中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

バーチャル体験は子供に必要なのか?

2008-11-24 13:23:07 | その他
 先日、自宅近くにあるショッピング・モール=ららぽーと甲子園で買い物をしていると、そこに巨大な施設が建ちつつあった。そう、チョッと前から関西地区の一部では話題になり始めている「キッザニア」という施設の関西版=「キッザニア甲子園」だ。

 キッザニアという施設は子供達が施設内にある、いわば小国内で「消防士、モデル、パイロットなど(=ユニフォームまで用意されている)」80種以上ある職業の中から自分が望むものに就き、中での取引は専用の通貨で行うというバーチャル社会体験施設だ。
 だが、個人的な意見ではあるが、このようなバーチャル施設に対してワタシの意見は「?」だ。
 建物=箱の中で、種類は多数の中から選べるものの、あらかじめ設定された物を体験させるのは、子供に絵を教えるのに際して、塗り絵ばかりを練習させているような気がしてならない。それを繰り返しても、本物の絵はなかなかうまくならないだろうし、肝心要(かんじんかなめ)の自由な発想が湧いてくることは少ないだろう。やはり絵を描かせるのなら、やはり白い紙の上に自由に書かせるべきだと思う。

 今、倉本聰氏のエッセイ集=「失われた森厳」を読んでいるが、その中にこんな話が出ている。(概略しているけど。)
 「気候の異常を子供に気付かせず放置していることは困る。知識ばかりどんどんつめこむが子供に感性の錬磨をさせることをおこたっている今の世の中、教育現場は困る。困るというより危険である。」「日本では緑色を表現するのに、黄緑色、若葉色、草色、鶯色(etc...以下32種)と、グラデーションの中で様々な緑を昔の日本人は識別していた。」「しかしながら、現在の日本では緑といえば黄緑、緑、濃い緑くらいにしか識別せず、それ以上を子供達に伝えようとしない。」「代わりにむずかしい知識だけを教えこみ、感性の部分は置き去られている。」「しかし、我々が周囲の環境から、異変の予兆、危険の接近を関知するのは究極的には感性の世界である。」

 バーチャル体験をした結果「な~んだ、こんなもんか?」と思ってしまうよりも、子供は子供なりの想像で夢を大きく持ち、持続させ、それに向かって努力してもらいたいものだ。そして、感性を磨き、自由な発想ができる子供に育ってほしいとも思う。だからこそワタシは子供を大自然の中に連れ出すべきだと常々思っているのだ。
 近頃の若者達は外に向かう気力や興味が少なく、例えば「海外旅行をしたがらない=パスポート保有率の大幅な低下」「車は要らない」「洋楽は言葉が理解できず、面倒くさいから聴かない」らしいが、反面老後が不安なので貯蓄率が高いと言われている。これらは不況の影響もあろうが、情報を得すぎた結果、先が見えてしまい、ヤル気が起きないからだという説もある。それに加えてゲームやインターネットを含む、バーチャル体験の繰り返しも一因にあるのかも知れない。


 お母さん方が子供にせがまれて行く分には「仕方がない」という思いもあるが、少なくとも子供に本物体験をさせてやるべきオヤジ達が、自らすすんでバーチャル体験施設へ連れていくことには反対なのだ。しかし、このキッザニア、東京では好評だと聞く。はたして関西でも同様の結果になるのだろうか…?。
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たくましき世代

2008-11-22 09:57:50 | その他
 先週こそはと、釣行計画をたてていたのだが、親戚に不幸があってそれどころではなくなった。 そしてオヤジと共に葬式へ行くことになった。一通り式が進み、食事の時間になった。こういう時によくあるパターンだが、昔話に花が咲き、やがてはオヤジ達兄妹の少年時代の話題になっていった。

 オヤジは5人兄妹の2番目で次男として生まれた。故郷は和歌山の田舎町?=というよりも田舎そのものだが、時代は戦前、少年だった頃のオヤジ達兄妹は家業のお祖母さん(私ににとっての)食品、日用品から釣具までが揃う「何でも屋」と、お祖父さん(私ににとっての)がやっていた大工との兼業を手伝いをする毎日だったそうだ。
 しかし、時代が時代だけに物資が豊富にあるわけでもなく、大事な商品を取り崩して使ったり、食べたりする訳にはいかないので、半ば自給自足の生活をしていたそうだ。日常の糧を得るのは近くの自然の中だ。川ではアユ、ウナギを、海ではイガミ(ブダイ)やグレ(メジナ)を釣り(あるいは獲り)、山では鳥を捕まえて食卓に添えることがよくあったそうだ。
 当時は粗末な道具しかないので、時にはそれに手を加えてより使いやすくしたり、時には道具そのものを一から作っていたそうだ。更に大工の手伝いもさせられていたので、特に男兄弟はみんな「おかげで手が小器用になった」と言っていた。そして、兄妹あるいは一人で知恵を絞り、よりたくさんの獲物を捕るための努力をしていたそうだ。

 以前にこのブログでも触れたが、少年時代に人から与えられる、「出来合い物」ばかりで育った人間よりも、自分で考え、工夫することを覚えた人間の方が困難に遭遇した時にはそれに立ち向かう根性が湧きたち、それを乗り越える知恵が働くのでは?と、小野田寛郎さんも言っていた。オヤジの人生に振り返ってみると、それも正解かなと思える。

 オヤジは明治生まれの両親の元に生まれ、日々家業の手伝いを無償で行い、学校では戦前、戦中の軍国主義教育を受けて育ったが、中学卒業のあたりで敗戦を迎えて方針が180度変わり、「今日から民主主義ですよ」と言われた世代だ。
 その後、オヤジは頑張って勉強し、某国立大学を卒業したが、運が悪いことに卒業寸前に朝鮮戦争の好景気が終わり、一変した大不況の中での就職活動の末にようやく見付けた仕事が全国ドサ回りの営業部員という仕事だった。
 この時代には、それこそ極寒の北海道網走で地元のおばあさんに同情され「何の事情があってここに来たのかは知らんが、不憫じゃの~。」と泣き出されるような環境の中、汽車を乗り継ぎ、営業マンとして全国を回っていたそうだ。
 そんな苦労をしながらも数年経ったある日、労働争議に巻き込まれ、あえなく退職(というかクビ)せざるを得なくなり、その後母と縁があって結婚して中島物産を引き継ぐが、何度もの危機を乗り越えようやく落ち着いた頃にバブルが崩壊するという波乱万丈の人生を送った。
 そんな人生を送り、今80歳近くになったが、一貫して言えることは心身共にタフだということだ。こんな人達がそこら中に沢山居たからこそ、我が日本は戦後奇跡の復興を果たしたのだろう。

 オヤジの人生を見ると、少なくとも幼少から培った体験や苦労が身になり、知恵となるということは確かなようだ。私もその血を引き継いではいるはずだが、まだまだ足りないのだろう。やがて我が息子がワタシの人生を振り返る時には「オヤジはタフだった。」と言われてみたいものだ。そのためにはまだまだ修行が必要だ。また、我が息子が未来の我が孫にそう言われるよう、いろんな経験を子供に積ませてやりたいと思う、今日この頃なのである。
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カレーと哲学

2008-11-08 10:50:00 | その他
 釣りに行きたいとは思ってはいるが、なかなかタイミングが合わず、実行できない日々が続いている。

 実は夏の、釣りのオフシーズンから、休日に家庭で料理をするようになっていた。(って、どこが「外で遊ぼうやねん!」とツッ込みを入れないで!)
 元々、青物のような回遊魚と同じで、止まってボ~ッとしていると息が詰まってしまう。家で居る時も何かをしていないとイライラする性格なのだ。そこで始めたのが料理という訳だ。
 まず始めはキャンプ料理のレーパートリーを増やすのが目的だったために、家の中に”ダッチ・オーブン”を持ち込んでチャレンジしていたのだが、次第にフツーの鍋などでもするようになり、レパートリーは増えている。中でも最近凝っているのが、カレーだ。
 元々カレーはルーと呼ばれる市販されている固形のものを使っていたのだが、凝り出すと深入りするタイプなので、本を片手に単体のスパイス


のブレンドをしながらの製作に変わり、「ラム・カレー」や「チキン・カレー」等々レパートリーが次第に増えっていった。

 最近、とあるキッカケでインド哲学や釈迦の哲学に触れている本を見ていたが、その中に「空観(くうがん)」という思想の話が出てくる。これは、例えば、映画館で見る映像はリアルなものに見えるが、スクリーンの極近くで見るとタダの光の粒にしか過ぎない=目の前にあるものは突き詰めるとタダの素粒子でしかない、という思想だそうだが、おいしいカレーも実はスパイスの粒でしかないという点で見ると、これもインド哲学の一部なのかな?と勝手に理解をしてしまった。(って、チョッと無理があるかな…?!)
 
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「里山で子どもたちが輝く」を見て

2008-11-01 14:47:20 | その他
 先日NHKでやっていた「里山で子どもたちが輝く」という番組を見た。これは千葉県の木更津市の里山で開かれている土曜学校という教室?(プログラム?)での約半年間の様子を撮影したドキュメント番組だった。

 ここには決められたプログラムなんてほとんど無い。数人の大人の指導者がいるにはいるが、ほとんど全てが90人以上いる子供の自主性に任されており、穴を掘って池を作るグループもあれば、ナイフで竹とんぼを作る子もいるし、中には差し入れされた鰹の三枚おろしに、包丁を片手に挑戦している子供たちまでがいる。
 小学1年生から6年生まで学年の枠を超えた異年齢集団の中で、遊びや、スポーツ等を通じ、上級生は下級生の世話をしながらリーダーシップを身につけ、下級生も上級生から学びながら社会性を身につけてゆく。こういう教育方法を「モンテッソーリ(モンテストリーと言う人もいるが)教育」というらしいが、それを里山という自然環境の中で実践しているところが素晴らしい。

 余談ではあるが、自然の中で子供を育てることが、健全な心の育成によいということは、ある程度のデータがでているらしい。詳しくはフィールドライフというアウトドア雑誌がコールマンと一緒に編集した「自然が子どもを成長させる」を見て欲しい。(好評だったらしく、今ではWEBマガジンで見ることが出来るので下のアドレスをコピー&ペーストすべし!。)
http://dpm.sideriver.com/weblish/sideriver/coleman001/pinfreevue_ie.shtml

 
 番組を見進めていくと、蛇や蜂が出てくるという、この里山で、ある子供達は走り回り、ある子供達は雨の日に泥にまみれ、ある子供達は工作をして、ある子供達は料理をして、自分の個性にあった何かを学びながら経験を積んでいく様子がよく解る。何かをしている上級生にちゃんと「教えてほしい」と言える子は会話をしながら、それが言えない子は横に立ったまま上級生達の動きを目で盗み、見よう見まねでやっていく。時には掴み合いのケンカも起こるが、そこに大人は介入しない。子供達同士で解決の糸口を見付けてゆくのだ。こうやっていく内に自己解決能力(対処能力)が伸びてゆくのだろうと思うと、そこに写っている子供達の未来が頼もしく思える。

 ある日、田植えの最中にドロ遊びではしゃぎ過ぎて腕を骨折した子供がいた。その子は泣きながら土曜学校を退出していったが、それでも2ヶ月ほど経つと無事復帰してきた。その際、今の世なら一部に「折れた責任をとれ」と学校側にに詰め寄る親もいると聞くが、この学校では違う。「子供がまた参加したいって言うし、こんな体験はここでしかできないから。」と当たり前のように言う、その子の母親の笑顔が、見ていて嬉しかった。

 考えてみると、ワタシの子供の頃は、わざわざこういう「土曜学校」のような特別なプログラムに参加しなくても、ある程度は自然に経験できていたように思う。以前にも書いたが、ワタシの育った地域にある甲子園の砂浜では、ある時は兄貴達のグループや、上級生達に教えてもらったり、ある時は見よう見まねで、焚き火をしたり、流木を集めて筏を作ったりしたものだ。そうやって覚え、経験を積んだ結果、素晴らしく立派な大人になったとは決して言えないものの、少しだけだが小器用でチャレンジ精神旺盛な人間にはなれたかな?とは思う。
 だが、今時の子供達を見ると、少子化の影響なのか、こういう機会が確実に減っているように思える。近くに土曜学校のような施設がある場合は任せれば良いのかも知れないが、なかなか見あたらない。であれば大人=特にオヤジがそれを子供にしてやるしかないように思う。子供達をデッカイ大人に育てる為にお互いに頑張ろうではないか。
 
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