只今冬眠中につき、自動更新にてお知らせしています。最新記事のアップは、来年1月11日を予定していますので、それまでの間、しばらくお待ち下さい。
和食材を製造するのが家業のボクにとって、今の時期は超繁忙期になる。従って年末まではマトモな休みがない。従って、早、ここらで今年一年の終わりの記事になってしまうことをお許しいただきたい。
今年の釣りは昨年秋から続くヒラマサの好漁に乗って、それを追い回してばかりいた。お陰で渓流釣りの回数が減り、大したサイズを釣らず終いで禁漁期を迎えてしまった。また、昨年新たに取り組みを開始したタテ釣りに関しては予約を入れた日、全てが”お流れ”になってしまい、一度も竿を出すことなく、オフシーズンになった。
年間スケジュールとしては、冬~桜の咲く頃までは、冬の晴れ間を狙って沖釣りでメダイその他を狙い、春本番~ゴールデンウィークが渓流釣り、梅雨前~初夏は天候次第で玄達瀬でヒラマサ釣りと渓流釣りのどちらか。そして夏休みを挟んで秋口からはタテ釣りと渓流釣りのどちらか、秋本番からはヒラマサが釣れていれば沖釣りと考えていたのだが、荒天のために日程がずれ込んで予定が狂いっぱなしだった。
荒天と言えば、夏後半からは週末、特に日曜を狙い澄ましたかのようにそれが襲い、釣りだけではなく、登ろうと考え、宿の手配までしていた、木曽駒ヶ岳や燕岳(つばくろだけ)にも行けなかったので、ほとんどが思い通りにならなかった一年だった。
来年はもう少し予定の消化できる年になってくれると有り難いが、それは”お天道様次第”ということだから、ボクに努力のしようはない。しかし、弱小ながら、このブログを見てくれている人々にとって、少しでも役に立てる良いレポートが書ける一年であって欲しい。そう願いつつ、
「今年も一年読み続けてくれてありがとうございました。」
と、ご挨拶してこの一年を締めくくりたいと思う。
今年の釣りは昨年秋から続くヒラマサの好漁に乗って、それを追い回してばかりいた。お陰で渓流釣りの回数が減り、大したサイズを釣らず終いで禁漁期を迎えてしまった。また、昨年新たに取り組みを開始したタテ釣りに関しては予約を入れた日、全てが”お流れ”になってしまい、一度も竿を出すことなく、オフシーズンになった。
年間スケジュールとしては、冬~桜の咲く頃までは、冬の晴れ間を狙って沖釣りでメダイその他を狙い、春本番~ゴールデンウィークが渓流釣り、梅雨前~初夏は天候次第で玄達瀬でヒラマサ釣りと渓流釣りのどちらか。そして夏休みを挟んで秋口からはタテ釣りと渓流釣りのどちらか、秋本番からはヒラマサが釣れていれば沖釣りと考えていたのだが、荒天のために日程がずれ込んで予定が狂いっぱなしだった。
荒天と言えば、夏後半からは週末、特に日曜を狙い澄ましたかのようにそれが襲い、釣りだけではなく、登ろうと考え、宿の手配までしていた、木曽駒ヶ岳や燕岳(つばくろだけ)にも行けなかったので、ほとんどが思い通りにならなかった一年だった。
来年はもう少し予定の消化できる年になってくれると有り難いが、それは”お天道様次第”ということだから、ボクに努力のしようはない。しかし、弱小ながら、このブログを見てくれている人々にとって、少しでも役に立てる良いレポートが書ける一年であって欲しい。そう願いつつ、
「今年も一年読み続けてくれてありがとうございました。」
と、ご挨拶してこの一年を締めくくりたいと思う。
■丹波路へ■
今秋は、荒天で釣行やハイキングの予定がずれ込んだため、紅葉見物に行く機会が極端に減っていた。そんな中、ようやく巡ってきたタイミングを生かそうと、とにかく丹波路に走ってみることにした。しかし、紅葉期は既に終盤を迎えていることがネット情報で流れていたことが気に掛かっていたのだが…。
■岩瀧寺■
紅葉のピークが過ぎていたとしても、寺域のレイアウトの面白さから、「見る物多し」と判断していた寺の一つが岩瀧寺(がんりゅうじ)という、兵庫県の丹波市(氷上町)の尼寺だった。
岩瀧寺は弘仁年間(809~823)に、嵯峨天皇が弘法大師に命じて、七堂伽藍を建てさせたのが開創といわれているらしいが、天正時代の兵火によって資料がほとんど残っていないため、定かなことは判らないというこらしい。
思えば丹波地方には”天正時代の兵火”で焼失した寺が多くある。勿論この時代は織田信長が天下統一を目指していた頃であり、その命を受けた方面軍司令官であるところの明智光秀が丹波平定に向けてこの地で激しい戦を繰り広げていた。寺院と言っても僧兵を抱え、実質”小城”として使用していた時期があったように、有事には砦として使えるので、いざ戦となれば、その地の支配者が抱える将兵が立て籠もることが多くなる。従って焼き払い等の苛烈な攻めが焼失の経緯なのだろう。しかし、その連続は守旧的な部分が性格にあったといわれる明智光秀にとって精神的に堪えるところがあったのだろうか?と思われ、それが後の謀反の原因の一部にあったのであろうと、勝手な想像をしている。
訪問当日は紅葉のピークを過ぎいたことに加え、夕刻に近い時間帯だったせいか、駐車場に駐まる車もほとんど無く、閑散とした状態だった。
まずは車を降り、右手方向にある参道を登って山門へと向かう。
この山門は大正天皇の即位を記念して創られたということで、大正門と呼ばれるそうだが、境内全体のイメージからすると、もっと古いようにも感じられる。
本堂には観音菩薩や愛染明王が祀られているそうだが、本尊は後述する別の場所にある。
そして、境内に派手さはなく、ひっそりとした空気が流れている。
本堂脇を抜けると、四国八十八箇所の本尊が石仏化され、並べられているところに出る。これは、そこを回れば「八十八箇所を巡礼したのと同じ御利益が得られる」という意味で並べられているのだが、こういった発想は我が西宮市の神呪寺前にもある。ただし、神呪寺のモノは交通手段が不十分だった江戸期に作られたのに対して、ここのモノは新しく作られたようだから、少し意味合いが変わってしまうと思う。
「ミニ四国八十八箇所巡り」を過ぎると、渓谷沿いの道へと変化する。ここで、ふとまわりの山々を見渡すと、岩肌が大きく見え、このあたりがいわゆる、岩山であることを知る。
そして程なく独鈷の滝(どっこのたき)に到達する。この滝は落差20mもあるので、そこそこな壮観だ。
独鈷の滝の横には一直線の石段があり、それを登り切ったところにあるのが、本尊の不動明王が祀られている拝殿だ。
この不動明王は、弘法大師作と言われているが、その出来具合と、保存には適さない岩窟内に納められているという扱い具合の様子から想像するに「…」となってしまう。
岩瀧寺は古来から日本人の心に受け継がれている自然崇拝からくる「山を神聖視する山岳信仰」を支える要素、つまり、渓谷と森、岩窟や滝、そして岩肌が見え隠れする山容と言ったモノが揃い、ここに来ると日本人であれば、何だかピリッとする感覚を味わうことになると思う、そんな寺だった。
■高山寺■
高山寺と書いて「こうさんじ」と読むらしい。前々回にこのブログで書いた京都高雄の高山寺とは関係はない。この寺は、平地を挟んで岩瀧寺と向かいあっている。だから移動にほとんど時間は掛からない。
寺自体の創建は古く、天平宝寺元年(757年)ということらしいが、現在の境内は昭和30年代に移築されたモノだそうだ。しかし、そう聞かなくても”新しさ”を感じる部分が多く、実際に境内歩いてみれば、歴史の重みをあまり感じない。
しかし、新しいだけあって計算された部分もあって、楼門から本堂に続く通路脇には石灯籠が連なり、そこにはモミジが植えられており、紅葉期に”紅の参道”となるよう、レイアウトされている。
しかし、当日はほとんどが散ってしまい、その面影すら感じることができなかった。
唯一、本堂左側の斜面脇に紅葉する木々をようやく見つけ、しばしそこで盛期の姿を想像しつつ眺めているしかなかった。
そして気付けば、夕暮れが迫り、今年の紅葉鑑賞に幕が下りていた。
丹波地方には紅葉の穴場が多く、京都の有名どころほどに混雑することが無いことが嬉しい。下調べの段階ではまだまだ沢山の寺院が候補に挙がっていて、その数から考えると、まだまだ行き尽くすには時間が掛かるようだ。来年、再来年と、紅葉期の楽しみが続きそうな丹波路だった。
今秋は、荒天で釣行やハイキングの予定がずれ込んだため、紅葉見物に行く機会が極端に減っていた。そんな中、ようやく巡ってきたタイミングを生かそうと、とにかく丹波路に走ってみることにした。しかし、紅葉期は既に終盤を迎えていることがネット情報で流れていたことが気に掛かっていたのだが…。
■岩瀧寺■
紅葉のピークが過ぎていたとしても、寺域のレイアウトの面白さから、「見る物多し」と判断していた寺の一つが岩瀧寺(がんりゅうじ)という、兵庫県の丹波市(氷上町)の尼寺だった。
岩瀧寺は弘仁年間(809~823)に、嵯峨天皇が弘法大師に命じて、七堂伽藍を建てさせたのが開創といわれているらしいが、天正時代の兵火によって資料がほとんど残っていないため、定かなことは判らないというこらしい。
思えば丹波地方には”天正時代の兵火”で焼失した寺が多くある。勿論この時代は織田信長が天下統一を目指していた頃であり、その命を受けた方面軍司令官であるところの明智光秀が丹波平定に向けてこの地で激しい戦を繰り広げていた。寺院と言っても僧兵を抱え、実質”小城”として使用していた時期があったように、有事には砦として使えるので、いざ戦となれば、その地の支配者が抱える将兵が立て籠もることが多くなる。従って焼き払い等の苛烈な攻めが焼失の経緯なのだろう。しかし、その連続は守旧的な部分が性格にあったといわれる明智光秀にとって精神的に堪えるところがあったのだろうか?と思われ、それが後の謀反の原因の一部にあったのであろうと、勝手な想像をしている。
●岩瀧寺周辺の木々●
訪問当日は紅葉のピークを過ぎいたことに加え、夕刻に近い時間帯だったせいか、駐車場に駐まる車もほとんど無く、閑散とした状態だった。
まずは車を降り、右手方向にある参道を登って山門へと向かう。
●山門へ続く参道●
この山門は大正天皇の即位を記念して創られたということで、大正門と呼ばれるそうだが、境内全体のイメージからすると、もっと古いようにも感じられる。
●本堂まわり●
本堂には観音菩薩や愛染明王が祀られているそうだが、本尊は後述する別の場所にある。
そして、境内に派手さはなく、ひっそりとした空気が流れている。
●残り物のモミジ●
本堂脇を抜けると、四国八十八箇所の本尊が石仏化され、並べられているところに出る。これは、そこを回れば「八十八箇所を巡礼したのと同じ御利益が得られる」という意味で並べられているのだが、こういった発想は我が西宮市の神呪寺前にもある。ただし、神呪寺のモノは交通手段が不十分だった江戸期に作られたのに対して、ここのモノは新しく作られたようだから、少し意味合いが変わってしまうと思う。
●四国八十八箇所、それぞれの本尊●
「ミニ四国八十八箇所巡り」を過ぎると、渓谷沿いの道へと変化する。ここで、ふとまわりの山々を見渡すと、岩肌が大きく見え、このあたりがいわゆる、岩山であることを知る。
●渓谷沿いを歩く●
そして程なく独鈷の滝(どっこのたき)に到達する。この滝は落差20mもあるので、そこそこな壮観だ。
●独鈷の滝●
独鈷の滝の横には一直線の石段があり、それを登り切ったところにあるのが、本尊の不動明王が祀られている拝殿だ。
この不動明王は、弘法大師作と言われているが、その出来具合と、保存には適さない岩窟内に納められているという扱い具合の様子から想像するに「…」となってしまう。
●拝殿●
岩瀧寺は古来から日本人の心に受け継がれている自然崇拝からくる「山を神聖視する山岳信仰」を支える要素、つまり、渓谷と森、岩窟や滝、そして岩肌が見え隠れする山容と言ったモノが揃い、ここに来ると日本人であれば、何だかピリッとする感覚を味わうことになると思う、そんな寺だった。
■高山寺■
高山寺と書いて「こうさんじ」と読むらしい。前々回にこのブログで書いた京都高雄の高山寺とは関係はない。この寺は、平地を挟んで岩瀧寺と向かいあっている。だから移動にほとんど時間は掛からない。
寺自体の創建は古く、天平宝寺元年(757年)ということらしいが、現在の境内は昭和30年代に移築されたモノだそうだ。しかし、そう聞かなくても”新しさ”を感じる部分が多く、実際に境内歩いてみれば、歴史の重みをあまり感じない。
●この寺の象徴である、楼門●
●楼門の天井部にある、龍の絵の新しい●
しかし、新しいだけあって計算された部分もあって、楼門から本堂に続く通路脇には石灯籠が連なり、そこにはモミジが植えられており、紅葉期に”紅の参道”となるよう、レイアウトされている。
●参道から楼門を振り返る●
しかし、当日はほとんどが散ってしまい、その面影すら感じることができなかった。
唯一、本堂左側の斜面脇に紅葉する木々をようやく見つけ、しばしそこで盛期の姿を想像しつつ眺めているしかなかった。
●残り紅葉●
そして気付けば、夕暮れが迫り、今年の紅葉鑑賞に幕が下りていた。
丹波地方には紅葉の穴場が多く、京都の有名どころほどに混雑することが無いことが嬉しい。下調べの段階ではまだまだ沢山の寺院が候補に挙がっていて、その数から考えると、まだまだ行き尽くすには時間が掛かるようだ。来年、再来年と、紅葉期の楽しみが続きそうな丹波路だった。
■京都一周トレイル■
比叡山を始めとし、三方を山々に囲まれた京都市内。「この山々を歩こう。」と、今ではその山々を環状に巡るコースが整備されている。その名を”京都一周トレイル”と呼び、地元はもとより全国各地の多くのハイカーがこの道を歩いている。勿論、京都のことだから、観光地もコースに含まれており、そこに立ち寄りつつ歩くことが出来るので、普通のハイキングコースとは違った趣がある。
今回は、その中でも秋本番に見応えのある紅葉景色が広がる、高雄~嵐山間を歩くコースを選び、歩いてきた。
コースの殆どが、清流・清滝川沿いをあることになるので、山水を取り混ぜた風景を眺めながら進んでゆくことになる。
■清滝まで■
このコースでは、清滝という地区が中間点になるが、ここに近付くにつれて、河原が岩盤質になり、そこを削った道取りなってくる。
コース上では当然、歩きながら紅葉する木々を意識するのだが、どうしても川沿いの木々に掛かるゴミの様子に目を奪われてしまう。
皆さんの記憶にもあるであろう、今夏の、嵐山の水害。あのとき嵐山を襲ったのは桂川の氾濫だったが、その桂川は上流で保津川と清滝川が合流したところからの呼び名だ。従って、その際の、清滝川の増水は凄まじかったらしく、はるか4~5mもの高さに掛かる数々のゴミによってその様子が想像できるのだ。
途中、染み出す湧水によって濡れている石も多く、滑り易いから足下には要注意。実際に対向してきた中高年(ボクもそうだけど…)グループの1人が目の前で転倒し、大騒ぎになっていた程だ。
そして、さしたる疲労感を感じる登りもないままに清滝に到着する。
清滝は車に乗ってダイレクトで到達できることもあって、結構な数の家族連れの車やツーリング中のバイクが来ていた。
ここにはトイレもあるので、休憩にはもってこいの場所だ。
■落合周辺■
清滝から再び川沿いを歩き、次の分岐点が落合という地区になる。
ここから一旦右に折れ、橋とトンネルを進んだ先にあるのが川下りで有名な保津峡になる。そして展望ポイントに出るにはトンネルを出てすぐに左に回り込んでゆく必要がある。
絶景ポイントの一つでもあり、分岐点からもそう遠い距離ではないので、是非立ち寄りたいポイントだ。
■鳥居本~嵐山■
落合の分岐に戻ると、そこから先は六丁峠が控えている。この峠は今回のコース中一番きつい傾斜なのだが、そんなに大したモノではない。登山路等ではなく、舗装された車道を歩くしかルートがないのだが、そこそこの数の車やバイクが通過するので注意が必要だ。
そこを越え、たどり着くのが鳥居本になる。
鳥居本は清滝近くにある、愛宕山頂の愛宕神社参りの際に立ち寄る休息地として栄えてきたそうだ。愛宕神社と言えば、安土桃山時代に主君織田信長に謀反する直前に、明智光秀がこの神社を参拝し「ときは今 あめが下しる 五月哉(さつきかな)」と発句したことで有名だ。
鳥居本の町並みは古くからの物が残っており、保全地区となっているそうだ。街道には茶店や食事何処、土産物屋がポツポツと並んでいるのだが、六丁峠方向からであれば一番手前の鳥居脇にある平野屋が殊に有名で観光ガイドなどにもよく登場する。
今回のコースでは丁度休息時間と重なることもあって、その平野屋に立ち寄ることにした。
日も傾き始め、冷え込みを感じるようになっていたので、店内に設置されている囲炉裏の暖かさはこの上なく有り難い。ここの名物は「志んこ餅」と聞いていたので、抹茶とのセットで注文した。
ニッキ、黒糖がほどよくブレンドされたきな粉を着けて食べる味わいは、素朴でありながら味わい深いモノであった。
平野屋を後にすると、化野に入る。そして嵯峨野方面へ。
嵯峨野に入ると、落柿舎(らくししゃ)の脇をかすめて進んでゆく。この落柿舎の主は元禄の俳人で、松尾芭蕉の高弟である向井去来。芭蕉自身も三度訪問したことがある、由緒ある庵だ。
嵯峨野を過ぎ、嵐山の天龍寺門前あたりでは思うように歩けなくなるような人並みになり、秋の観光シーズンでごった返す渡月橋を渡って、スタート地点の阪急嵐山駅に到着し、予定していたコースを歩き終えた。
今回は、晩秋には最適のコースを辿ることができた。観光客で混雑する区間もあったが、それはごく一部に限られ、歩かなければ見られない風景もあって満足のゆく内容だった。
京都一周トレイルには魅力的なスポットが盛り込まれており、”続いて歩きたい”コースとなった。季節ごとに適した風景があるだろうから、それに合わせて全てを踏破したいものだ。
比叡山を始めとし、三方を山々に囲まれた京都市内。「この山々を歩こう。」と、今ではその山々を環状に巡るコースが整備されている。その名を”京都一周トレイル”と呼び、地元はもとより全国各地の多くのハイカーがこの道を歩いている。勿論、京都のことだから、観光地もコースに含まれており、そこに立ち寄りつつ歩くことが出来るので、普通のハイキングコースとは違った趣がある。
今回は、その中でも秋本番に見応えのある紅葉景色が広がる、高雄~嵐山間を歩くコースを選び、歩いてきた。
●コースの看板●
●この区間の多くは東海自然歩道とコースを共有する●
コースの殆どが、清流・清滝川沿いをあることになるので、山水を取り混ぜた風景を眺めながら進んでゆくことになる。
●景観は素晴らしい●
■清滝まで■
このコースでは、清滝という地区が中間点になるが、ここに近付くにつれて、河原が岩盤質になり、そこを削った道取りなってくる。
●沈下橋(増水時は越せそうにない)●
コース上では当然、歩きながら紅葉する木々を意識するのだが、どうしても川沿いの木々に掛かるゴミの様子に目を奪われてしまう。
皆さんの記憶にもあるであろう、今夏の、嵐山の水害。あのとき嵐山を襲ったのは桂川の氾濫だったが、その桂川は上流で保津川と清滝川が合流したところからの呼び名だ。従って、その際の、清滝川の増水は凄まじかったらしく、はるか4~5mもの高さに掛かる数々のゴミによってその様子が想像できるのだ。
●渓谷に差し込む陽●
途中、染み出す湧水によって濡れている石も多く、滑り易いから足下には要注意。実際に対向してきた中高年(ボクもそうだけど…)グループの1人が目の前で転倒し、大騒ぎになっていた程だ。
そして、さしたる疲労感を感じる登りもないままに清滝に到着する。
●清滝の紅葉風景●
清滝は車に乗ってダイレクトで到達できることもあって、結構な数の家族連れの車やツーリング中のバイクが来ていた。
ここにはトイレもあるので、休憩にはもってこいの場所だ。
■落合周辺■
清滝から再び川沿いを歩き、次の分岐点が落合という地区になる。
●落合の分岐標識●
ここから一旦右に折れ、橋とトンネルを進んだ先にあるのが川下りで有名な保津峡になる。そして展望ポイントに出るにはトンネルを出てすぐに左に回り込んでゆく必要がある。
絶景ポイントの一つでもあり、分岐点からもそう遠い距離ではないので、是非立ち寄りたいポイントだ。
●展望ポイントから見下ろす、保津川下り●
■鳥居本~嵐山■
落合の分岐に戻ると、そこから先は六丁峠が控えている。この峠は今回のコース中一番きつい傾斜なのだが、そんなに大したモノではない。登山路等ではなく、舗装された車道を歩くしかルートがないのだが、そこそこの数の車やバイクが通過するので注意が必要だ。
そこを越え、たどり着くのが鳥居本になる。
鳥居本は清滝近くにある、愛宕山頂の愛宕神社参りの際に立ち寄る休息地として栄えてきたそうだ。愛宕神社と言えば、安土桃山時代に主君織田信長に謀反する直前に、明智光秀がこの神社を参拝し「ときは今 あめが下しる 五月哉(さつきかな)」と発句したことで有名だ。
鳥居本の町並みは古くからの物が残っており、保全地区となっているそうだ。街道には茶店や食事何処、土産物屋がポツポツと並んでいるのだが、六丁峠方向からであれば一番手前の鳥居脇にある平野屋が殊に有名で観光ガイドなどにもよく登場する。
●平野屋●
今回のコースでは丁度休息時間と重なることもあって、その平野屋に立ち寄ることにした。
日も傾き始め、冷え込みを感じるようになっていたので、店内に設置されている囲炉裏の暖かさはこの上なく有り難い。ここの名物は「志んこ餅」と聞いていたので、抹茶とのセットで注文した。
●愛宕山名物「志んこ餅」●
ニッキ、黒糖がほどよくブレンドされたきな粉を着けて食べる味わいは、素朴でありながら味わい深いモノであった。
平野屋を後にすると、化野に入る。そして嵯峨野方面へ。
●化野(あだしの)念仏寺近くの道標●
嵯峨野に入ると、落柿舎(らくししゃ)の脇をかすめて進んでゆく。この落柿舎の主は元禄の俳人で、松尾芭蕉の高弟である向井去来。芭蕉自身も三度訪問したことがある、由緒ある庵だ。
●落柿舎の、“まさに落ちんばかり”の柿●
嵯峨野を過ぎ、嵐山の天龍寺門前あたりでは思うように歩けなくなるような人並みになり、秋の観光シーズンでごった返す渡月橋を渡って、スタート地点の阪急嵐山駅に到着し、予定していたコースを歩き終えた。
今回は、晩秋には最適のコースを辿ることができた。観光客で混雑する区間もあったが、それはごく一部に限られ、歩かなければ見られない風景もあって満足のゆく内容だった。
京都一周トレイルには魅力的なスポットが盛り込まれており、”続いて歩きたい”コースとなった。季節ごとに適した風景があるだろうから、それに合わせて全てを踏破したいものだ。