中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

子供に読んで欲しい本

2009-12-26 12:30:40 | その他
 子供に読んで欲しい本は色々あって、選ぶのに迷うが、司馬遼太郎氏のファンであるボクからすれば、第一に「二十一世紀に生きる君たちへ(司馬遼太郎著)」を挙げたい。

                 

 この本には「二十一世紀に生きる君たちへ」と「洪庵のたいまつ」という、二つの話が入っている。それぞれが大阪書籍の小学6年生と5年生の国語教科書にも採用されていた(今もかな?)もので、司馬さんが小学生向けに書いたのはこの2編しかないので大変貴重な作品だ。

 「二十一世紀に生きる君たちへ」は、これから未来を担う子供達に対しての、司馬さんからのメッセージで、自然と共生し、「自分に厳しく、相手には優しい」自己を確立するすることを説き、「何をしなければならないか」ということをテーマに書かれている。
 「洪庵のたいまつ」は江戸時代の鎖国政策という暗闇の中、世界に向けて、たった一つだけ空いた小さな穴から差し込む光であった蘭学を、自ら「適塾」を開いて塾生達に伝え、明治維新の原動力となる人材を育成した、緒方洪庵を通じて、「学ぶとは何か」を説き、「何の為に生きるのか」ということをテーマに書かれている。

 共に、司馬さんが小学生の、主に高学年に向けて優しく問いかけるように書いているが、本自体は挿絵代わりに綺麗な写真が挿入されていて、文字は大きく、漢字にはカナがうってあるので、理解力のある子供や、偉人伝なんかを読み始めた子供なら3、4年生でも大丈夫だと思う。内容は大人のボクが読んでも感動するくらいの作品であり、親子共々読めるので、かなりお薦めである。


 上記作品が書かれた年から20年が経った今年、「未来をつくる君たちへ」という本が発刊された。

                 

11月中旬に、NHKの「プロジェクトJAPAN」という番組の中で3回シリーズとして放映された内容を本にしたモノなので、それを見た人もいるかとは思う。
 本には、司馬さんの作品の中から選んだモノを題材に、立花隆氏、関川夏央氏、松本健一氏の3人が小、中学生に対して行った講演の内容が収められている。
 関川夏央氏は「坂の上の雲」の中に出てくる「正岡子規」をとりあげ、「人に思いを伝えるにはどうすればよいのか」ということを、松本健一氏は「菜の花の沖」の主人公である「高田嘉兵衛」をとりあげて「絶対に諦めない心」を説いている。
 そして立花隆氏がとりあげたのが、上記の「二十一世紀に生きる君たちへ~洪庵のたいまつ」だ。

 立花隆氏は、司馬さんがこの本を書いた1989年に感じていた未来とは少し違った様相になっていることを指摘している。はたして司馬さんが書かれていたような「輝かしいもの」になっているのかと…。
 いまの時代は二十一世紀の初頭だが、二十世紀に起きた環境問題や、国の借金といった重い荷物を背負ってヨタヨタと歩いている。もしかしたら今後はもっと重苦しい世の中になるかも知れない。そんな世の中になっても生きていくことが出来るように、あらかじめ答えの決まっている学校での勉強だけでなく、「現実の社会での変化に対応した『正解が判らない問題にも、自分なりの答えを出して行動する力』をつけなくてはならない。」と説いている。

 続いて立花隆氏はインターネットで世界と繋がっていながら、外の世界を見ようとしない現在は、江戸期、戦中戦前期に次ぐ第3の鎖国時代だと言っている。そこでとり上げるのが「洪庵のたいまつ」だ。そして、「情報を得ることがいかに重要か」ということについて語ってゆく…。

 この「未来をつくる君たちへ」は、「二十一世紀に生きる君たちへ~洪庵のたいまつ」よりも、やや対象年齢が上で、小学校6年生~中学生にかけてくらいに読んでもらうと丁度良いと思う。多感な時期の子供達にとっては、将来に不安を持ち、迷った際に、心の小さな指標の一つになると思うので、これも時期が来た子供達には是非読んでもらいたい一冊だ。

 特に立花隆さんの書いているところは、さすがにあの田中角栄を追い込むきっかけを作ったジャーナリストなだけあって、切り口は鋭い。だから、我々大人達が読んでも「ウ~ん」と唸らされてしまうし、読んで感じる部分も多い。
 今後の日本を背負う人達は、当然我々世代が現在育てている子供達の世代だ。立花隆氏が指摘している彼らにとっての負担は、二十世紀後半にバブル景気に踊り、崩壊させて日本を借金まみれにさせ、使い捨て文化の中で大量消費を続け、環境破壊を振り返ることもなかった我々世代のツケだとも言える。そう思うと何とも辛いが、この本は我々世代に、「せめてもの償いに、子供達が、これからやって来る時代の変化に対応できる人間になれるように助力を惜しんではならない。」と、改めて自らの責務の重さに気付かせるキッカケとなる一冊でもあるのだ。 

元F1小僧の嘆き

2009-12-19 12:30:27 | その他
 もう、ニュースとしては既に古くなってしまった感もあるが、一言?を…。

 昨年のホンダに続き、トヨタがF1から撤退。だが、今までエンジン・メーカーや、タイヤ・メーカーは資金不足や、宣伝や研究の費用対効果が見込めない場合は、意外とあっさり撤退していたから、不景気で赤字転落で株主に申し訳が立たないとなれば大企業の姿勢としてはこんなモンなのだろう。と、ここまではやや織り込み済み?の感もあるが、問題はF1が見る者の心を掴み、ワクワクさせてくれているのか?というところににあると思う。


 スーパーカー・ブームではイベント会場で写真を撮りまくり、国道の陸橋から下を走るポルシェを探して眺めていた…。そんなボクの少年時代。
 それまではプラモデルの組み立て説明書に載っている「ヒストリー」でのみしか知ることの出来なかったF1が、富士スピードウェイに「F1日本グランプリ」としてやって来た。それは1976年のことだった。勿論観戦はTV中継だった。細かな内容は覚えていないが、雨の中を走るジェームス・ハントのマクラーレン、ドライバーの名は忘れたが6輪(今は禁止だが前輪が4輪、後輪が2輪)のタイレル(当時はティレルとは言わなかった。)が印象に残っている。
 翌年の1977年は、何かの都合で一部しか見ていないが、観客に向かってクラッシュしたボディが飛び込む死亡事故があったのを覚えている。
 しかし、それ以降にTV中継はなく、やがては忘れ去るようになっていった。

 次にF1熱が再燃したのは普通運転免許を取ったばかりの頃=「オートスポーツ」というレース専門雑誌を読み始めた頃だ。もっともTV中継なんてされていなかった時代だから、写真と記事によって脳内に描くレースシ-ンを楽しむのが精一杯だった。ジル・ビルニューヴが事故で亡くなった際の写真を覚えているから、恐らく1982年のことだろう。
 特に好きだったのは、予選では1000馬力を越えているものの、不安定なBMW直4ターボエンジンを見事にコントロールして83年のチャンピオンになった、ブラバム/BMWの「ネルソン・ピケ」というドライバーで、以後ホンダエンジン・ユーザーに変わっても、ずっとボクはファンだった。
 
 87年には、フジTV系列での放送が始まったので、それまでのレース・マニアの世界から一般化され、日本でのF1は、誰にでも近寄ることができるように変わっていった。自分の脳内にあったF1の世界とTV局の「クサい演出」とのギャップには閉口気味だったが、簡単に映像が見られるようになったボクは幸せな気分だった。やがて、それが至って実際にレースを見に行く迄になるのだが…。

 ボクが特に好きだった期間は82年~87年頃だ。
 当時のF1は、各国を代表する自動車メーカーがナショナル・カラー(※注1)を背負った時代から、多くのチームがフォード(コスワース)DFVのような、誰もが手に入れられるエンジンを搭載して走っていた時代を経て、大自動車メーカーが大資本を投入しての「メーカーのプライドを賭けた戦い」という様相になっていた。

 83年にはレギュレーションでグラウンド・エフェクト(※注2)が禁止され、1500ccのターボ・エンジンが全盛期に向かっていた。
 そして、ホンダが「スピリット/ホンダ」として再デビューを果たし、翌84年にはアイルトン・セナもデビューを果たしている。そしてそれは、その後に続く「アラン・プロスト、アイルトン・セナ、ネルソン・ピケ、ナイジェル・マンセル」の4人の有力ドライバーが中心のいわゆる”4強時代”の幕開けだった。

 大メーカーが作るエンジンも試行錯誤を繰り返している時期だったのか、TAGポルシェがニキ・ラウダとアラン・プロストの二人でバカ勝ちした84年以外はルノー、ホンダ、TAGポルシェ、BMWエンジンの、どのユーザーでも勝利するチャンスがあった。日本史でも戦国期や明治維新期のような「群雄割拠の時代」が一番人気があるのと同じで、誰が勝つか判らないレースは一番オモシロく、また、応援のしがいもある。

 そしてこの時期はテクノロジーが急速に高まりつつあったが、まだまだ主役はドライバーだった。
 ホンダF1の元総監督で、上記の4強全員と組んだことのある桜井淑敏氏は「シフトワークのピケ、ステアリングワークのマンセル、タイヤ使いのプロスト、アクセルワークのセナ(当時セナ足とまで呼ばれていた。)」と、それぞれを評価しているらしいが、例えばシフトもマニュアルの機械式で、レバーを操作していたように、車が電子制御され過ぎていない時代でもあったので、何らかのトラブルを抱えていても、ドライバーの能力で何とか凌ぐ場面が近年よりも遙かに多かったように思う。
 また、人間臭さがにじみ出る代表のようなナイジェル・マンセルというドライバーの存在も大きかった。(※注3)

 しかし、ホンダがマクラーレンと組んで連戦連勝し始めた頃から、ほとんどの場合で一部のエンジン・ユーザーしか勝てない状況が毎年のように起こり始めた。
 そしてパドル・シフト、アクティブ・サスペンション、トラクション・コントロール、パワー・ステアリングの「ハイテク化」と呼ばれた時代に入ると、車の能力が人間のコントロール能力を上回るようになっていく。
 これは、「誰が運転するのか?」「ということより、「誰がこの車に乗るのか?」ということが第一になってゆく流れを現していた。つまり、勿論必要な最低条件はあるものの、極論を言えば、「誰が運転しても勝てる車」の時代になったということだと思う。
 実際に92年頃、ウイリアムズ・チームのオーナーのフランク・ウィリアムズは「自チームのマシンなら誰が乗ってもタイトルを取れる」と確信していたから、ドライバーを天秤に掛けてトラブルを起こしたし、ドライバー側から逆に契約金を値下げしてまで「乗りたい」と言われていた。
 特に93年のウイリアムズFW15Cは一部メディアから「実物大ラジコンカー」とまで言われていたということだから、「誰が運転しても勝てる車」というのは事実に近い話なのだろう。

 こうなってくると、シーズン序盤の何戦かを見れば、今年は、どこのチームチームが勝つのかが、かなりの確率で判断できるようになってしまう。
 そんな流れに至る途中で、まず91年末にネルソン・ピケが最初に引退し、その後ライバル達も次々と引退していった。94年にはハイテク化は禁止されたが、その年にアイルトン・セナを死亡事故で失ってしまう。これでは「そして、車だけが残った。」と感じるようになり、ボクの興味は急速に薄れ、やがてTV中継も見なくなっていった。

 以後は、それでも気になって、インターネット・ニュースなんかを時たま見たりしていたが、ミハエル・シューマッハが引退するまでは彼を中心に「彼対その他のライバルの内の誰か」の戦いが続き、たまたま混戦になった年は「彼の車の出来が悪かっただけ」みたいに思える。
 F3時代は彼とマカオ・グランプリで死闘を繰り広げ、彼よりも評価の高かったミカ・ハッキネンもF1界では出遅れ、2度チャンピオンを獲得したものの、期待されたほどでもなかったような気がするし、その引退も早かった。
 このようなミハエル・シューマッハの黄金期の展開をボクは遠巻きながら、まるで巨人軍がV9をした時代のプロ野球を、今更ながらに見せつけられているような気分で眺めていた。
 ミハエル・シューマッハの乗った車のセッティングは、誰もがコントロールしにくいと感じ、タイムが出せないシロモノだったということだから、彼のみが「もしかしたらテクノロジーを越えた存在だったのではないのか?」とも思うが、一部を除いて、ライバル達の選手寿命が車の寿命と同じように短いのは、どういう意味なのなのだろうか?…。

 「昔は良かった。」と言いたい気持ちはサラサラ無いが、もしも、ボクが80年代の後半以降に感じたように、人間同士の闘いというよりも、「一人を除いて?」誰が乗っても速い車同士の闘いがその後もずっと続いていたのなら、ファンが離れてゆくのは仕方がないと思う。
 FIAの側でも安全性の向上と、何とか競技をオモシロくしようと、毎年のようにレギュレーションを変えていった。しかし、その間も様々な技術革新がすぐに主催者側の抑制を追い越していったであろう。だが、その結果、かかるコストは莫大になっていった。で、あるから、近年では、かかり過ぎたコストを削減するために一部パーツの統一化が始まっているようだし、既にエンジンは8気筒以下、排気量は自然吸気の2400ccに引き下げられている。しかしながら小さくまとまりすぎた今のF1は昔のF3並に小さく、ボクには何だかショボく見えてしまう。

 また、近頃は世界不況の影響や環境問題の影響か?とも言われ、スポンサーの撤退が相次ぎ、世界的にF1人気そのものが下降しているということだが、FIAとしても流れに添う形でKERS(運動エネルギー回生システム)という、ハイブリッド的なシステムを導入して、いわゆる「エコ」を標榜しているが、ボク自身はそれとは相反する位置にあるのがF1だと思うのだが…。
 悲しいけれど「ある意味限界がきているのでは?」と、久々に一ファンとしてF1を振り返った週末であった。

(冒頭で一言と言っておきながら、この長さ。オタクの長話にお付き合い下さってありがとうございます。)

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※注1=現在の市販車やF1チームに至るまで、メルセデス・ベンツのイメージカラーがシルバーなのも、ジャガー(ジャギュア)のイメージカラーがグリーンなのも、ルノーのイメージカラーがブルーなのも、その国のナショナルカラーを独=シルバー、英=グリーン、仏=ブルー等として塗装し、走っていた影響。(他にも各国の色がある。)

※注2=前後タイヤ間のボディ下を翼断面構造や、その他の工夫を施し負圧で地面に吸い付かせる仕組み。スピンなどで空気の流れが逆になると圧が逆になるので、車が宙を舞い易くなるという危険性があった。すぐに禁止されたが、扇風機のようなファンを付けたモノまであった。

※注3=ナイジェル・マンセルは72戦目にしてようやく初優勝をした遅咲きのドライバー。それ以降も勝利を重ねていき、何度かチャンピオンを獲るチャンスを得るものの、獲得寸前に不運や事故、そして本人のミスで逃がし続け、ようやく獲得できたのは92年の一度だけだった。彼はその人間味溢れる?行動から、当時はかなり人気のあったドライバーだ。レース後につかみ合いの喧嘩をするし、ゴール寸前にミッションを壊して止まった車を自らの人力で押してゴールインさせようとしたり(結果は失神してダウン=6位)、表彰式に向かうオープンカーの上で手を振っていたら鉄柱に頭をぶつけたりしていた。手を振ると言えば、本人は否定しているらしいが、ぶっちぎりのトップを快走し、最終周の残り半周で手を振りながらゴールに向かっている最中にキル・スイッチ(エンジン停止ボタン)に触れてリタイヤということもあった。



                           ……オマケ映像……

                           秋も終わりですな…。

ハイキング ~紅葉谷から番匠屋畑尾根

2009-12-12 12:30:12 | アウトドア・スポーツ
 紅葉シーズン真っ只中に選んだのは、その名も紅葉谷を通るルートだ。

 出発点は有馬から六甲山町へと向かうロープウェイの有馬温泉駅。丁度その真下に駐車場があるので都合がイイ。

                

 出発してすぐは、舗装された林道を通って行く。

                

 既に麓まで紅葉前線が降り始め、まだらなコントラストが美しい。

                

 一旦、道が下り、この東屋を左手に見えたすぐ先に河原があるので、それを越えたら本格的なハイキングコースになる。

                
                

 このコースはかなり開けているので、随所に案内標識があるので迷うことはない。


                  (左上から時計回りでコース上に登場してくる。)

 そして、これまた標識通りに進めば一つ目の滝=七曲り滝(ななまがりたき)に到着する。

                


                     (下に降りることが出来ず、横からの撮影)

 来た道を一旦戻り、紅葉谷の方へと更に進んで行くと、百間滝(ひゃっけんたき)への案内標識がある。
                

 百間滝へ向かう道は、ただ斜面を削っただけの、幅30cmくらいの所もあり、足を踏み外すと滑り落ちて行くので要注意!。

                
                       (左足の横10cmから先は急斜面!)

 そして最初に到着するのが、百間滝の落ち込み始める部分だ。

                
                           (滝の上に乗り出して撮影)

そして回り込むと、滝壺の正面へ到達する。

               (水が落ち始める切り欠き部分が先程の写真の位置)

 ここで記念撮影!と、セルフタイマーをセットしたが、走って行く途中で「スッテンコロリン」をしでかす。

                

 立ち位置を変えて取り直し。今度は無事完了。

                

百間滝のすぐ隣の沢筋には似位滝(にいのたき)がある。

                



 そして、ここで昼食をとる。メニューは、ありきたりなインスタントで…。

                

 昼食後は来た道を一旦戻り、紅葉谷方面へと向かう。最後の部分が階段状になっているので、少し疲れたが、

                

無事、極楽茶屋跡の分岐に到着した。今回のコースの最高地点だ。

                

 先の分岐点を折り返すと番匠屋畑尾根(ばんしょうやばたおね)を通るコースに入る。最初の内は笹原だが、やや樹木が迫って遠くまで抜けるような見晴らしは少ないが、尾根らしいコースへと変化してゆく。

                

 ここから先も随所に案内板があるので安心だ。

                

 まずは湯槽谷山(ゆぶねだにやま)を目指す。この標識辺りから登り始めだが、疲れがピーク近くになっているので結構キツイ。

                

 そして、ここが湯槽谷山頂になる。 

                

 時間もないことだし、この分岐を右折して紅葉谷に向かうつもりだったが…

                

こんな警告があったので、そのまま直進して灰形山を越えるルートに急遽変更した。
                

 そして、ここが灰形山の山頂だ。

                
                

 この山頂に着いて休憩していると、この地点で迷っていたカップルが居た。「後ろをついて行く」と言われたので先頭を歩いたが、カラーテープが巻いてあってもすぐに途切れるので、どうにもルートが判らず、3人でウロウロと探している内に30分近くロスしてしまう。
 結局ルートを見付けたのは女性の方だった。その相方の男性を含めた3人で、「こういうときに遭難するのは男性なんだろうなぁ」談笑しながら少し歩いた後に別れたが、「お先に失礼!」と前に出た途端にコケてしまい、ルートが見付けられなかったことを含めて二重の大恥をかいてしまった。

 ここから先は時間節約のために、やや小走りで進んで行くと最後の分岐があり、

                

 旅館街に出てきたら、そこがゴール地点だ。




 紅葉谷(もみじだに)と言うからには、季節的に「紅葉が素晴らしいかも?」と思いながら歩いたが、紅葉(もみじ)の木はそう多くなかった。結局一番綺麗な紅葉スポットは手入れがされている麓の温泉街だったという、皮肉な結果だった。これは訪れた時期がやや早かったのが第一だ。それに加えて六甲山が植林され、再生された山だからなのか、群生しているところが少なく、ポツンポツンとあるだけなので「一面真っ赤」という訳にはいかなかったせいだ。しかも、まわりの他種と色付くタイミングがずれているので、せっかく良い木を見付けてもまわりが既に枯れていることも多かった。とはいうものの、このコースには見応えのある滝もあるし、整備されて歩きやすく、景観にも変化があって楽しい。よってファミリ-で行っても充分に楽しめるコースだと思う。


                          ……オマケ映像……

                            紅葉谷の四景

漂流するオジサン

2009-12-05 12:30:15 | その他
 齢(よわい)40も後半に入っているボクだが、自分が着るモノに関しては、デザインよりも「優先するのは高機能だ」とばかりに、夏であればダクロンQDなどの即乾素材、冬であればポーラテックなどの保温素材、アウターウエアはゴアテックスなどの防水透湿素材と、アウトドア・ウェアーのコーナーで、裏タグの素材表示を確認するのが第一の商品選びをしている。だから世間の流行なんて全然知らないし、既に「そんなこと、どうでもイイ」と思っているところがある。
 あれほど好きだった車も、今では自分の趣味に対して「どう機能を発揮してくれるか?」という実用面が第一で、外観は二の次になっている。
 そんな暮らしをしているし、若い世代との交流も皆無に近いので、刺激も受けない。だから、振り返れば自分が世間に取り残されている感が多少なりともある。だが、それは自分のライフスタイルなので、そんなに気にはならないが、たまたま交わした言葉や、見かけた文章の中に「アレ~、いつの間に…。」と違和感を感じることが近頃多い。

 先日、息子が「コレ、食べれる?」って感じの言葉を使ったので、「ちゃんと『食べられる』と言いなさい。」と注意をした。
 すかさず子供から「『ら抜き言葉』でしょ?」「それってウンヌン、カンヌン…。」小学生でも高学年ともなると、完璧に言い返してくる。どうやら彼の話では「今では話し言葉はOK」と、学校でも認められているということらしい。コッチの感想としては「いつの間に?」という感覚だ。
 「その使い方、子供っぽいから止めといた方が…。」と言おうとしたところで、女房に先を越されて言われてしまい、振り上げた拳の降ろし場所に困ってしまった。

 ボクの記憶の中では確か子供の頃には、それが可能かどうかを指す場合、「『食べれる』ではなくて『食べられる』、『見れる』ではなくて『見られる』に直しなさい。」と各方面から注意されたような気がする。
 それを受けて子供心に、その「ら付き言葉?」の方が「大人の言葉」という感覚があって、「ら抜き言葉」に幼児性を感じていた様な気がしていた。そして、今でも実際に原稿を雑誌やブログに出す際には、ほぼ100%の確率で「ら」を付けていると思うし、周囲につられて使ってしまいそうになる会話時にも、そうならないように極力気をつけているのだが…。

 今更ながら調べてみると、「ら抜き言葉」には賛否両論が渦巻いているようだが、概ね息子の言うとおりで、文法的には間違っているから、書き言葉としてはペケだが、話し言葉としては一般的に既に普及していることもあってマルという感じだった。(折衷案のようで釈然としないが…)
 オモシロいのはTV局の解釈だ。ここ近年のTV番組では、発言に合わせて字幕スーパーを入れることがよくあるが、注意して観察していると、発言者が「れる」と言っていても、字幕スーパーではちゃんと「られる」に修正されてるのをよく見かけるのだ。このことも上記の折衷案が正しい裏付けになるだろう。

 もはや「ついて行けないオジサン」になったボクの違和感はコレに留まらない。
 たまたま覗いたブログやホームページの中にも見かけるし、オークションで相手とのやり取りをする際、若い(実際にはコチラが勝手にそう感じているだけだが)人の内、2割くらいは「こんばんは」「こんにちは」を「こんばんわ」「こんにちわ」と書いてくるが、コレも、もはや一般化しつつあるのだろうか?。ボクらの時代には、これが覚えられないヤツはバカにされたので自然とマスターしたが、近頃は、そうはならないのかな?。今はオバカ・ブームの終わりかけ?だと思うが、その流れやシャレでワザと使っているのか、活字媒体を読まない世代は「音」で判断するから、使い分ける必要がないと思っているのかは知らないが、せめて「面識のないオジサンの前では使うな!」とは言っておきたい。

 ここ近年で何度も採り上げられ、やや語り尽くされた感もあるが、コンビニのレジなんかで現金を支払う際に交わされている「~円からでよろしかったでしょうか?」というのを聞くと未だに居心地が悪い。こういうのを「バイト敬語」と言うらしくて、今ではかなり種類が増えているようだ。しかも驚くことに既に世間ではその多くが認められつつあるそうだ。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%88%E6%95%AC%E8%AA%9E
 多分、コレは客が財布から出した、例えば1000円に対して、「この金額を元に精算しても良いのでしょうか?」であったり「この他に、お手持ちの細かい金額の硬貨はないのでしょうか?」の確認の意味で言っているのだろうけど、それならばもっと簡単に「1000円でイイですか?」と言えば済むのに、一見(聞?)丁寧を装っていながら、変な言い回しをされるのは非常にキモチワルイ。コンビニ本部には接客をアドバイスするスタッフも居るだろうに、今のように広まる前に注意をしなかったのが不思議に思う。
 「1000円からで、よろしかったでしょうか?」と言われた際に「金をもらったのはオレからだろ~が!」「ということはオレは1000円なのか?」と、屁理屈的なツッ込みを入れたくなるのはボクだけでは無いと思うのだが…。

 「和製英語」的な使いまわしの中にもついて行けない言葉は山ほどある。
 例えば「カリスマ美容師」というくらいだから、織田信長やヒトラー、もしくはスターリンのような他を圧する雰囲気を持ち、カットやパーマの仕上がりに対して、こちらから注文をつけようものなら、「生きて店からは出られない」みたいに「苛烈な人」が出てくるのかと思っていたら、ただ単に手先が器用な兄ちゃんであったり、「ア・カペラで歌います。」と言うからには、教会音楽がベースになったコーラスの綺麗な無伴奏の音楽を想像していたら、ヘタクソ一人が伴奏無しで歌っているだけだったりする。また、とても芸術的とは思えない歌唱力なのに「アーチスト」とはどういうことなのだろうか?。ついでに言うなら「焼き肉のタレ」を「漬けて焼いて、また漬けて」しながら食べているのにバーベキューとは…。
 外国語を日本語に組み合わすのは、言葉にある種のイメージや響きを加える為なのだろうけど、使い方を間違えると、その言葉を母国語とする人達が聞けば、我々が時々外国人のイレズミを見て笑ってしまうような=例えば二の腕に「足」と彫っているのを見た時のような感覚と同じように「カッコ悪~」と思われているのだとしたら、何だか恥ずかしいので、ボクだったら使うのをためらうのだが…。オジサンにとって、この手の感覚は本当にワケが解らん。

 日本語の乱れは近年に始まったことではなく「枕草子」の時代には既に若者の、言葉の乱れを嘆いていたらしいから、仕方のないことなのかも知れない。それに我々の世代も同様にオヤジ達に嘆かれていたに違いないから、この「悶々感」は自分がオジサンになった何よりの証拠なのだろう。
 元より、何かの調査の際に「お住まいは、どのようなタイプですか?」と聞かれると、豪邸でもないのに「マンションです。」と、つい答えてしまうボクには文句を言う権利はないのかな?…。
 世間に取り残され、漂流している内に、やがては浦島太郎を経て、最終的には道を歩けば子供達が逃げ出すような、嫌われジジイになる予定のオジサンの愚痴?だから、右から左に聞き流してもらって結構でゴザイマス。


                             ……オマケ映像……

        愚痴にお付き合いいただいた御礼に、今年のベスト・ショットかな?を…~有馬周辺にて
              (ただし、高解像版を載せられないのが残念なところだけど…。)