄、空海など)であった。最澄の天台は、誰でも悟りが開けて仏になる事ができるという一乗であり、これによって多くの人々を教化していった。
一方、徳一上人の教えは五性分別であった。どんな人間でもそれぞれ我があり、悟りや人生も千差万別、その我は死によって滅びても、再生する生命に受け継がれるというもの。悟りには色々あり、人々は仏教に対して様々な付き合い方があるという幅広さがあった。
現実主義の徳一上人は、法相宗の教学によって人生を修業場と見極め、すべてに仏性があり等しく救われるという最澄の天台教学と、真っ向から論争して譲らなかった。
徳一上人は、会津一円の教化経営を目指した。教化とは徳化であり、経営とは営々として真理を求める意である。その意味で徳一上人は、会津に理想郷の実現を夢見ていたといえる。
雪解けの春の土手、黒い大地に淡い緑を有難く見つめました。
明日から1泊で神奈川の大学病院へ検診に行ってきます。満開の桜を見てきます。