中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

蒜山高原への旅

2012-03-31 12:30:00 | 旅行
■蒜山高原へ■

 以前から一度は食べてみたい”B級グルメ”に「ひるぜん焼きそば」があった。少し前に関西ローカルのTVでも放送していたこともあって、思いは高まっていたのだが、我が家のスキーシーズンも終わろうとしている中、車に装着しているスタッドレスタイヤを外す前に、実行に移すこととなった。
 ひるぜん焼きそばの発祥地である、蒜山高原(ひるぜんこうげん)とは、鳥取県にある有名な大山(だいせん)の手前、瀬戸内側にある高原地帯の名称で、信州などの高原に比べると全国的な知名度は低いが、牧場施設や別荘地など、「高原リゾート」としての施設は一通り揃っているので、この地を訪れる中国、関西地方からの観光客は多い。

●蒜山インターを降りると、一面は銀世界だった●


■ひるぜん焼きそば■

 全国のB級グルメが、一堂に会して競い合う「B-1グランプリ」という大会があって、2011年度のグランプリを獲ったのが、この焼きそばだ。
 ひるぜん焼きそばとは、ジンギスカンのタレや味噌だれを用い、具材には鶏肉と蒜山高原産のキャベツを使うことが必須の条件となっている焼きそばのことだ。

●ひるぜん焼きそばのポスター●


●所在は高原各地に散らばっている●


 現地に着く前に、あらかじめ下調べで候補をあげていたのだが、第一候補は冬季休業、第二候補は到着が遅れたために、昼のオーダーストップの時間には間に合わずで、諦めざるを得なかった。そこで、仕方なく幹線道路沿いをウロウロとする羽目になったのだが、しばらく経つと道路沿いに翻る「ひるぜん焼きそば」の幟を発見した。

●この幟が目印●

 そこが「高原亭」という名の、いわゆる、お食事処だった。

●高原亭●
しかしここでもオーダーストップの時間が迫っていたので、飛び込むように中に入り、早速、妻と二人で注文する。

●ひるぜん焼きそば定食●

 味は評判どおりで、ウマイのだが、どこかで食べたような味がする。妻と二人であれこれと考えたのだが、どうやらその味は「味噌味の焼肉のタレ」ということで意見が一致した。

●結構ウマイのだが...●

 しかしながら、何だかんだと言ってもB級グルメであり、楽しめれば良いワケだから、「細かいことは抜きにしておいた方が良いのかも...。」ということにしておく。

■ひるぜんジャージーランド■

 ひるぜん焼きそばは、各店で味が違うそうなので、一軒だけでは判断できないと思い、結構おなかは膨らんではいたが、もう一件立ち寄ることになった。
 とは言っても、開いている店には限りがありそうだったので、大型の施設を目指す。そして程なく、「ひるぜんジャージーランド」という牧場兼、レストラン&乳製品を扱う店に到着した。

●ひるぜんジャージーランド●

 しかし、レストラン入り口には、無情にも下のような札がかかっていた。

●残念!●

 しかし、ここの売りはそれだけではない。ジャージーという言葉の通り、ジャージー種の牛から搾られる牛乳を利用した乳製品が豊富なのだ。
 そして雪が横殴りに降り出すクソ寒い中、ここの名物的存在のソフトクリームを夫婦二人で頬張り、次の施設へと向かった。


■ひるぜんワイナリー■

 最後に向かったのは「ひるぜんワイナリー」というところ。ここは通常のブドウを使ったものではなく、少数派である山ブドウを使うことにこだわったワインを作り続けるワイナリーだ。
  
●ワイナリー入り口●

 あいにく僕には帰りの運転が待っているので、試飲ができない。選択は妻に任せ、味わいは帰宅後の楽しみにとっておいた。

●山ブドウや梨を使ったワインの数々●




 阪神間からだと、車で2時間半ほどの日帰りも可能な距離にある、本格的?な高原地帯が蒜山高原だ。当日はまだ終わらぬ冬の中での旅であったが、これから先、新緑の季節になれば、牧草地は「緑燃ゆる」景色に変わる。そして何よりも夏場の避暑には最適だ。今度はそんな季節に訪れたいと思った蒜山高原だった。
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春の志賀高原

2012-03-24 12:30:00 | アウトドア・スポーツ
■志賀高原へ■

 子供の春休みが始まったのと同時に、家族3人で春スキーへと向かった。行き先は、長野県の志賀高原だ。
 我が家は正月付近と、子供の春休みにスキー旅行に出掛けることが多いのだが、雪の少ないシーズンの初期であっても降雪量に余裕があり、昼間の日差しのために雪質が劣化する春になっても雪質が良い、志賀高原はピッタリの選択になるが、それもこれもこの地が標高が高いためだ。
 今回の訪問時の場合だと、天気予報上では長野市内あたりでは2日目が雨の予報になっていたが、志賀高原一帯では雪の予報になっているから、雨に降られる確率が低くなることも有り難い。


■奥志賀へ■

 1日目はド・ピーカンの晴天日だった。
 子供を、スキー教室へと送った後、妻と連れだって今まで一度も訪れたことのない、奥志賀高原へと向かうことになった。
 当日のベース地は一の瀬地区だったので、ダイヤモンド~山の神と乗り降りし、奥志賀高原とのアクセスポイントである、焼額(ヤケビタイ)山頂から滑り込むことにした。

●焼額のマップ●


 奥志賀高原は、「皇室御用達」のゲレンデとして有名だ。そのためかどうかは知らないが、保守的であり、スノーボードでの滑走が認められていない。

●ボーダーは入れない●
 山頂から、ボトムまで滑ってみたが、広くて整備された感があり、麓のペンション&ホテル街も統一された雰囲気なので、どことなく落ち着いた雰囲気が漂っていた。
 だから、スキーをゆっくりと滑りたい人にとっては最適の選択となると思う。

●奥志賀高原、最上部のゲレンデ●

 ボトムから一気に上がるゴンドラも3人掛け×2列で、列同士が背中合わせになるような配置になっている。だから、小グループ同士で乗り合わせた場合であっても、他人同士が目を合わさないようになっている配慮?が嬉しい。

●内外共に綺麗なゴンドラ●


■ゲレンデをはしごする■

 志賀高原のスキー場群の魅力は、上述した雪質の良さに加えて、横方向に広がる、タイプの異なるゲレンデをはしごできる点も、その一つだ。
 この日も奥志賀高原を皮切りに、そのスケール感を味わいつつ、各ゲレンデを”はしご”していった。

●一ノ瀬ゲレンデ最上部から見る、北信の山々●


■嬉しい誤算■

 2日目は、あいにくの雨模様の1日だった。しかし、それでも標高の高さが幸いして、朝の内は全体に雪、昼近くになると、下部は雨に変わっていたが、最上部付近はかろうじて雪のままだった。
 そんな中、たくさんのスキーヤー&ボーダーが、この地を訪れていた。とは言っても、全盛期とは比べようもないのだが、「お足元の悪い中」、それでも熱心に滑る姿が多く見受けられたし、僅かであるが、リフト待ちする場面もあった。
 この傾向は、正月に訪れたときにも感じていたが、嬉しい誤算であり、暗いニュースが多かったスキー&スノーボード界の復活に繋がる動きであれば、嬉しいと思う。 
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乗合船悲喜こもごも

2012-03-17 12:30:00 | 船釣り・釣行記
■乗合船の楽しさ■

 最近ちょくちょくお世話になっている、各地の乗合船。当然仲間内で貸し切る仕立船(したてせん=チャーター船)とは違って、様々な人と出会う。
 乗り合わせる人達によって、当然その日その日の楽しさも違ってくる。今までには、知らない釣り人と雑談しながら一日を楽しく過ごすこともあったし、情報を交換しながら効率よく釣ることが出来て一人で釣るよりも釣果が伸びる日もあった。逆に全くしゃべらない日もあったが、不快な気持ちになったことは、ほとんど無い。しかし、釣り界は変人の宝庫ともいわれるだけあって、頭の中が「???」埋め尽くされてしまうような釣り人に遭遇することもある。
 今回はそんな悲喜こもごもを紹介しよう。

■いきなり自慢を始める男■

 釣り天狗という言葉があるように、概して釣り人は自分の釣果を自慢するが、中には聞いてもいないのに勝手にしゃべり出す人が居る。昨秋、そんな男に出会った。
 その男はボクと目があった瞬間に、
 男 「この船は初めてですか?」
 ボク「いいえ2回目です。」
 男 「それやったら、教えたるけど、この船長は、よう釣らせる船頭やで~」
 ボク「そうなんですか?(だから来たんだけど)」
 男 「何しろ私は2年前に90cmのマダイを釣らせてもらってねぇ。」
 ボク「へ~、それは春にですか?」
 男 「いや、秋に。」
 ボク「春ならいざ知らず、秋にやったら大したもんですなぁ。」
と、チョッと褒めてやったら、この男は調子に乗って「どこそこでは何cmを釣って」とか、様々な自慢話を続けだした。それがあまりに長く、そのマダイ以外のサイズは大したことがなく、鬱陶しくなったので、目を合わさずに上の空の顔をしてやると今度は周りの釣り人に自慢を始める始末。
 振り返ってみると、この手の釣り人には何度も出会っている。他の趣味なら、例えばスキーのリフトにたまたま乗り合わせた初対面の人に対して、いきなり「基礎スキーの1級を持ってます。」なんて言う人は居ないし、酒の席ならいざ知らず、こんな人を見るのはボクの知る限りでは釣りの世界だけのことだ。
 

■竿を貸さない師匠■

 今から10年ほど前、和歌山県の印南沖でのこと。その日に乗ったマダイ釣りの乗合船の席順は先着順=船内にクーラーを置いた場所がそのまま自分の席となる方式だった。
 僕が乗ったのは中間よりやや後方。その右横に隣り合わせたのが、初心者風の釣り人で、そのまた右横が、その初心者君が「師匠」と呼ぶ釣り人だった。
 タックルのセッティングなどの準備をしつつ、船は最初のポイントに向かっていた。その最中に、ふと横に目をやると釘付けになった。どうやら初心者君は師匠の道具一式を借りている様子だったが、その道具がオンボロでヒドかったのだ。
 リールをセットできる竿には、通常「ガイド」という、糸を通す器具が付いているのだが、その内側のリールからの糸が触れる部分には、余程の安物竿以外を除けば、摩擦を軽減するために「ガイドリング」という、摩擦係数の低い素材でできた輪っかが着いている。しかし、この初心者君が借りた竿は、トップ・ガイドという一番先端の、一番負荷の掛かる大事な部分の、本来は着いていたハズのガイドリングが抜け落ちていた。これでは糸が行き来する度に擦れ、仮に大物が掛かった際には切れてしまうかも知れない。「よくもまぁ、そんな竿を…。」と、ボクは思ったが、他人事ゆえ、黙った見ていたのだが…。

 しかし、天はその初心者君を見放さなかった。何と、周囲では一番最初に、その初心者君が50cm程のマダイを釣ったのだ。
 横に居た師匠は「良くやった。」なんてセリフをこの時点では言っていたようだが、しばらくの間があって、再び50cm程のマダイを釣ってしまった後は、余裕が無くなったのか、明らかに反応が変わっていった。
 初心者君にとって50cmのマダイは大物であり、嬉しさが表情にも出ていたが、良いことばかりは続かない。やり取りの際に衝撃を受けたせいか、リングの無いトップガイドの金属が千切れて、とうとう糸がトップガイドから外れてしまった。
 しかし、初心者君はその事には気付かず、そのままの状態で釣りを続けようとしたが、このままでは、いつライントラブルで魚を逃がすかも知れず、あまりに可哀想なので、たまらずボクが
「トップガイドが千切れてるから、そのままでは道糸が切れたり、竿が折れたりするよ。」と指摘することとなった。

 慌てた初心者君は師匠にトラブル発生を知らせたのだが、この師匠の返答がスゴかった。
「もう一本、イイ予備竿を持っているんやけど、高級すぎて今のオマエには早過ぎる。」とか何とかドケチな言葉を吐いたあと、
「大丈夫だから、そのままで釣れ。」と、信じがたいアドバイス?を与えたのだ。
ボクは「何ちゅう心の小さいオッサンや!」と思ったが、ここは口に出さず、釣果で差をつけて「アンタは師匠に値しない」ということを示してやろうと、懸命に投入を繰り返し、釣り続けていた。

 そんな中、何も知らない初心者は、勿論そのままで釣り続けている。そして、またもや彼の「超オンボロ借り物竿」に大きな当たりが出て今度は70cm近いマダイを釣り上げてしまったのだ。
それを受けて師匠は、
「おめでとう、もう今日のオマエには言うことはない」と口では言っていたが、明らかに憮然とした表情であり、以後は釣果を逆転しようと、必死の形相で釣りを続けている様子であった。
 この時点で、初心者君を挟んで師匠とボクは本命であるマダイの釣果はゼロ。
「あんなオッサンに負けてたまるか!」とボクの闘志もメラメラと燃えていた。
 そんなボクの願いが天に通じたのか、しばらくの後に竿が大きく絞り込まれていった。その様子からして、良型のマダイのようであった。しかしながら、師匠への対抗意識で焦っていたのか、何とか釣果を得ようとハリスを細くした際に、ドラグの調整を忘れていたようだ。そのために、竿を掴んだ瞬間にハリスが飛んで瞬殺されてしまったのだ。
「しまった~!」と思った矢先、悪いことに師匠と目が合ってしまった。完全に見られていたようである。しかも、あろう事かニヤッと笑いながら、「今のは残念やったな~。」とほざかれてしまった。
「オマエにだけは言われたくないワ!」と思う相手から指摘されるほど辛いものはなく、打ち拉がれたままに、その後も懸命に釣り続けたが、願いも虚しく、マダイの釣果を得ることがないままに、納竿時間がやってきた。当然!だが、師匠もにマダイの釣果はなかった。

 最悪だったのは帰港中の船室だった。他の釣り人の前で師匠は、初心者君に釣れたのは、自分のアドバイスのおかげであるかのようなことを言い、返す刀でボクの方に向かって「それにしてもキミのは惜しかったな~。」と傷口に塩を塗る始末だった。
 言い返そうにも気力が果てて、切れ味鋭いツッ込みを返せそうになかったので、黙っているしかなく、着岸まで苦痛の時間を過ごすハメになってしまった…。
 そんな中、師匠の心中を察したのか、初心者君は、けなげにも
「こんなに魚があっても喰いきれないから、一匹持って帰ってください。」と師匠に申し出るのであった。ボクが師匠の立場ならプライドが許さないから、そんな魚は受け取らないだろうけど、驚くことに、それを聞いた師匠は笑みを浮かべながら、「そうか、そうか」と納得の様子だった。
「どこまでも心の小さいオッサンやなぁ~。」と思いつつ、そのやり取りをボクは聞いていたが、今度はその師匠、マダイの料理について講釈をたれ始めるのであった…。
「え・え・か・げ・ん・に・せ~・よ!」と心中でつぶやきつつも、あまりのアホさ加減に怒る気持ちも萎えて、笑ってしまったボクであった。

 そんなこんなの乗合船だが、「人間ウォッチするのも楽しみの一つ」としてボクは受け止めている。今度の船にはどんな人が乗ってくるのだろうか…。


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ようやくの舞鶴沖

2012-03-10 12:30:00 | 船釣り・釣行記
■週末ごとの北西風■

 舞鶴沖へ出る際に、近頃、その釣り姿勢に信頼を寄せている、「ブンブン丸」さんへは何度も予約を入れてはいたが、週末ごとに強く吹き出す北西の季節風に翻弄され、1月の後半から2月いっぱいまで、一度も釣りをすることなく過ごしていた。そして3月に入ってようやく、天候の落ち着く日が到来し、出漁機会を得た。
 しかし、今年のメダイは数が出ていないらしく、釣果が「そこそこの日」と「悪い日」が繰り返され、なかなか大釣りの日が来ないようである。
 ボクの場合はメダイ釣りに目覚めたのが、昨秋からなので、「大釣り」を体験しておらず、基準が判らないので、その点では苦労して何とか得る「そこそこ」の釣果で、ある程度は満足はできるが、一度くらいは何も考えずに釣れ盛る日が来て欲しいものだ。はたして今回はどうなるのだろうか…。

●停泊中のブンブン丸●


■くじ運■

 日頃の行いが悪いのか、ボクは生まれてこの方「くじ運」というモノに恵まれたことがない。子供時代に雑誌の懸賞などへは散々応募したが、一度も当たったためしはないから、「ハズレ」には慣れているし、ジャンケンの弱さもその頃からずっと続いていて、「一抜け」なんてほとんど無い。
 極めつけは「おみくじ」だ。何しろ、初詣等で喜び勇んで引いたところで、ほとんどが凶であり、その確率は9割近いから、ここ近年は引くことすら辞めてしまっている。
 そんな人生?を送ってきたせいだろうか、乗合船に乗船する際、席順がくじ引きで決まるのなら、その日の釣りの展開が釣り座によって大きく変わるだけに、抽選時はこの上なく緊張する。
 前回の訪問時は兄と一緒だったが、残りくじが2番と5番(この船のくじ引きは基本定員の4人で引くが、(4は欠番)になった時点でボクが引いて、見事5番くじを引き当てた。ただし、この時は確率2分の1だから、そうなったのかも知れない。だから今回自ら進んで1番最初=5番くじを引く確率が25%の状態で引かせてもらうことにした。そしてその結果は…。言うまでもなくビリッケツの5番くじだった…。

●今回の釣り座も“定位置”●


■幸か不幸か?■

 まずは前回同様、経ヶ岬沖にある「白石グリ」へと向かう前に手前にある魚礁でメダイを狙う。到着してみると、潮が全くと言っていいほどに動いていなかった。
 海で釣りをする人なら誰でも知っているだろうが、潮が動かないと魚は、なかなか口を使ってくれないし、マキエサが潮下方向へと流れてくれないので、周囲に居るであろう魚達を自分の仕掛の周りにおびき寄せることが出来ない。だから、マキエサは仕掛の真下方向に流れる確率が高く、その意味では「これでは釣り座の優劣がつかないかも?」とは思えるが、どっちにせよ苦戦は確実だった。
 こんな場合は、船頭さんの腕が問われるのだが、このブンブン丸さの船頭さんは、長年釣りをしているボクが感動するくらいに、状況に合わせた位置調整を繰り返してくれるので、その点では安心できることが救いだ。

 とりあえず、5本バリの胴付き仕掛をセットして投入を開始する。タナは様子伺いのために、先端のオモリの位置を底から5m付近とし、カゴに詰めたマキエサを振り出して、様子を伺う。すると、すぐに反応があってロッド・キーパーにセットした竿が舞い込んでいった。
 幸先の良い、ファーストヒットだったが、サイズは大したことはなく、相手は50cm弱のメダイだった。

●小型のメダイは体色が青みがかる●


■待てど暮らせどアタリ無し■

 幸先の良いスタートだったが、動かない潮の影響は大であり、期待に反して以後は「全く気配無し」の状況が続く。勿論?それは僕だけの話ではない。
 あまりの状況に船頭さんが、船を掛ける位置を調整を繰り返してくれるが、ウマく魚の真上に来たときだけにポツンと稀にアタリがあるだけだった。
 たまらず移動した白石グリでも潮が動かない状況は変わらず、完全フカセの仕掛は真下に落ちるのみで、一向に気配は上向かなかった。そして、数投するのみで、退散する有様だった。
 次に向かったのは午前中とは違う位置にある魚礁だった。相変わらず潮が動かない状況であったが、船頭さんの「ここは来ればサイズがデカイ」という言葉に気合いを入れ直し、仕掛を天秤ズボスタイルに換えて、攻め直すことにした。


■大バラシ■

 投入開始から数投目で、ボクの背中側に居た釣り人の竿が大きく曲がり込んだ。様子からすると大メダイのようだったが、途中でバラしてしまった。
 「やはり居たんだ。」という答えが出ただけに気分も上向き、実際にボクの竿も程なく曲がり込んだが、午前中と同じ50cm弱のメダイを2匹得た他は沖メバルが数匹の釣果に留まっていた。
 船中全体で連続したアタリはなく、そろそろ終わり時間が見えかけた頃、ようやくボクの竿が大きく舞い込んだ。
 アワセを入れると、大メダイのようであり、ズンズンと強烈なパワーで竿をひん曲げる。後ろでバラシがあっただけに「慎重に、慎重に」と自分に言い聞かせながらやり取りを開始した。
「どうせ根に入る(海底の岩の隙間等に入る)魚ではないから、ドラッグを緩めて初期のパワーをイナしてやれば、後は楽勝だろう。」と思い、リールから糸を送り出してやるが、これがイケなかった。
 実は、このあたりの水深は92m程度。「底から6m付近にハリの着いたエサを漂わせよう。」と意図した仕掛に喰ってきたのが、この大メダイらしき魚であったのだが、強烈な締め込みを繰り返すうちに、気付けばリールのカウンターは水深分を超えて96mを指していた。そして「このままではヤバイ」と思った瞬間に突然相手の動きが止まった。
 「ここからボクの逆襲の始まりか?」と思ったが、どうも様子がおかしい。今度はウンともスンとも動かなくなってしまったのだ。どうやらオモリが付いた仕掛が海底を這った結果、それが引っかかって根掛かりが起こってしまったようだ。船頭さんの協力でそれを何とかハズしてみたものの、回収する際に抵抗はなく、魚はハリから外れていた。そして、無常にもその30分後に納竿時間がやってきた。


■反省はしきり■

 帰港するまでの1時間半は「たら、れば」が頭の中を巡り、反省することしきりであった。普段は簡単に釣れるらしいが、今シーズンに関しては難しい状況が続いているという、メダイ釣り。まぁ、簡単に釣れないから面白いのであって、「仮に大釣りが続くとボクのことだから飽きてしまうに違いない。」と、負け惜しみを言っておこう。シーズン・エンドはまだまだ先らしいので、しばらくはボクの舞鶴通いが続くであろう。
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冬の大徳寺 その2

2012-03-03 12:30:00 | 旅行
■高桐院■

 最期に向かったのは高桐院(こうとういん)。この塔頭は、戦国期で一、二を争うほどの「文化人・教養人・お洒落人」、そして千利休の高弟とも言われる、細川藤孝(幽齋)を弔うために、息子忠興が創建した塔頭で、以降、細川家の菩提寺となっているそうだ。細川氏とは現在にも続く名家であり、日本新党から首相になった細川護煕(ほそかわもりひろ)氏が18代目の当主をつとめている。

●門構えからして他の塔頭とは違う雰囲気が漂う●

●門から続く石畳の参道●

●松向軒という名の茶室●

●秋には紅葉で赤く染まるという、本堂前の庭●

●左下の「つくばい」は、加藤清正が朝鮮から運び入れたもの●

●採光までもが計算されている●


 さすがに細川家の菩提寺だけあって、何から何まで計算しつくされた感があり、センスの塊のような塔頭であった。


■境内散策を終えて■

 同じ禅宗の寺院といっても、秋に行った「東福寺(とうふくじ)」のように、時の政権の庇護によって大金がつぎ込まれた感のあるものとは違って、ここ大徳寺は有名戦国大名が関わっている割には質素な感があり、禅宗本来の雰囲気が漂っていた。
 調べてみたが、鎌倉幕府の滅亡時近辺では後醍醐天皇の保護を受け、建武の新政時には、この大徳寺を京都五山のさらに上位に位置づけしていたそうだ。
 しかし、ご存じの通り、後に後醍醐天皇と敵対した足利氏が天下を取り、室町幕府を開くと、今度は五山十刹の最下位に近い、十刹の第9位にまでおとしめられるまでに至ったそうだ。
 これを受けて大徳寺は、幕府の庇護と統制下にあって世俗化しつつあった、五山十刹から離脱し、座禅修行に専心する独自の道を歩んでいったそうだ。だから、このために質素な雰囲気が流れているのではないのかとボクは思っている。
 また、権力に屈しない茶人、千利休とも関係が深く、豊臣秀吉による利休切腹令の原因とも言われる、「雪駄履きの利休木像」は、この大徳寺の三門内にあったというから、その反骨精神はずっと続いていたのだと思われる。
 戦国大名とは言っても、元々は質実剛健な武士達だ。そういった価値観に共鳴したことが、彼らがここに塔頭を建立していった理由なのではないかと思う。

 同じ禅宗であってもそれぞれの特徴があって見る分にはとても楽しい。まだまだ、京都の寺院巡りは続きそうである。
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