中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

荒天の高千穂峰

2014-08-30 12:30:00 | アウトドア・スポーツ
■あこがれの高千穂峰へ■

 記紀(古事記と日本書紀)に記される天孫降臨。「天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫=天孫の邇邇藝命(ににぎのみこと)が高天原(たかまがはら)から地上へ向かう」簡単に言えば、それが天孫降臨で、降り立った場所が筑紫の日向(ひむか)の高千穂というところだ。この高千穂の位置は諸説あって限定されていないそうだが、その内の一つが現在の鹿児島県、宮崎県県境近くにある霧島連峰の高千穂峰(たかちほみね)だ。

 この山頂には、大国主神から邇邇藝命に譲り渡されたという、伝説の天逆鉾(あめのさかほこ)が今も残る。(レプリカらしいが…)
 この鉾は、国家平定に用いられた後、国家の安定を願いつつも、「二度と振るうことのないように」との願いをこめて、この高千穂峰山頂に突き立てられたのだそうだ。

 ご存じの方も多いとは思うが、実はこの鉾を大胆にも引き抜いた歴史上の有名人が居る。それは薩長同盟に奔走し、幕末期を駆け抜けた、かの坂本龍馬である。その坂本龍馬が妻のお龍さんと共に刀傷の湯治と、日本初と言われる新婚旅行を兼ねてこの霧島地区を訪れた際に、この高千穂峰に登り、こともあろうに、その鉾を引き抜いたのだ。そして、その様子を絵入りの手紙で姉の”乙女ねーやん”に伝えている。この手紙は現存しているから伝説等ではなく、事実であるから驚きだ。
 そんな「記紀の世界と幕末の世界」が交錯する、高千穂峰に今夏の家族旅行中に登ることになった。

●登山コース=御鉢~高千穂峰間の俯瞰写真●


■古宮址へ■

 まずはベース地である、高千穂河原ビジターセンターへと向かう。心配された雨はギリギリ降ってはいないものの、霧が所々で発生する中、無事にセンターの駐車場へ到着する。
 ここで車を降り、まずはコース序盤にある霧島神宮の古宮(ふるみや)址に参拝する。

●古宮址の鳥居●


 ここは更に高千穂峰近くにあった、本来の霧島神宮を度重なる噴火から守るために遷された地なのだが、ここでも噴火の影響があるために更に現在の地へ遷したために、ここが古宮址になったのだそうだ。
 戦前の昭和15年に、この地へ斎場が設けられ、現在でも毎年11月10日に天孫降臨の故事にちなんだ天孫降臨御神火祭が開催されているそうだ。

●天孫降臨神籬(ひもろぎ)斎場●



■コースイン■

 家族3人で参拝を済ませ、境内横の登山道入り口からコースイン。最初の内は石畳と石段で構成された道なので、予定通りの足取りで進んで行ける。

●コース序盤の様子●


 コースマップでは「登り1時間半、下り1時間」というから、そんなに距離のあるコースでもなく、ややナメてかかっていたが、石段が途切れ、植生が無くなり始めた頃からピッチが落ちてくる。

●植生の限界あたり●


 これは、地質が火山性の砂礫と溶岩で構成されているコース上に近日来から降り続いた雨が含まれて、重く、滑り易くなっているためで、用意したダブルストックがなければ、かなりキビシイ状況だった。

●赤い部分が溶岩の塊●


 苦労して登るうち、ポツポツと雨が降り出す始末で、更にコンディションが悪化し始める。このあたりから、先に登っていた他のグループも次々に降りてくるが、ここから先では雨脚が強まっているようで、全員がズブ濡れの様子だ。何人かにコース・コンディションを訪ねたが、上部では強風が吹いており、それが原因で山頂まで至らずに、途中で引き返してくるグループもかなりあるようだった。
 ここまでボクと一緒に頑張って登っていた妻と子供だったが、ハードな状況では無理はできないとして、斜面の途中でアプローチを断念することになった。

 当然ここから先は単独での行動になったが、降りてくる人も極端に減ったために、ボクの心中にも「大丈夫なのか?」という不安がよぎり、心細くなってくる。しかし、それでも道標を頼りに…とは言っても一本道で迷いようはないのだが…先へ先へと進んでゆく。

●心の支えの、途中の道標●


■御鉢あたり■

 しばらくゆくと斜面を登り切ったらしく、勾配が殆ど付かない区間に到達する。「そろそろ御鉢の横あたりだろうか?」とは思うものの、ただただ強烈な風に乗ってやって来る硫黄の臭いと、7~8mしかない道幅(…その外側は急勾配で踏み外すと滑り落ちる)が、想像力をかき立てるのみで、全く見通しはきかなかった。

●御鉢の縁●


 見通しは兎も角、閉口したのはこの区間の風の強さだった。「飛ばされそうな」くらい吹いているのだが、「実際には飛ばない」程度の風が吹く中、横殴りの雨に打たれて更に進んでゆく。

 御鉢の縁をしばらく進んだ後は、左斜め方向への緩い下りに差し掛かる。不思議とこのあたりは霧が吹き抜けるのみで雨脚は強くない。どうやら、御鉢の縁は地形の影響で風雨が通り抜ける道筋だったようで、そこを過ぎるとそんなにひどくはない状況だった。それが解っただけでも心の負担が減って、足取りがやや軽くなってゆく。
 そして、降りきったところに鳥居が建っていた。恐らくここが霧島神宮本来の位置のようだ。

●本来の境内跡?に建つ鳥居など●


■ついに到達■

 鳥居脇を抜けた後、この日の往路では最後の1人とすれ違う。ついには誰もいないコースとなってしまったが、ここから先は道標が30m間隔で現れてくるので、それに励まされるような感覚で最後の斜面を登り切る。
 そして霧の中から浮かび上がるかのように現れたのは…。
 見ることを心待ちにしていた天逆鉾だった。

●天逆鉾と御神域●


 早速、荷物を降ろし、参拝をする。ここに来られなかった家族の分までお祈りした後は、じっくりと天逆鉾を見ることにする。
 レプリカとは解っているが、誰も居ない御神域の中、それも濃霧に埋もれる中で見るその姿は幻想的であり、青銅製のため、青緑に怪しく光り、そこに雨がしたたる様子は、今にも天から雷が落ちてきそうにも思える。

●天逆鉾●


 坂本龍馬が「天狗の顔のような形だった。」と手紙に記したため、この鉾の柄の部分もそのように創ってあるそうだ。


●天逆鉾(拡大)●


 ただし、光量が足らず、さりとてストロボが届ききらない距離にあるため、写真にその様子を完全な状態で納めることができなかったのは、残念なことだった。

 天逆鉾との感動的な”ご対面”が済んだ後は、往路を逆に辿るばかりだったが、滑り、崩れる斜面はダブルストックを使って、まるでスキーの小回りターンを繰り返すかのように降りてゆくのがやっとだった。
 そして、予定よりも1時間以上余分に費やした後に、出発点だった駐車場付近に。レインウエアを着込んではいたが、全身がズブ濡れとなっての到着だった。


■霧島神宮へ■

 下山後は、霧島温泉に浸かり、霧島神宮へと向かう。この神宮には邇邇藝命(ににぎのみこと)が祀られている。

●賑わう、霧島神宮の境内●


 一通りの参拝を済ませ、付近を散策する。
 そして、3の鳥居横にある、「さざれ石」に見入る。そう、我が国の国家「君が代」に出てくる、あのさざれ石だ。
 さざれ石とは、学名を石灰質角礫岩というそうだ。「石灰石が水に溶け出し、その水が粘着力の強い状態になって、『つなぎ』の役割をすることで地下で小石を集結して次第に大きくなった状態」を指すそうだ。

●さざれ石●



 
 今回は、順序は同じではないが、坂本龍馬が巡ったコースと同じコースを周遊した。まさか、こんな荒天ではなかっただろうが、このコースを着物と草履で行き来した、坂本龍馬とお龍さん夫妻の健脚ぶり(とは言っても、当時はそれが当たり前で、現代人が貧脚過ぎるのかも知れないが)には驚かされるばかりだった。
 「二度と来ることはないかも知れない。」と思い、今回は半ば無理矢理に高千穂峰に登ったが、できうることならば、晴れた日に御鉢を眺めながら登り、晴天の空にそびえる天逆鉾も見てみたいものだ。

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20年ぶりの熊本城

2014-08-23 12:30:00 | 旅行
■城巡り■

 今から20年前後も昔の話。当時30歳前後だったボクは、日本史、それもベタだが、戦国期の群雄割拠の時代に興味を持ち、関連書籍を読み漁っていた。歴史小説も随分と読んだが、どちらかと言えば、ノンフィクションの方が好きで、そこから得た知識を基に様々な思いを巡らせる日が続いていた。
 本ばかりでなく、実際に行動し、見に行くことも怠らなかった。関ヶ原や川中島といった戦跡巡り、それに城巡りにもよく向かった。行った城を挙げると、大阪城、姫路城、彦根城、福知山城、岡山城、高知城、松山城、松江城、犬山城、名古屋城、岐阜城、松本城、そして熊本城。城跡では、安土城跡、竹田城跡あたりだ。
 ただし、訪問した城の中には張りぼての鉄筋コンクリート製、中には資料や考証を無視し、勝手な想像で造った”あるハズのない城”もあるので、ガッカリすることもあった。逆に、江戸期、もしくはそれ以上昔から残る”本物の城”に出会う喜びはひとしおだった。
 当時は今のようにゲームから広がった、ブームなんてモノはなく、全く整備がされていない城、特に城跡は荒れているところが殆どで、安土城なんかは伝羽柴秀吉邸前の大手?階段はまだ出土しておらず、獣道のような通路を上がった先に本丸跡に出るような状況だったから、昨今の状況には、それこそ隔世の感がある。

 そんな、歴史オジサンだった昔を振り返りつつ、今夏の九州旅行中、約20年ぶりに立ち寄ったのが、豊臣秀吉の重臣、加藤清正が縄張り行い、初代城主となった肥後の名城”熊本城”だった。

■熊本城の今■

 ”歴女”という言葉の出現に代表されるよう、昨今のブーム(といっても大ブームという程ではないようだが…。)のお陰か、ここ熊本城でも築城400年を記念し、本丸御殿の他、各櫓等の再構築や整備が行われている。
 まずは須戸口門(すどぐちもん)から場内に入る。

●須戸口門(すどぐちもん)●


 場内に入って、まず驚くのは城壁の高さと急峻さだ。公式パンフレットの説明によると、最初に入った加藤家によって築かれた石垣の外側に、後に入った細川家が更に石垣を増設した結果が現在の状態なのだそうだ。加藤家の下で竣工し、改易があって細川家が入るまでに20数年しか経っていないが、技術の進歩で、より急峻に石垣を積み上げることができるようになったのだそうだ。

●加藤期、細川期で違う二様の石垣●


 ご存じの方も多いとは思うが、織田信長が六角佐々木氏の観音寺城をヒントに、今の滋賀県下に暮らしていた穴太(あのう)衆を召し抱えて自身の安土城築城に”より高く、より急峻な石垣”を採り入れたのが、本格的な石垣城郭の最初とされている。
 余談だが、安土城以前には天守閣という意匠もなかったというから、織田信長の偉大さを今更ながら我々は思い知らされるが、その壮大な安土城を見た各国の武将達が”憧れの信長流”を盛んに採り入れた結果が、全国に”石垣城郭&天守閣スタイル”が広がった経緯なのだそうだ。

 少々、横道にそれたが、アナログな技術と伝承法しかなかった時代に、織田信長から50数年でこれだけの技術革新ができる日本人の実力を知り、我々の誇りを感じた瞬間だった。

●本丸御殿脇の高石垣●


●振り替えれば…●


 攻め込めば瞬殺されそうな回廊部を抜けると、近年の”売り”である、闇り(くらがり)通路をくぐることになる。

●闇り通路●


 この通路は、20年前の訪問時にはなかった部分で、石垣間をまたぐように渡された本丸御殿によってフタをされた状態になっており、昼間でも暗いためにこの名が付けられたようだ。
 そこを抜けると、本丸の中心部に出る。そして、そこにそびえるのが大小二つの天守だ。とは言っても、これは昭和35年に鉄筋コンクリートで外観復元しただけの天守で、本物は西南戦争で西郷さんの軍に囲まれる3日前に、謎の出火で焼失しているのだ。
 この手の天守閣は昭和6年竣工の大阪城を始めとして全国に多数存在するが、殆どが高度成長期に町のシンボルとして建てられたモノだ。しかし、その当時は「せめて外観だけでも…。」の思いだったのだろうが、今となってはこれはもったいないような気がする。現代であれば、資金、技術の面から考えても、往時の本物に近い状態を木造で再現することも可能だろうと思うし、特に熊本城の場合は写真や資料も多く残っているようだから、尚更可能性は高いようにも思える。しかし、一度建ってしまった状態からやり直すとなると、壊す手間を含めてかなり時間と費用が掛かるだろう。また、シンボルである天守が消えた期間をどうするのかが問題になってくるだろう。だから我慢するしかないのかも知れない。

●鉄筋コンクリート製の天守●


 味気ない天守内部の階段を登ると、城の全景が見渡せる。恐らく多数の櫓等が消失していることだろうが、基本的な景色は往時と変わらないだろう。そして、右下部にある宇土櫓(うとやぐら)を見下ろすことができる。
 その昔、加藤清正であり、豊臣政権下では現在で言うところの政敵のような存在だった熊本の近隣国であるところの宇土城主・小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原の戦いの後に滅んだ際に、宇土城の天守を移築させたという説が流布していたが、平成元年の調査で、始めからこの位置にあったことが判ったのだそうだ。

●宇土櫓●


 店主を降りて、一旦本丸広場に戻り、今度は本丸御殿へと向かう。一般に勘違いされることが多いが、天守は権力を示す象徴であり、籠城の際に城主が籠もり、指揮を執る場所であって、実際の生活空間は別であることの方が多い。そしてここ熊本城では、本丸御殿がそれに当たる。

●本丸御殿内の大御台所●


 今回の訪問で是非観ておきたかったのが、この本丸御殿内にある昭君の間(しょうくんのま)だった。

 
●昭君の間●


 この部屋は、関ヶ原の戦い以降の徳川の世になっても、幼少期より仕えた豊臣家の恩を忘れない加藤清正が、秀吉の忘れ形見である秀頼を迎え入れようとして創った部屋であることが説として残っている。この説では、描かれているのは中国の故事に出てくる王昭君(おうしょうくん)という、女性で、「将軍の間」になぞらえて名付けたとされている。

●昭君の間(天井絵)●


●王昭君像●


 本丸御殿を出た後は、創建時から残る重要文化財の源乃進櫓(げんのしんやぐら)、四間櫓(よんけんやぐら)十四間櫓(じゅうよんけんやぐら)、七間櫓(しちけんやぐら)、田子櫓(たごやぐら)を右手に見上げつつ須戸口門へと向かった。

●重要文化財の櫓群●



■今後も楽しみな熊本城■

 これまで数多くの城を訪問してきたが、この熊本城ほど実戦向きの城は見たことがない。その証拠に、西南戦争勃発時、ここを舞台に攻防戦が繰り広げられたが、250年以上前に加藤清正が築き、決して強いとは言えなかった官軍側の鎮台兵が守るこの城を、精強と言われた西郷軍側が陥とすことは叶わなかった。それをうけ、西郷隆盛は「官軍に負けたのではなく清正公(せいしょうこう=加藤清正)に負けた。」と語ったそうだ。
 この城はそんな加藤清正が描いた機能美と、後に入った、足利将軍家に仕え、教養、知識、茶道、全てを極めていたとされる藤孝(ふじたか=幽斉)、千利休の高弟だった忠興(ただおき)親子を祖に持つ細川家の美意識とが重なり合った、現存では規模、美しさではナンバーワンの城のように、ボクには思えた。

 熊本城復元整備事業計画は今後も往時の姿を取り戻すべく続いてゆくということだ。ボク自身も何年かの後、再々訪問をすこととしよう。
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お盆休み

2014-08-16 12:30:00 | その他
今回は”お盆休み”のため、休刊です。
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荒天続き… 天気予報の話

2014-08-09 12:30:00 | 釣り一般
 結局先週は荒天のために、出船は中止になった。
 まぁ、こうなることは前週から予想はしていたが、何もしなかったので、ネタは殆ど無い。やや無理矢理気味だが、今回は天気予報についての話でもしておこう。

 以前にこのブログでも紹介したが、釣行計画を立てたり、当日の波の出具合を予想するのには、国際気象海洋株式会社(IMOC)のサイト
http://www.imocwx.com/index.htm
で、「波浪予想図」、台風が近付く場合は、同サイトの「台風経路図」を確認することを、最も多用しているが、それらは共に3日後までの予想が基本となっている。
 そのため、「今週がダメなら来週はどうか?」と思い、翌週末の状況を知ろうにも、週半ばを過ぎるまで、普通の週間予報を見る以外に我々素人は手がかりを失うことになる。
 特に台風情報は、「気象庁の台風情報以外の予報を発表することは禁じられている。」ということであるらしく、精度の高い3日程度の情報に限ることは仕方のないことかも知れないが、それでも「何か方法は?」と探し当てたのが、バイオウェザーサービス
http://www.bioweather.net/
の「気圧配置図」だった。この図は1週間先までを確認することができるので、ある程度役に立っていたが、普通の低気圧も台風も同じ低気圧で表示されるため、勢力の衰え具合が判り難く、また、図が荒いため、イマイチ見辛い感があった。

 今期の玄達瀬釣行では、ご存知のように毎回のように天候に振り回されているので、「他に何か解り易いサイトはないものか?」とあれこれ検索する機会が多かった。そうするうちに出会ったのが、「気象予報士Kasayanのお天気放談」
http://blog.livedoor.jp/kasayan77/
というサイトだった。
 このサイトでは台風が近づいた際に、気象庁発表(GSM)を始め、アメリカ気象機関(NOAA)、ヨーロッパ中期予報センター、米軍(JTWC)他が発表するスーパーコンピューターでの解析図を使って、かなり先までの台風進路を解説しているし、それに伴う天気状況も詳しく解説している。

 皆さんにも、釣行計画の参考に是非取り入れてほしい「気象予報士Kasayanのお天気放談」だが、これにより、台風11号が進む方向については、ボクには1週間前からおおよその予想はできていた。そしてそれは現実となり、明日の釣行は中止となった。
 118cmは獲ったものの、夢の130cmクラスには出会えないまま、ボクの玄達釣行チャンスは尽きてしまった。7回予約を入れて、1.5回の釣行。これが今期の玄達釣行の実際だった。

 「行けぬほど 思いが募る 玄達瀬」

不出来な川柳で、今期を締めくくっておこう。
 

 ただし、禁漁自体は8月16日からなので、盆休みに釣行できる人に関しては、まだチャンスは残っているヨ!


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先週は釣行が延期に

2014-08-02 12:30:00 | 船釣り・釣行記
 先週は釣行が延期になったため、今回はまともな更新ができない。
 振り替えれば今期は玄達釣行予定日が全て荒れ気味で、幸運にも波が出ずに夕方まで竿が出せたのが1回、途中撤退が1回、予約するも強風のため中止に至ったのが2回、そして天候以外の理由だが、希望の船が満船で予約できなかった日が1回になっている。
 明日は6回目の予約日で、気になる台風12号の影響がどこまであるのかが決行のカギになる。仮に2週連続の延期になって、10日に変更しても、今度は台風11号がやってくる。どちらか一方で、何とか無事に竿出しができることを祈るばかりだ。
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