中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

玄達瀬のヒラマサ

2013-06-29 12:30:00 | 船釣り・釣行記
■玄達瀬へ■

 ”年に一度のヒラマサ祭”として兄と二人で毎年釣行しているのが、福井市の海岸線から35km離れた沖合にあり、6/16~8/15日の間に解禁となる玄達瀬だ。
 ボクがこれまでに沖釣りで通っていた若狭湾一帯では、このブログでも触れたように、昨秋以来8年ぶりの大回遊があったのだが、今年に入って6月の半ばの声を聞くと、中~大型ヒラマサの釣果はついに下火となり、変わって小型のみが食うようになっていた。
 「ということは、解禁の頃に中~大型ヒラマサが、隣の海域にある玄達瀬に移動しているのでは?。」と、勝手な期待をしての釣行になった。
 心配された台風も既に消え、暑くもなく寒くもないという、人間にとっての好条件の中、いつも福井釣行でお世話になっている晴海丸に乗船し、約1時間の航海で到達する玄達瀬に向かった。

●福井新港からの出船風景●


■タックル■

 当日のタックルは、最近の流れに逆行した全長が3.6mという、長めの100号竿を選んだが、これには理由がある。
ボク自身、磯釣り歴が長かったせいか、やや長めの竿を用い、その全長を生かして”タメて獲る”スタイルにした方が「バラシが少なくなるかも?」と、思うようになっているからだ。
 それ以外に長竿の特筆すべき利点は船縁近辺の攻防で、ヒラマサやメダイといった最後までヘバらない魚に対しては、フトコロが広くなって船縁との距離が取れるのが有り難い。また、3~4名乗船することが多い乗合船で完全フカセ釣りをする場合でも、他人の出す竿との距離がとれる分だけオマツリが防げて、重宝している。
 リールはいつも使っているシマノ製電動リールの3000番では強力な部類に入るモデルで、これにフロロカーボン製道糸の8号をスプール一杯まで巻いている(約240m)。これに小型のサルカンを介して結ぶのはハリス10号の2本バリ仕掛だ。他の地区であれば8号ハリスである程度の大型を釣る自信はあっても、ここではそれは厳しく感じ、メーターオーバーを狙うのなら、この10号が標準になる。今まで山口県見島沖や若狭湾の白石グリ等でヒラマサを釣ってきたが、季節のせいか、はたまた水深のせいか、玄達瀬で釣るヒラマサの引きが一番強烈だからだ。

●当日のタックル●


■バタバタの3時間■

 現地に到着後、実釣スタート。マキエサが効き始めた2投目から兄の竿が曲がった。しかしこれは外道のグレ(41cm)だった。
 そして、そのすぐ後、ボクのリールが急速逆転し、同時にアラームが鳴った。引きから察するとすぐに中型のヒラマサと判断できた。

●心地良く曲がるロッド●

 今回は太目の仕掛なので、引きを楽しむ余裕のやり取りで上がってきたのは予想通りのサイズであった。

●70cmのヒラマサ●

 今年の玄達瀬では昨年より15cmも大きな70cm前後がレギュラーサイズとして回遊中だから、随分と釣り応えがある。
 このサイズでゲット数を伸ばしてゆくという、贅沢な展開中に、時折襲ってくるメーター級のアタリを捉えてそれを確実に獲るのが理想型になるのだが、ウマい具合に話は進んでくれるのだろうか?。しかしここから「それも現実のモノか?」と思えるようなスタートダッシュが始まった。

●いつ見ても惚れ惚れする精悍な顔つきだ●


 潮流はほどほどの速さで流れ、完全フカセ釣りにはベストの速さで流れていた。こういった場合はタナさえきっちりと合っていればアタリは続くのだが、次の一投ではエサを取られてしまう。そこで、その次の流しでは発泡ウキの浮力を上げてやることにする。この調整がうまくハマって、次の流しでは2回目のアタリを捉えることに成功した。しかし、相手は10号ハリスの敵ではなく、実際に上がってきたのは、またもや70cm級のヒラマサだった。

●ヒラマサを引き寄せる100号竿の曲がり●

 スタート時点で遅れをとっていた隣に座る兄も何投目かにようやく竿を曲げ、レギュラーサイズのヒラマサゲットに成功し、胸を撫で下ろしていた。
 そして外道の?マダイもポツポツと混じり、濃密な内容の時間が過ぎてゆく。

●マダイは小さくても55cmクラス●

 2時間ほど経過すると、ひときわ強い引きがボクの竿を襲った。100号竿がひん曲がり、巻き上げようにも電動リールの巻き上げ力だけではどうにもならない。そこで船長のサポート(”糸抜き”と言って、手で直接道糸を引き抜き、その分だけ巻き取る方法=クエ釣りなどでも使う)を受けて、なんとか一人でやり取りのできる距離まで引き寄せることに成功する。

●水深分を切ったら、スタンディングファイトを開始●

 しかし、40m付近では一進一退の攻防を繰り返した。この引きは、これまでに経験した中では最強クラスであり、「8年ぶりのメーターオーバーか?」との期待を込めて徐々に距離を詰めてゆく。そして船縁での攻防も無事にしのいだのだが、玉網に誘導する際になって”ビックリ”の事態が判明した。何と、上バリに84cm、下バリに70cmのヒラマサがダブルで掛かっていたのだ。

●大きかった方の84cm●


 ダブルゲットの後は潮がやや緩み始めて、しばらくアタりが遠退いた。そんな中、油断をしていたのか、兄が突然のアタリに対応しきれず、超大型らしいヒラマサを根ズレでバラしてしまう。
 「バラしたら後が続けへんで~。」と言っていた矢先、今度の強烈な一撃は、幸運にもボクの番だった。
 完全フカセで大型のヒラマサを獲る場合、とにかく相手の頭をこちらに向かせたままにしないとゲット率が下がる。そうでなければ相手に好き勝手に走られて、海中にある岩塊の際を走られ、ラインが岩で擦れてアッという間に飛んでしまうのだ。その対策のため、アタリがあれば、アワセと共に全速で巻き上げて必死で竿を立て続け、当面の安全圏である足下の水深分の距離まで、とにかく全力で巻き取ることが必要になる。
 しかし、今回の相手は上述したダブル・ゲット時以上の強烈な引きであるが為に、ロッドは前グリップの直前から曲がり、リールはすぐにブレーカーが落ちて電動の意味をなさなかった。そこで船長が”糸抜き”の助っ人に入って手でリールを巻き取ることで、なんとかやり取りが可能な距離まで相手を引っ張り上げることに成功する。
 「さてここからが勝負だ!。」と意気込み、スタンディングファイトに入ったが、その矢先、「プンッ!」といったイヤな感触と共にラインから伝わる生命感が無くなった。仕掛を回収すると、ハリが外れていた…。
 船頭の「今のはメーターオーバーだったよ。」という言葉が漂う中、椅子にへたり込んでしまったが、馬鹿力を出した後の手がプルプルと震えるのみで、なかなか次の作業に移れずに、しばらくの間は放心していた。

 そして、その後は潮流が更にスピードを落とし、角度も変わってエサが取られる一方となり、朝の時合いは終了した。


■辛い時間帯■

 釣果が得られなくなったことで、ポイント移動が始まった。次なるポイントはやや深場の足下の水深が70mのラインだった。
 潮流は極緩くではあるが、魚がなんとか口を使ってくれそうな速さで流れていた。こういった潮の場合は、より回転性能の良いリールが力となってくれるのだが、ボクの最新式のリールは何故か兄の旧式タイプよりも回転性能が落ちるので、何となくイヤな予感がしていた。そしてその予感は現実のモノになった。
 マキエサが効いたかと思われた第2投目で兄のリールのアラームが鳴って、レギュラーサイズのヒラマサをゲット。潮が緩いだけに連発とはいかないが、その後もポツリポツリとアタリが出続ける。しかし、それらのアタリが出るのは全て兄の竿の方だった。
 結局このポイントでの3時間は、兄が全てのヒラマサをゲットし、数の上では4対6と逆転されてしまい、ボクにとっては辛く焦るだけの時間だった。

■夕マヅメ■

 その後は兄のアタリも止まり、潮流は魚が食う状態に回復しそうにもないので移動することになった。そしてより良い場所を目指して更に移動を繰り返したが、好ましい状況のところはなく、マトモな魚を手にすることはできなかった。特にボクの状況はひどく、気付けば6時間もの間で魚を手にしていなかった。
 そんな中、船長は大移動を決意した。
 ここまでのポイントでは、上潮にほとんど動きがないものの、底潮に仕掛が入るとある程度スピードアップしていた。それを手がかりとし、「より深場の方で潮流が動いているのでは?」と、船長が判断を下した。晴海丸さんには今まで数回お世話になったが、こういった際の判断は常に的確だ。この日もその判断は正解であり、次の深場のポイントでは底潮に入ると、いかにも食うようなスピードで仕掛が流れてくれた。
 深場である上に、ほとんど他船が攻めないようなポイントだっただけに、マキエサの効きが鈍かったが、それも5投程度の話で、一度アタリが出始めたかと思えば、それが連続するようになった。
 しかし、残念ながらそれらは全てマダイのアタリであった。玄達瀬らしくサイズ的には55cm~72cmと、一切小型が混じらない好ましい状況だったが、「いずれアタリが出るだろう。」と思っていたヒラマサはとうとう最後まで登場してくれなかった。

●最大の72cmが海面に浮上した瞬間●

 午前中にヒラマサの引きを体験している身としては、物足りなさを感じざるを得ず、決して満足のいく状況ではなかったが、最後は3連発するなどそれなりには楽しむことはできた。これも船長の判断があったからだ。もしあの時、大移動をしていなければ退屈するままに一日を終えていたかも知れず、いつもながらの、船長の的確な判断に助けられた終盤であった。

●兄と二人分の釣果●


■不完全燃焼■

 気付けばヒラマサは二人でギリギリ二桁を釣り、粒ぞろいのマダイも12枚釣っていた。途中釣れない時間が二人共に約6時間ずつあって、この釣果だ。まさに玄達瀬の底力を感じる釣果だったが、狙いはメーターオーバーだっただけに悔いは大いに残っている。そして今回、大ヒラマサを掛けた際に竿のパワー不足を感じたことで、上段で記し、自信を持ちつつあった「長竿有利論」も揺らいでしまった。そのあたりについてもまだまだ検討の余地があるので、色々と試したいことが頭に浮かんでいる。
 そんなことを考えていた矢先、運良く晴海丸さんの予約の空き日見つけ、「釣り残したヒラマサ」を求めて再チャレンジすることになった。果たして結果は…。
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渓流釣りスタート

2013-06-22 12:30:00 | 渓流&管理釣り場での釣り
■梅雨入りしたものの…■

 今年の初釣行は年券を購入した新しい川に向かうつもりだったのだが、梅雨入直後の晴天続きで釣行計画が狂っていた。
 透明度の高い川に生息する渓流魚は、雨が降らない状況が続けば水が澄みすぎる上に水量が減り、魚食する鳥達から水中が丸見えになるために警戒心が強まって食いが確実に落ちる。特に上空が開けている川はその傾向が顕著になる。従って、当初に予定していた新しい川はキビシそうな条件が予想されたので、早々に候補から外れてしまった。
 一方、この時期、いつも頼みにしていた高原川も遅れていた雪代が出る時期になっていたし、ボクが好きな本流域は晴れでは厳しそうだ。あれこれ、さんざん迷った挙げ句、結局はもう少し後に釣行するつもりだった富山県下の久婦須川へ向かうことになった。

■久婦須川■

 兵庫県から遠征する身にとって6月の富山県釣行は辛い。何しろ到着するまで4時間近くかかるし、朝4時頃には周囲が明るくなっている。夜10時頃に自宅を出発すると、車中での睡眠時間が2時間になり、釣りを終えてからはまた4時間かけて戻らなければならないのだ。それでもボクにとっては相性の良い川であることには変わりないので、ついつい足繁く(ボクの釣行ペースでは)通うことになる。

 午前2時前に現地に到着。その後は予定通り?2時間の睡眠をとった後、河原へと降りる。そこまでは藪をこいでゆかなくてはならないが、昨今話題の真ダニとりつかれることもなく、無事に到着する。

●薄暗い中、藪こぎで河原を目指す●


■ピンチョロ■

 ボクのように都市部に暮らす者にとって、渓流釣りはマイナーな釣りなので、近辺の釣りエサ店で事前購入しようにも、限られた店に在庫があるミミズやブドウ虫といった市販品以外のエサはほとんど手に入らない。最も渓魚の食いが良いとされるのは川虫だが、これらを事前購入するには、岐阜県郡上市あたりに立ち寄って自販機を利用する手もあるが、そこに立ち寄って東海北陸道経由で富山に向かうのはプラス1時間のロスがあるので、睡眠時間が更に削られる。
 「現地調達すればイイじゃないか」という意見もあるだろうが、現場に詳しい地元在住者と違って川虫の付き場所をそんなに把握しているわけではなく、川に入るタイミングによって極端に量が少なかったり、サイズが小さかったりで、ウマく手に入らないことがよくある。
 このようなもどかしい状況を打開するために川虫の通販を時折利用していたのが、これも季節限定的な要素があって、日持ちのするキンパクが採れる4月中旬頃までしか手に入らないことが多かった。そんな中見つけたのが、岩手県から通販で取り寄せるピンチョロで、今回はこれを利用し、久婦須川に持ち込むことになった。

●岩手県産のピンチョロ●


■実釣スタート■

 川に入って最初に感じた印象は例年より冷たく思える水温で、これにより、何となく当日の展開がキビシイものになる予感が漂っていた。
 その実、投入を開始してもアタリは簡単に出る様子はなかった。これは、水温低下に加えて釣行日が日曜だったために、恐らく前日に散々叩かれていたことと、雨後4日目だったことなど悪条件が重なっていたためであろうと思うが、いずれにせよ、食い渋りを想定した粘りの攻めが必要と感じざるを得なかった。
 そのため、実釣がスタートして以降は持参した市販エサとピンチョロを始め、現地採取したクロカワムシやオニチョロといった川虫とをローションをさせ、渓魚の目先を変えることで何とかアタリをとろうと試みていた。
 その結果、市販エサに出るアタリはほとんど無く、川虫類にしか、それも一種類につき一回程度しか反応がなかったし、食い込みが悪くてハリに乗らないことも多いという傾向を初期段階で掴んでいた。

●現地採取のオニチョロ●

 そのような傾向であることから、普段なら既に移動しているハズの時間帯でのアタリを捉えて、ポツポツとヤマメを拾ってゆく。しかも嬉しいことに、ピンチョロにもちゃんとアタリがあって、当初の区間では最大サイズがこのエサに反応してくれた。

●ピンチョロで釣った25cmのヤマメ●

 そこからまた更に粘って「いくら何でも、もう出ないだろう」と区間ラストのつもりで流してみたのだが、意に反して反応があって、アタリと共に”ゴンッ”と衝撃が走る大型ヤマメらしき魚が竿を大きく曲げっていった。たが、衝撃後に締め込むこと僅か数秒でハリが外れて逃してしまった。もっともこの時点では「流し終わる最終部分でアタリを捉えたために、マトモにアワセることができなかったこと」が、ハリ外れの原因だと思っていたのだが…。


■ハリスの号数を上げる■

 その後の区間も粘り腰を発揮しながらポツリポツリとアタリを捉えて釣果を積み重ねてゆくが、昨年同時期と水量が変わらないものの、流筋が変わってポイントとして成立しなくなっているところがほとんどで、その意味でも苦労を重ねた。そのうえ、誰の目にもポイントと判断できる箇所でのアタリはほぼゼロの状況で、先行者は居ないようだったが、いわゆる竿抜け部分でしかアタリが出なかった。

●昨年とは全く違う流れ●

 そして水温の影響は本当だったのか、釣り上がるにつれて、より低水温に強いイワナのアタリが増え始めた。

●25cmのイワナ●

 しかし、これすら簡単に出るわけではなく、じっくり時間を掛けて丹念に探った結果だったが、嬉しいことにその努力が実って徐々にサイズアップしてゆく。 

●28cmのイワナ●

 脱渓までの中間地点に差し掛かっても、ボクにとっては本命である、ヤマメのアタリは相変わらず渋くて、掛けることすら苦労する状態だった。そこで、食い渋り対策として「ハリスを落とそうか?」という判断に一瞬向かいかけたのだが、それよりもアタリが出た瞬間に、いつもより強めに即アワセを入れることを優先し、ハリスをそれまでの0.3号から逆に0.4号まで上げてアワセ切れを防ぐ作戦を思いついた。これで魚が出なければ細くすれば良いまでのことだ。

 有り難いことにハリスの変更後もアタリの数はそれまでと変わりはなかった。そして渋いアタリを掛けアワセて何匹かのヤマメを釣った後に、ようやく判り易い大きなアタリを目印が捉えたが、その様子から当日の状況下では、すぐに「ヤマメではないな」と判断できた。案の定クネクネとした抵抗感はヤマメとは別物で、引きにスピードがない。号数を上げていたハリスのお陰もあって強気のやり取りで無事タモに納めたのは、今シーズン初めての尺越えのイワナであった。

●32cmのイワナ●


■頻発するハリ外れ■

 尺イワナの後は、更に釣り上がっていったが、相変わらず、大場所や当たり前のポイントではアタリが皆無の状態が続いていた。そんな中であっても集中力を切らさずに即アワセで対応し、何とかゲット数を伸ばしつつ、最終区間まで到達した。
 ここまでに大型ヤマメらしき、アワセた後に衝撃が来るような渓魚には四度遭遇していたが、四度共にハリ外れで逃してしまった。それら全てにおいて、一匹目と同じ「シツコク粘って、もう出ないだろう」と思い始めた頃のアタリであったし、それを外した後は他に何も食ってこないというパターンまで同じであった。そしてこの状態は、ハリの号数を上げるといった工夫をしても好転することはなかった。要するに、ボクにとっては努力の及ぶ範囲外の超食い渋りと解釈するしかなく、尺越えのヤマメとの出会いは諦めざるを得ない状況だった。

●当日最大27cmのヤマメ●


■全ては雨後から■

 通常なら午前中の半日もあれば到達する区間だったが、脱渓した時刻は午後4時を回っていた。かなり時間は掛かったが、それでも何とかほどほどの釣果を得ることができたことは幸いだった。
 食い渋り傾向に対抗して、粘ってアタリを出し、それを即アワセで確実に掛ける方法を今回は学んだ。とは言うものの、上述した大型や、それ以外を含めてヤマメらしき渓魚のハリ外れ回数は多く、これは相当に悔しかった。こんな時「逆に細ハリスにすればもっとアタリがあって、楽に釣れたかも?」と思うのは釣り人としてのスケベ心であるが、基本的な決めごと以外は「逆もまた真なり」で、その可能性があることは釣りの奥深さでもある。
 そうやって当日の思いを再確認している今だが、気付けば昨年あたりから自身の久婦須川での釣果は下降気味であり、それに加えて川の様子が悪い方に変化していることも気になっいている。この点については次回以降の釣行でキッチリと確かめてみたいことがあるのだが、「その前に梅雨らしく、ちゃんとした雨が降って一旦川がリセットされなければ何も始まりそうにない。」と思っていた。そんな矢先、台風4号の接近と活発化した梅雨前線によって、状況は好転し始めたようである。梅雨明けまでにそのチャンスを逃さないようにしたいのだが…。
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福井を巡る ~その2

2013-06-15 12:30:00 | 旅行
■一乗谷朝倉氏遺跡■

 永平寺を後にして向かったのは「一乗谷朝倉氏遺跡(いちじょうだにあさくらしいせき)」。ここはソフトバンク社のCMロケ地で使われたところなのだが、放映されていた当時は「何で一乗谷?」「こんなところ戦国&歴史マニアぐらいしか知らんやろ?」と思っていたのだが、とにかくそのおかげで以前から取り組まれていた遺構の発掘の進み具合がかなり進んでいることを知ったのが今回の訪問に至った理由である。

●往時の一乗谷全景図●

 遺構(遺跡?)自体は「果たしてどれくらいの人達が感動するのだろうか?」とも思う状態であったが、とにもかくにもここを訪れて思いに耽るためには、やはりここを支配していた朝倉氏の歴史を知っておく必要があるように思う。
 朝倉氏というのは戦国期に越前(福井県)一帯を支配した戦国大名家であり、ここ一乗谷はその本拠地であった。この街?の風情は、今で言うところの”小京都”のようだったと言えばイメージしてもらい易いかと思う。
 しかし、以前にも書いたが、歴史マニアの末席にかろうじて引っ掛かる位置に居るボクとしては、ここに来て思いを巡らせるのは朝倉氏自体よりも、ここを滅ぼし、焼き払った織田信長の大戦略の方になってしまう。その大戦略とは…。

●住民居住区のメインストリート●


■一乗谷の顛末■

 一乗谷の町並みが消え、遺跡となってしまった戦いにおける、そもそもの前哨戦は、滋賀県琵琶湖北東部の戦国大名、浅井長政の本拠である小谷城を3万人の織田信長(以後信長と略す)軍が取り囲んだところから始まる。
 これに対して浅井長政と同盟を組む越前の戦国大名、朝倉義景が、自ら2万の大軍を率いて救援に駆けつけるのだが、この時点で織田方の内部工作などによって重臣が寝返るなど、将兵の足並みは既に乱れていた。
 恐らく初めから信長は「出てきた朝倉を先に叩く」と考えていたらしく、小谷城への力攻めはせずに、進軍してきた朝倉方に挑発牽制を繰り返し、その出方をうかがっている。
 着陣後、朝倉方は砦を各所に築いているが、織田方も浅井方の小谷城と朝倉方の間にくさびを打ち込むように砦を築き、陣を敷いて浅井・朝倉の連携を絶つと同時に各個を包囲する体勢をとる。

●居住区の家々●

 そこに近江一帯を暴風雨が襲うという転機が訪れた。信長は暴風雨で朝倉方が油断していると判断して、自ら1000人程度の兵を率いて朝倉方の大嶽砦を急襲した。
 そして予想通り砦を守る朝倉方は虚を突かれて降伏する。普段の信長であれば、事後処理に際して苛烈な報復をすることもあるのだが、この場ではワザと兵を解放するという行動をとる。これは、本隊に逃げ込む敗残兵の影響で朝倉方が動揺し、恐れをなして撤退すると見込んだ信長の作戦だったのだ。そして念を入れるために信長は同様の手段で丁野城を襲い、ここでも守兵を解放している。
 撤退する側にとっての撤退戦はかなり難しい作戦とされ、逆に追撃する側の威力は絶大になるが、信長は自軍の優位性が最高潮になる、そのタイミングで一挙に朝倉方を襲おうというのである。
 軍議の席で信長は朝倉方の撤退を予言し、佐久間信盛、柴田勝家、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀ら重臣が率いる精兵に準備を整えさせ、好機を待った。

●秀吉が寄進した物が移築されたという、唐門●

 そして予言通り朝倉方の撤退が始まった。
 その報を受けて信長は自ら陣頭指揮を行って朝倉方の追撃を開始した。そしてたちまち、朝倉方は大混乱に陥り、織田方の猛追の前に、皆殺しに近い状態となった。
 最初の砦が落ちてから二日間、織田方が徹底的に追撃した結果、朝倉方は総崩れになり、主立った武将と兵はほぼ全滅状態になる。そして朝倉義景は僅かな残兵と共に一乗谷へ帰還することとなった。

●居住区を俯瞰する●

 追撃戦の終了から二日間の休息を経て織田方は越前を侵攻し、一乗谷へと迫る。
 そして織田方は一乗谷の市街地を制圧し、ここを焼き払った。そして、京や大内氏(山口県)の文化を積極導入した姿は朝倉文化とも呼ばれ、最盛期は1万人もの人々で賑わう栄華を誇った街は灰となった。織田方の、朝倉方に対する最初の攻撃から僅か七日間の出来事だった。
 そして、それから更に二日後、落ち延びていた朝倉義景は結局自刃に至り、子や縁者は織田方によって処刑され、朝倉家は滅亡した。

●諏訪館跡庭園●

 このような一乗谷と朝倉家のあっけない結末は、常ならない世のはかなさを感じるが、それにしても織田信長という不世出の天才の、戦略眼の鋭さには恐れ入るばかりである。


■ソースカツ丼■

 さてさて、おまけのお話。福井名物についてである。
 福井名物と言えばソースカツ丼。かつ丼と言えばヨーロッパ軒ということになる。

●ヨーロッパ軒本店●

 ソースカツ丼は、ドイツでの料理留学を終えたヨーロッパ軒の創始者が大正2年の料理発表会で披露したのが始まりで、当初は現在の東京都新宿区で客に提供していた。しかし、関東大震災のために故郷の福井に戻っての再出発となって現在に至るのだそうだ。
 その味はウスターソースがベースの、秘伝のタレをくぐらせた薄めのカツが絶品で、他のどこかで味わうことの多い味とは全く別物であった。

●オリジナルのソースカツ丼(セット)●

 カツはサクサクで脂っこくなく仕上がっているから、結構「サラッ」と食べられてしまうので、量的に多く見えてもあっという間に胃袋に納まってしまった。
 「福井に来たらソースカツ丼を!」ボク的にこれは自信を持って言えることだ。
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福井を巡る ~その1

2013-06-08 12:30:00 | 旅行
■福井へ■

 ボクにとっては、鷹巣~玄達で沖釣りをする際に素通りすることがほとんどの福井市周辺。観光で訪れたのは東尋坊と越前海岸くらいのモノで、関西の隣県でありながら、あまり知らない。
 ある日、家族三人でぶらっと訪問できる観光地はないのか?と考えていた時にふと思いつき、訪問することに相成った。

■永平寺■

 妻の実家が曹洞宗(と言っても、熱心な信者ではないようだが)なので、その総本山の一つである永平寺をまずは目指した。
 永平寺は福井北インターから約15分で到着するほどの距離にあり、アプローチは近い。

●永平寺前にあった案内板●

 周囲には駐車場が多数あるのだが、当然ながら門前にあるものが一番近い。そこに到達するまでの各駐車場前では呼び込みが熱心なので、つい入ってしまいそうになるが、誘惑?に負けずに登り切ったことが正解だったようで、運良く門前の駐車場に残り後1台のところでギリギリ車を滑り込ませることができた。

●永平寺門前の様子●

 永平寺の伽藍は山の斜面に沿って展開されており、法堂やその他の施設が渡り廊下階段で連結されているから、靴を脱いだ状態で内部を巡ることになる。

●伽藍の全体図●


 一般の訪問者は、まず通用口の自販機で入場券を購入し、吉祥閣(きちじょうかく)という建物の中で、修行僧から寺の概要についての説明を受ける。そこから先はフリーで行動できるのだが、他の寺院に比べると写真撮影の自由度が高く、禁止されているのは場所によってはストロボ撮影と、全般には僧侶を直接撮ることのみということだ。
 曹洞宗の坐禅は「只管打坐(しかんたざ)」と言い、ただひたすらに坐るということ、それも九年間坐り続けた達磨大師のように、壁に向かって黙々と坐り続ける面壁座禅なので、伽藍内の構築物よりも、一人一人の個人の修行が重視されていることが、上記した「写真撮影に関する考え」に至った経緯なのか?と勘ぐってみた。

■傘松閣■

 自由行動に入ってすぐに到着するのが、傘松閣(さんしょうかく)という建物だ。ここには156畳敷の大広間があって、その天井には230枚の天上絵が描かれている。絵の題材?は花鳥が基本にになっているのだが、「鯉(こい)」「唐獅子(からじし)」が2枚ずつと「栗鼠(りす)」が1枚の計5枚が隠れていて、それを探し出して祈願すると、願いが叶うと言われているのだそうだ。
 禅宗であるこの寺とかけ離れたこの発想を不思議に思っていたが、この絵は平成14年の元禅師の750回大遠忌の記念事業の一環として平成5年から2年の歳月をかけて完成させたモノなのだそうだ。そういえば建物は鉄筋コンクリートであったことから、この願掛けも「さもありなん」の話だった。

●傘松閣の天井絵●



■七堂伽藍■

 傘松閣を出て更に進むと本来の回廊部に入る。この回廊で連結されている部分が、鎌倉時代中期からの構築物であるところの七つの堂宇「七堂伽藍」になる。

●回廊の階段部●

 回廊の中心部にあたる仏殿には釈迦牟尼仏とその左右に弥勒仏(みろくぶつ)阿弥陀仏(あみだぶつ)を祀っている。未来を現すのが弥勒仏で、過去が阿弥陀仏、そして現在を現すのが釈迦牟尼仏でその三尊を合わせて三世如来と呼ぶのだそうだ。(仏殿の写真は写し忘れていた…。)

 仏殿を過ぎて更に登り、最上部に到達したところにあるのが法堂(はっとう)になる。ここは修行僧に説法をする場所であり、法要儀式も行われているところでもあるそうだ。
 禅宗らしく質素な伽藍内では一番きらびやかとも言える装飾された内部の中央には藤原時代作の聖観世音菩薩が祀られている。

●法堂内部●

 法堂を過ぎ、七堂を巡り終えつつある頃、見下ろせば一番下にある山門が開いていた。
 吉祥閣の中で、修行僧からうけた最初の説明では、三門が開くのは法主であるところの禅師が出入りする際と、修行僧が入山する際の受け入れと、彼らが修行を終えた後に出てゆく際にのみだと聞いていただけに、珍しい光景なのかも知れない。

●開かれた三門●


 その三門の両側には魔物の進入を防ぐために四天王が祀られている。山門西側に置かれている「増長天(ぞうちょうてん)」は南方を、その横の「広目天(こうもくてん」は西方をそれぞれ守護し、山門東側に置かれている「多聞天(たもんてん)」は北方を「持国天(じこくてん)」は東方をそれぞれ守護しているという、意味合いがあるそうだ。
 塗りが鮮やかだけに三門との調和が取れておらず、違和感があったので調べてみると平成に入ってから修復されたのだそうだ。

●増長天(左)と広目天(右)●


●多聞天(左)と持国天(右)●


■寂光苑■

 伽藍を出て寂光苑(じゃっこうえん)という庭園へと足を伸ばす。このあたりは昭和~平成にかけて開発?された区域であるだけに、それぞれが新しく、風格と言った空気感は感じない。
 この中で一番目を引くのが、玲瓏の滝(れいろうのたき)なのだが、これも人工物であるそうで、そういった意味では寂光苑全体が伽藍との時代差がありすぎて別物のような雰囲気があった。

●玲瓏の滝●

 しかし、考えてみれば、これら新規の構築物等々が徐々に整備されているのは、檀家や地元民に支えられている証である。京都、奈良以外では予算が足りないのか、傷んでいるのを放置しているかのような寺があるだけに、人々から愛され?恵まれているのがよく判る寺であった。

 
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ハイキング トウェンティ・クロス~摩耶山

2013-06-01 12:30:00 | アウトドア・スポーツ
■新神戸発■

 「年老いても今の趣味が続けられるように」と開始したハイキング。昨秋以降ブログでの更新はなかったが、今春からも再開している。以前にレポートした同じ箇所を登ることが多く、ネタが被っていたために更新ができなかったのだ。

 六甲登山では定番中の定番である、山陽新幹線の新神戸駅高架下から”神戸ウォーター”で有名な布引の滝を横に見て登り始めるコースだ。
 振り返ってみると、このコースは高校時代の鍛錬遠足という名の、集団でのハイキング?で登った経験があったのだが、もちろん、「何でも怠い」ダラダラ生活であったボクの高校時代での感覚だと、その日はシゴキDAY以外の何でもなかった。時代が変わり見る目も変わると、感じるモノが違うのは当然であり、その差を確かめる意味でも楽しみなコースだった。

●スタートは新神戸駅●

 ここから始まるコースはメジャーなだけに整備が行き届いている。その上、案内板や道しるべは要所に必ずあるので、迷うこともなく各コースへの分岐点となる市ヶ原へ向かってスイスイと進んでゆける。

●コース案内図●

●道標も随所にある●


■布引の滝■

 出発してすぐに見える滝が、雌滝(めんたき)だ。文明の象徴である新幹線の駅とあまりに近く、拍子抜けしそうな距離に驚かされる。

●雌滝(めんたき)●

 雌滝を後にしてすぐに差し掛かるのが、雄滝(おんたき)とそれに続く夫婦滝(めおとたき)だ。
 初めは夫婦滝の意味づけがよく解らず、奥にある、雄滝と下の滝と対になって夫婦となっているものと思い、だったら、下の雌滝は「愛人なのか?」なんてことを想像していたのだが、その実は、手前側の低い位置ある滝の左側の太い流れが夫で、右側の細い流れが妻ということであり、この滝単体で夫婦とするということだった。
 以前、特にバブル期以前の神戸市を表現する言葉に”株式会社神戸市”というのがあったが、それに倣ったのか、訪問した観光客がガッカリすることがないように、この滝群は渇水時には水道局がはまるで水道の蛇口のように調節するそうだ。

●奥が雄滝(おんたき)、手前が夫婦滝(めおとたき)●

 そういった下世話な想像力は無駄になりつつ、更に奥へと進んでゆく。
 特に息が切れるような区間はなく、同行している妻と、友人の奥さんとの“婦人会の皆様方”の会話も途切れることはない。

●神戸ウォーターを溜め込んだ布引貯水池に沿って歩く●


■トウェンティクロス■

 市ヶ原で道標に従ってトウェンティクロスという区間に入る。ここから神戸市立森林植物園までのコースをそう呼ぶのだが、これは川を20回徒渉するということでそうなづけられたそうだ。しかし、以前は徒渉する回数が多かったものの、河川改修や堰堤のために迂回する区間が増えて、(正確には数えていないが、)現在では5~6回程度になっているようだ。

●徒渉地●

 しばらく進むと昼食時間を迎えた。河原でいつものカップ麺を取り出して、食事を摂る。

●バーナーセットは欠かせない●

 昼食後は、更に進んでゆくが、増水のために徒渉地点が変更されているところもあった。

●水没していた木製の簡易橋●

●徒渉地●

 川沿いを歩くため、つい下を見がちになるが、見上げれば山には新緑が広がり、ウグイスを始めとする、鳥達の鳴き声があたりに聞こえてすがすがしい気分になる。

●山の新緑●


■シェール道■

 森林植物園の東門を過ぎると、今度は徳川道を少し経由してシェール道に入る。

●シェール道への道標●

 この道は前半の川沿いを縫うコースが終わり、杉林を抜けた辺りから様子が変わって林道になる。ここからは新緑を眺めながら緩やかな坂を登ってゆく。

●青モミジを透け出る光●

 そして、そこを登り切ったところが穂高湖になる。

●穂高湖●

 穂高湖ではコーヒーを入れての大休止をとる。


■アゴニー坂■

 続いてはアゴニー坂。ここはアゴがニー(膝)に付くほど急だからそう名付けられたと聞いたが、疲れが溜まるピークに差し掛かっていた時間帯だから、そう考えられなくもなかったが、実際は、「心してかかる」というほどの急勾配でもなかった。

●アゴニー坂入り口●


●アゴニー坂●


■天上寺■

 アゴニー坂を抜けて下りに入ったところにあるのが、天上寺(正式にはとうりてんじょうじ=”とうり”が文字変換できない)という名の密教寺院がある。ハイキングコースから逸れるが、面白そうだったので、境内に寄り道をした。

●忉利天上寺の本殿●

 この寺の創建は646年(大化2年)というから歴史は古い…。しかし、本堂を始めとする建物全てが新しい。これにはワケがあって、実は今ある位置よりも南に本来の伽藍があったそうなのだが、1976年に、賽銭泥棒の放火によって仁王門と極一部を除いてほとんどが焼失してしまったのだ。
 何ともやりきれない旧寺の悲惨な結末に唖然とするが、それはさておき、ここからの眺望は明石海峡大橋が見渡せ、素晴らしい。

●本堂前からの眺望●

 境内にはかえるの石像が何体かあって気を和ませてくれるが、その一つである、若ガエル様を盛んに撫でるのは同行した婦人会の皆様方である。

●若ガエル様●


■掬星台より下山■

 摩耶山頂をかすめて下ると、そこにあるのが摩耶ロープウェイの終点の地、掬星台(きくせいだい)だ。
 ここに来るのは初めてだったが、これまた眺望が素晴らしく、昼間でこのクオリティであるのなら、夕方~夜は「さぞや」と思わせるモノであった。

●掬星台の眺望●

 小休止の後は、下山を急ぐ。何しろここまで時間を掛け過ぎてしまったために、急がなくては夕暮れになる。裏のバス停で地図を確認していると、ガードマンの方が声を掛けてくれ、すんなりとコースにないることが出来た。「感謝、感謝」である。

●教えてもらった方向に判り易い道標があった●


 ここからは天狗道を下山してゆく。

●天狗道脇のミツバツツジ●

 天狗道は別名ゴロゴロ坂と呼ばれるだけあって、岩塊が所々に顔を出している、やや険しい道だった。我々は下りで利用したから、まだマシではあったが、これを登って来るとなると、平坦部が少なくその分だけ休む間もなく登ることになるので、ペース配分には気をつけたいコースであった。

●天狗道の様子●

 次の分岐で学校林道へと入り、続いて旧摩耶道とをつないで更に下山してゆく。

●ハイキングコースとしては最終の分岐●

 そして、コースの最終地点が雷聲寺(雷声寺)の境内になる。

●お百度参りができるレイアウトの、お不動様●


 割とゆっくりなペースで歩いたため、今回は休憩を含めて8時間をかけての長時間行程であった。序盤はハイキングと言うより、ピクニック・コースといった感じで、それがハイキング・コース、登山コースと変化して「ゆく者を飽きさせない」楽しいコースだった。コースの各所にはモミジがかなり植えられており、それ以外の広葉樹が加わって晩秋には景観も素晴らしいモノとなるだろう。その時期に是非訪れたいコースだった。
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