中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

秋の久婦須川

2009-09-26 10:52:27 | 渓流&管理釣り場での釣り
 10月1日にやって来る禁漁日までの残り僅かな時間に、目標の「ヤマメもしくはアマゴで30cm越え」を果たしていないワタシにとっては、アセリばかりが募る毎日だ。

 そんな中、向かったのが、久しぶりになるが富山県の久婦須川(くぶすがわ)だった。お盆の前後から始まった恐怖のオロロ(吸血アブ)の猛威は、この時期になると治まっているだろうし、ワタシにとっては「アベレージサイズが揃う川」との印象があるので秋の産卵を控えた大型も出易いだろうとの予想があった。

 現地に着き、以前入渓した地点で車を止めるが、ビックリだ。この地区は前述したオロロの大発生を避けるため、盆休み以降は訪れる釣り人が極端に減るようだ。そのせいで雑草を踏みしめる人の数が極端に減り、以前に訪れた際には確かにあった河原まで降りる道筋は、勢いを盛り返した雑草がジャングルのように生い茂って全く解らない。しかしそこはワタシも釣りバカの端くれだ。普段なら絶対に降りないだろうけど、釣りとなると話は別で、キタナイだのコワイだのという感覚がマヒするのだ。意を決し、右手に持ったナタを振り回して慎重に降りて行くが「クモの巣まみれ」「雑草の青汁まみれ」なった末、ようやく河原までたどり着くことができたのであった。

 大石が複数入った「イカニモ」というポイントが目に入り、そこへの第一投から、この日の釣りが始まった。

                   

 流れる筋の脇を狙った一投目はそのまま仕掛が帰ってきたが、続く二投目は大石と大石の間にある、やや流れがたるむところを狙って仕掛を打ち込む。「大石の脇で仕掛が綺麗にトレースできている。」と思った瞬間に目印の動きが止まって「ゴンッ!」という良型のアタリが出た。
 竿先を操作しながら誘導して行くが、回りに岩やコンクリート片がゴロゴロと転がっているので取り込みには手こずりそうだ。締め込む相手をなだめつつ、やり取りを繰り返していくと、ようやく観念したのか、なんとか無事に玉網に収まった。

                    

 魚を確認すると、鼻がやや曲がり始め、婚姻色の出た立派なオスのヤマメだが、目標の30cmには到達してはいないようだ。メジャーをあててみるが、やはり28.5cmしかなかった。

                    

 同じエリアに仕掛を打ち続けてゆくが、もうアタリは出ない。少し移動した先にある堰堤下でも

                    

粘ってみたが、このポイントは誰もが攻める当たり前のポイントだから、前日の土曜日に叩かれていいたようで、22cmクラスが1匹に留まった。

                    

 徐々に移動しながらめぼしいポイントを攻めてゆくが、この時期は魚も釣り切られて減っているうえ、産卵前で神経質になっているだろうから、1ポイント1ヤマメ、それもポツリポツリでもアタリ出ればイイ方かも知れない。従って移動の距離の割には数が出ないのだ。

 それでも「ここは!?」というポイント

                    

で粘っていると、25cm前後のヤマメ

                    

を拾うことが出来、気付けば区間の終了時点では18cmクラスを含めると結構な数が出ていた。

                    
                    (今回はアユ用の引き船を使用し、撮影後に大半をリリースした。)

 ここから一旦退渓しようと、河原を歩いていると、左手に「チクッ!」とした軽い痛みが走った。見れば左手の小指をオロロがカジっているではないか!。季節が進んで全く無警戒だっただけにビックリだ。慌てて払い除け、刺したあたりを口で吸って処理をしたが、その甲斐あってか痒くも何ともない。「もしかしてワタシには耐性か免疫があるのでは」とも思ってこの日一日を快適?に過ごしたが、それはアマイ判断だった。その翌日からは軽い腫れが伴って痛痒さが5日間も続くハメになってしまったのだ。たった一匹でも相当痒いのに、盛期にこんなモノにたかりまくられると、気が変になるのはよく理解できた。やはりオロロは「恐るべし」だ。

 その後、やや下流にある、雑誌で紹介されていた区間に入り、各ポイントを攻めていく。

                    
ここでも25cmを一匹追加できたが、

                    


秋の日落ちは早い。この魚をゲットした後は、すぐにあたりが薄暗くなり始め、引き返すには心細くなってきたので、この日はここで釣りを終えることにした。

 この日の釣果は25cm~最大の28.5cmまでの粒ぞろいが四匹、その他大勢という結果だったので結構楽しめはしたが、目標には届かなかったので思いは複雑だ。本来ならこの日で今シーズンが終わるところであったのが「泣きの一回」を家族に頼み込んだ結果、残る釣行回数があと一回に増えた。ラストに賭けるつもりだが、ほとんどの河川では雨が降らず、渇水傾向にあり、苦戦は必至だろう。もうこうなったらヤケクソだ。
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良き師との出会い

2009-09-19 12:30:23 | その他
 人生、とりわけ青年期に良き師に出会うことはその後の生き方に大きな影響を及ぼす。師と呼ばれる人にも色々あって「ほめて伸ばすタイプ」や「スパルタ・タイプ」等、いったいどれが正解なのか判断することは難しい。

 「ほめて伸ばすタイプ」の第一は吉田松陰を挙げたい。少し前に読み終えた司馬遼太郎著「世に棲む日々」は、まさに良き師と生徒(弟子?)との出会いと、その後を綴っている。

                   

 この小説は日本の将来に危機感を持った吉田松陰がアメリカへの密航を企て、失敗し、後に死罪になるまでの間、山口県の萩で開いていた松下村塾(しょうかそんじゅく)が前半の舞台になっている。そこに塾頭として通い、松陰の死後はその遺志を受け継いだ高杉晋作と彼の死までを描いた作品だ。
 何しろ師である吉田松陰は司馬遼太郎氏に「吉田寅次郎(松陰)という人物はあらゆる人物に対し、おそろしいばかりの優しさを持った人物で、しかもその優しさと聡明さをもって人の長所を神のような正確さで見抜き…。」と言わしめた人物だ。だから吉田松陰の指導を受けた青年達は後の人生において、その能力を最大限に発揮してゆく。松下村塾で学んだ人物としては他に伊藤博文がおり、やや期間が短いので?マークが付くが山県有朋や、その他の明治政府の要人を多数輩出している。また塾生ではないが門人の一人として木戸孝允らにも影響を与えているということだから、日本の将来を担ぐ(維新を担う)人達に一つの基軸を教えたのが吉田松陰だと言っても過言ではない。
 
 「スパルタ・タイプ」としてはマイナーな存在だが、ワタシ自身が生徒として一部を実体験している、兵庫県西宮市立今津中学の音楽教師「得津武史先生」をあげたい。
 この先生が指揮する当時の今津中学ブラスバンド部は何年もの間、全国コンクールで金賞を取り続けており、出身者の中には数々の有名ミュージシャンとの競演で知られ、ワタシの尊敬するドラマーである、「村上”ポンタ”秀一氏」等が居る。
 その先生の生涯を描いたのが「天国のマーチ~得津武史の生涯」という小説だ。

                   

 この小説の存在を知ったのは偶然にもワタシの爺さんのことを調べていたときのことだった。ワタシの爺さんは和歌山県出身で、上海事変の際は砲兵連隊の一員として出征していたが、その連隊について調べていると、時期は異なるが、同じ連隊に何とその得津先生が属しており、その事について詳しく書かれたのがこの小説だと知ったのだ。そしてその後、購入に至った次第だ。
 小説の内容や出来は???だったが、当時を振り返るには充分だった。
 このブラスバンド部の練習量はものすごい。それこそ甲子園を目指す強豪高校の球児並だ。何しろ朝は早朝から授業が始まるまで、その後は昼休みも、モチロン放課後も夜8時頃(あるいはもっと遅かったかも…)まで毎日繰り返しており、部員に正月以外の休みは基本的にない。
 得津先生はスパルタ指導&強烈なキャラクターの人物だ。練習内容は部員ではなかったワタシには小説で読んだ範囲と当時に部員から漏れ聞いた話でしか、うかがい知れないが、大声で怒鳴られるのはモチロンのこと、簡単に折れてしまう指揮棒に変わって「天ぷら棒」と呼ばれる料理用の菜箸(さいばし)で容赦なくビシビシと叩き(シバき)まわされ、更に覚えが悪い場合にはマジックで顔にひげを書かれた部員まで居たようだ。
 我々一般生徒が先生の授業を受けることもあるにはあったが、それは申し訳程度の回数で、しかも、「おまえらは足が臭いから音楽室には入れたくない」だの「カーペットのゴミを拾え」だのと言って生徒を困らせることが多かった。その貴重な授業?以外は何故かもう一人居た別の音楽教師が受け持つことが多かったから、どうやら先生はブラスバンド専属という待遇で今津中学に在籍していたようだ。小説でも触れられていたが、昼寝をするために先生専用のベッドが隠し置かれており、そんな点を見ても今の常識は全く通用しない教師であった。「言われてみれば納得」の話だが、先生は当時隆盛を誇った日教組にも所属していなかったということだから、そのハミ出しぶりは今となっては凄まじい。
 そんな得津先生だったが、ウラの部分では部員の行く末を案じ、深い愛情を持った先生であることはブラスバンド部員はよく感じていたそうだ。だから部員の多くに愛され、慕われ続けていたのだろう。我々一般の生徒にとっても、どこかでユーモアを感じさせる部分があって何故か憎めない存在であったのは確かだ。

 「ほめて伸ばす」吉田松陰にしても「スパルタ」の得津武史先生にしても、アプローチは違えど師と生徒(弟子?)を結ぶのは信頼関係だ。今は「個性」が優先され「体罰」が否定される時代であるのかも知れないが、モチロン相性もあるだろうけど、個人的意見としては大事なのはお互いの信頼関係で、それさえあれば、どちらであっても構わないような気がする。かく言うワタクシめは、自分で言うのも何だが、ひねくれ、ネジ曲がった青年期を送っていただけに自分側に信頼される要素がなかったせいか、「師」と呼べるほど大きな存在に出くわした経験がない。だからそのような経験をした人がうらやましい。そんな風に感じた2冊であった。
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穂高川のヤマメ

2009-09-12 13:18:33 | 渓流&管理釣り場での釣り
 季節は進み、里山に麓には秋の気配が漂い始め…

                 

と書きたいところだったが、この日は日差しがジリジリと照りつけ、昼間路上で見かけたデジタル温度計は33℃を表示していた。そして数日来、照り込みが続いた結果、川は渇水状況になっており、お昼を前にした時点では天気に反してワタシの心には暗雲立ちこめるという状況だった…。


 「長野県安曇野地区」ここはウチの嫁さんや息子を含めて我が家のみんなが大好きなところで、子供が低学年の頃にはよくここを訪れていた。釣りが目的なので観光する気なんてさらさら無いとは言え、所用のある二人を残してやって来たことに後ろめたさを感じながらの釣行だった。(来年はみんなで行こうなっ!)
 この安曇野一帯は、水郷地帯と言っても過言でないほど数多くの川が網の目のように流れている。そして、そのほとんどが清流と呼ぶにふさわしいのは、わさび園の多さで理解が出来る。中でも規模が大きいのは犀川、穂高川、高瀬川といったあたりだが、その流れにはヤマメやイワナを始め、川によってはニジマスやブラウントラウト、そしてイトウまで、「いったいココはどこの国の川なんだ?」と思えるほどの種類の渓魚、それもBIGサイズ達が生息しているという。中でもヤマメ、それも30cmオーバーがどうしても欲しい今のワタシにとってニジマス以下の魚はどうでも良い話だが、ネットの情報だと穂高川では大型のヤマメも好調に釣れているということだった。今回の釣行先は当然その穂高川だ。

 まずは、穂高川では下流域にあたる位置に降り立った。このあたりの川底は意外にも砂質の部分が多く、ヒドいところでは一面全部が砂に埋まっていることもあったが、それが逆にポイントが絞りやすくするという利点もあり、あらかたの見当がつけ易かった。
 そして第一投はこのポイントからだった。

                 

 この日の釣りが始まった。狙いは大きめの底石の周辺に出来る水流の変化だが、まずはミミズをハリに着けて手前から探っていく。
 手前では早くも豆ヤマメのアタリが有る。しかしそのアタリも頻繁ではない。ならば向こう岸のアシ際に流れ込むように竿先で操作してやると、明確なアタリが出て、本日の初ヤマメをゲット!と思った瞬間にハリハズレでバラしてしまう。
 何とか粘ってこの周囲を探りきったが、豆ヤマメしか手にしていない状況で、キビシいスタートになった。

                 

 そのまま釣り上がって別のポイントを攻めてみるが、前述したように砂で埋まっているところが多く、移動距離の割にポイント数が少ない。だから自ずと移動のスピードがハイペースになってくる。それも、誰もが狙いそうなポイントばかりなので、前日の土曜に叩かれているのかアタリはほとんど出ない。そうこうしているうちに他の釣り人を発見。その後ろに更にもう一人。どうやら上流から釣り下って来ているようだ。ルアーの人ならよく見る光景だが、その二人はエサ釣りの渓流師だ。
 上流からの釣り人とクロスしても仕方がないので、慌ててスタート地点に戻り、そこからワタシも釣り下ることにした。とは言っても、またもやいつもの良型バラシを演じた他は豆サイズのみで、この時点で一度川から上がることを決意した。

 川の様子を見ながら移動しつつ、気付いたことだが、この地域では見る人と見る人みんなが釣り下っている。「もしかして、長野県では他県とはルールが違うのか?」とも思ってしまうほどだった。

 恐らくこのあたりは地方都市である松本市にも近いので、常に人が入っていることは簡単に予想できる。そのうえにこの暑さなので、プレッシャーを感じる魚が多いのは仕方のないことだ。そこで「人が入りにくいところ」をキーワードに川沿いをウロついている内に発見したのがこのポイントだった。

                 

 ここに入るには道路から背丈以上もあるアシやイバラ、その他ワケの解らん雑草の中をクモの巣を払いつつ藪コキして行かねばならず、どうやら他人は入っていないようだ。
 ミミズのエサを着けて第一投。すぐにアタリがあり一匹目の豆ヤマメをゲット。二投目には大きなアタリがあって、本日初めてのややマシなサイズ=20cmのヤマメが続いた。

                 

 この地域のしきたり?に従って徐々に釣り下ってゆくが、やはりプレッシャーが低く、頻繁にアタリが出る。特にこのポイント

                 

周辺は好調で、次々とゲットしてゆく内に本日最長寸の25cm

                 

に続き、28cmのニジマス

                 

もゲットし、やがて気付けば、釣果が二ケタに届くまでになっていた。

 その後も釣り下っていったが、さっきまでは「まずはソコソコのサイズを…。」と思っていたのが、こうなってくると現金なもので、サイズに不満が残ってくる。いわゆる「スケベ根性」というヤツだ。
 「このまま釣り下っても同じサイズが続くだろう。」と判断して、この川からの離脱を決意した。

 次に向かったのは大物場として雑誌で紹介されている高瀬川の本流域だ。

                 

 しかし、この川は所々で途切れんばかりに渇水しており、水も濁って少しイヤな臭いも発生していた。まるでコイ釣り場のようになっているところでは竿を出す気にもなれず、見回しただけでまたもや移動を開始した。
 その後、穂高川に戻りその最下流部周辺を攻めてみたが、夕まずめであるにも関わらず、全くアタリがないまま寂しい気分の中、この日の釣りが終わった。

 個人的には大好きな安曇野だが、釣り下りの釣り人が多くてやや戸惑ってしまい、印象はそんなに良いものではなかった。しかしながら、大型渓魚の実績が高いのは紛れもない事実で、その点では捨てがたい。
 でも、気になることがあった。それは、この日の穂高川を見る限りでは川底の石が、やがて砂に埋め尽くされてしまう気配が濃厚であり、こんな様子を見ていると、周囲にある山の保水力の低下を疑わざるを得ないことだ。せっかくの風景と豊富な水源に恵まれていながら、残念な方向に向かうことだけは避けたいものだ。


                              …オマケ画像…
                 
                      (田んぼの合間に何故か突然D51が…。)
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エコの話~その2

2009-09-05 17:00:49 | その他
 我々日本人は迷信っぽい話であっても、不確かな噂話の類であっても、猪突猛進してパニック状態になることがある。
 オイルショック時のパニックは良い例で、石油原料とはあまり関係のない「トイレットペーパーの買い占め」が起こった。当時ワタシは小学4年生くらいだったが、オカンが買い込んだトイレットペーパーが、屋根裏倉庫に積まれて、クイズのハズレ商品の「○○一年分」よろしく、それこそ「拭ききれない数」になっていたのを思い出す。
 この場合、「右から左」で飛ぶように売れた製紙業者が、ほくそ笑んだくらいで、誰にも大した迷惑がかからなかったろうから、結局今となっては笑い話のようになってしまうが、笑えない話もいくつかあるように思う。

 今までに環境問題についての取り組みや市民運動が各地で起こっているが、その成果が「ホンモノだったのか?」という検証が必要だ。
 そこで1970年代に滋賀県で起こった「粉石けんの推奨と洗剤の無リン化運動」の現状はどうなっているのだろうかと調べてみた。

http://jsda.org/w/06_clage/4clean_197-3.html
http://eco.goo.ne.jp/word/nature/S00004_qa.html
http://www.aquabiwa.jp/aqua/env-quality.html#t03

 この運動は「洗剤に含まれるリン」が琵琶湖の富栄養化=水質汚染の「最悪玉」だとして「リンを含む合成洗剤」を追放する条例の制定までに至った運動だ。しかし、上記H.P.の資料によると、運動後、現在に至るまで琵琶湖内のリンの割合はじりじりと下がってはいるものの、水質に関していうと、透明度に関してはほとんど横ばいで改善されていない状況のようだ。逆にその他の湖内の汚れを示す「COD(化学的酸素要求量)」や「クロロフィルa」、「DO(溶存酸素)」の数値はじりじりと上がって悪化しているようだ。
 これらをシロート考えで分析?してみる。運動発足以降の「洗剤の無リン化」、「1970年台初頭には普及率5%以下だった下水道普及率が2000年前後には65%を越えた」等の努力は、洗剤に含まれるリンを入口と出口で封鎖するにも等しい。であったのにもかかわらず、汚染の数値が横ばい、もしくは、じりじりと悪化しているのであれば、「洗剤のリンは主犯ではなかったのでは?」という予測がたってくる。
 やはりそれは正解だったのか、琵琶湖の石けん運動を進めてきた、びわ湖会議も、最近では総合的な運動に方針転換をしているということらしい。

 総合的に考えるというのなら、シロートのワタシにも思い当たるフシがある。
 ワタシには今から15年ほど前、バス釣りに凝って琵琶湖通いをした時期があった。その時の経験だが、ワンドの中に田んぼのドロ濁りが入ると、エラのドロ詰まりの影響なのか、土中に含まれる農薬の影響なのかは解らないが、大量の小魚が腹を返して浮かぶ姿を見ることがあった。
 他にもある。
 琵琶湖の周囲には元々アシが多く茂っていた。アシには水質浄化機能があり、琵琶湖固有の魚達の産卵場であるハズなのに、多くが伐採されて湖岸道路が整備されているが「これらも水質悪化の原因の一つでは。」とも思っていた。(今では植え直す運動もあるらしいが…。)
 別に滋賀県民でもないワタシが、釣りをしながら琵琶湖を見ただけでこれくらいのことは思い当たったのに、その当時に「リン以外にも原因になりそうなものがあることに何故気付かなかったのか」ということに不思議さを感じる。

 とにも、かくにも、この運動の影響で、例えばもし、無リン化した洗剤が作れずに倒産した会社があったり、リンを配合した洗剤の在庫を抱えて苦労した会社や個人があったとしたら、気の毒でならない。当時を振り返った記述の一部に「結果はともあれ、市民の運動が企業や行政を動かしたのは評価できる。」とあるのを見て、なんとなく無責任だと思うのはワタシだけだろうか?。

  当時も今もリンは汚染原因の一つには違いないということなので、手遅れになる前に手を打ったのは「仕方がないこと」だったのかも知れないが、一つの現象や物質を捉えて、みんなで魔女狩りのように吊し上げるのは、総合的な判断が出来ないうえ、本質が見えず、危険な行為だと思う。近頃でも、環境問題や食品等に対し、いい加減なデータや根拠づけをもって「○○悪者説」を唱えて世間を扇動する本=トンデモ本が出版されたり、運動が起こることがある。だが、それを受け止める側の我々一般庶民は、決してヒステリックにはならず、慎重に判断する姿勢が必要だと思うのだが、どうだろうか…。
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