中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

日台の架け橋

2012-06-30 12:30:00 | その他
■日本陸軍の人々■

 日頃から近代史に興味のあるボクは、大東亜戦争(太平洋戦争)関連の書物に触れることが多い。しかし、それらは海軍軍人や海軍の戦史に触れたモノ、特に零戦乗りを代表とする、海軍パイロット関連の本が多く、「他にはないのか?」と、実際にAMAZON等で調べてみても、発刊されているモノの多くが、その類だということに気付かされる。
 これは、最終的にはコテンパンにやられた負け戦の中であっても、初期という限定的な期間ながら、零戦という兵器とそれに乗ったパイロットが連合国に対して圧倒的な力を示したことが、「我々日本人の誇り」へとつながる琴線に触れるからだろう。しかし、対する陸軍にはどうも陰惨なイメージが強く、「開戦は陸軍が主導した。」という説による、ある種の後ろめたさがあるから発刊数が少ないのだと個人的には思っている。
 しかし、実際には海軍であっても艦隊勤務の現場では鉄拳制裁は日常茶飯事であったし、現在で言うところの省益を優先し、指導部やその周囲では開戦に賛成した人達も多かったそうである。逆に陸軍の中にも我々が誇れる事柄があり、人物が居るハズである。
 そんな中、とある本に出会った。それが門田隆将著「この命、義に捧ぐ」という本だった。

●この命義に捧ぐ●


■根本博中将■

 この本は、旧日本陸軍中将であるところの根本博中将を追った内容で構成されている。この中将は、駐蒙軍司令官として内蒙古北支方面の指揮にあたっていた際に昭和20年8月15日の終戦を迎えた。
 その6日前にあたる8月9日、「日ソ中立条約」の有効期限が半年以上も残る中で突如ソ連が宣戦布告し、隣の満州と、この内蒙古北支方面、樺太等に対しての侵攻が始まった。その際、特に満州国内ではソ連軍その他による、一般人に対しての略奪、強姦、虐待といった不法かつ残虐な行為が起こったが、頼りの関東軍=この一帯を守備し、住民を保護するハズであった、日本陸軍の方面軍に捨て去られたとがこの悲劇の要因として語られることが多い。少し前のNHKドラマ「開拓者たち」でもその描写があったが、これには、南方の対米戦に人員をとられたために兵力が激減し、マトモな反撃できないので仕方なく防衛線を後退させたり拠点にこもったりしたから、そのような結果になったとする説もあるのだが…。
 悲劇は8月15日の終戦日を迎えても続く。満州国内の関東軍はソ連の要求する武装解除に素直に応じたため、全くの無抵抗となり、以後同国内に取り残された日本人の多くが、言わば蹂躙されるがままの状態となった。特に後の「シベリア抑留」の被害者は60万人とも言われるが、多くの人々がこのような「奴隷扱い」を受けた他、今も続く残留孤児問題のきっかけは、「抗う術がなかった」ところにもあったようだ。
 対して、根本中将の指揮する内蒙古北支方面ではソ連側は信用がおけないとして、ソ連はもちろんのこと、度重なる日本陸軍上層部からの命令にも応じず、「それに対する責任の全ては自身がとる」として、8月15日以降も武装解除には応じなかった。そして同方面に残る在留邦人4万人が無事日本に向けて帰国できる位置へと到着するまで徹底抗戦し、退路である線路の守備はおろか、食料等の物資を待避する一般邦人優先で各駅に配置するなどの計らいも同時に行い、守り抜いたのだ。
 しかも、その最中に国民政府(蒋介石側)と交渉し、一般邦人への配慮を要求し、受け入れてもらうことで日本への帰国の目処をつけ、最終的には一般邦人の安全が確保できたとして、自身の軍は国民政府に対して降伏し、そこで武装解除を受けさせたのだ。


■国共内戦のさなか■

 終戦後、無事日本に帰国した根本中将だったが、中国国内における毛沢東軍(共産党軍)と蒋介石軍(国民党軍)のいわゆる国共内戦が最終局面に入り、蒋介石軍が台湾海峡付近まで撤退して「後がない」状態まで追い込まれた時に、密使の訪問を受ける。そして、根本中将は終戦時の日本人に対して徳をもって対処してくれた蒋介石とその軍に、義をもってお返ししようと、宮崎県から台湾へ、穴が開いて浸水するような状態の、わずか30トンにも満たないボロ船に乗って密航を決意するのだが…。
 以降は本を読んで欲しいが、この根本中将を始め、白団(ぱいだん)と呼ばれていた顧問団の人々ように、国民党の独立保持のために命を懸けた人達がこの時期には何人も居る。そういった人々は根本中将のように、自身が受けた恩義のために、あるいは大東亜戦争中に死んでいった戦友や部下たちに対して、生き残ってしまった自分の”死に場所”を求めて向かったのかも知れない。


■日台の架け橋■

 これまで台湾では「八田ダム」と通称で呼ばれる、当時としてはアジア一のダムと灌漑用水路網を築いて台湾最大の穀倉地を造った八田與一(はった・よいち)が、現地で感謝され、毎年追悼式が行われているということは聞いたことがあるが、それ以外にも根本中将達のように、台湾政府の創始から発展に関わり、尽力した人々がたくさん居ることに、この本で気付かされた。
 しかし、そんなことが一般には語られず、わざわざ調べなくては判らないにはいくつかの理由がある。
 台湾国民政府初期の指導者である蒋介石は、満州事変に始まる日本との15年戦争時には中国大陸における排日運動と対日戦争を強硬に行ったが、その政治的な表の顔の裏側に、彼自身に日本留学経験があることからでも判るように、日本に対する個人的な好意感がどこかにあったように思われる。だからこそ助力を受け入れたのだと思う。だが、台湾に国民政府を移し、腰を据えた後は、台湾に元から住み、日本統治下で暮らしていた本省人に対する外省人の支配力を増すために日本的影響を排除する道を選んだ。その結果、日本人の助力は歴史から消される運命になったのだろう。
 そして、戦後の日本では、過去に対する反省もなく表舞台に復活したとされる人々の「口の大きさ」とは逆に、こういった助力をした人の多くが、その責任感の強さと敗戦に対する自戒の念から声を発することを良しとしなかった。もし語ったとしても、死の直前に「あなたが真実を語らなければ…。」と説得された末に、ようやく口を開いた程度の人が多い。だから、こういった人々の話に関しては我々世代以降の人々が発掘しなければ、なかなか世には出てこないのだろう。


■信頼関係■

 昨年、東北で震災が起こった後に各国からの支援があった。中でも台湾からは200億円を越える義援金が届けられ、その額は世界最大だという。この背景にはアニメが有名だとか、ファッションがイケてるだとか、先端技術がすごいとか、あるいはビジネスパ-トナーだとか、台湾国民自らが震災にあった際に援助を受けたことに対する返礼という、今の日本に対しての好感に由来する一面があるのかも知れないが、実のところ深層心理のその中にある、発展や建国に助力した人達の姿と、その人達が得た信頼という無形の財産の影響も大きいのだと思う。
 ややもすると我々日本人は「友好」という、言葉に騙されやすく、その名の下、他国に利用されてしまうことが多いように思える。勿論、国家という分け隔てがある以上、その利害によって動くことの方が多いのは当然の話だが、もし国同士の友好という言葉が実在するのであれば、それに最も近いのが日台の関係なのだろうと、歴史をたどってゆけば、つくづくと感じることができる。
 しかしながら今春、震災1周年追悼式に来訪した台湾代表に対して、我が国政府の当局者は指名献花を許さず、2階席に座らせるという、失礼極まりない扱いをしたそうだが、このような行為は、この国に暮らす者として恥ずかしさの極みに思う。
 我々日本人が培った心の奥には「礼」とい部分があったハズだ。これを尽くすことが人間間のクッションの役目を果たし、あるいはそういったことを基礎にして築かれた精神がモノ作りに反映されて、きめ細やかな気遣いに溢れた製品となって世界に受け入れられてきたのだ。
 礼に報いる心を忘れるとどうなるのか?…。恐らく信頼を失うだろう。我々が根本中将達のような先人から受け継いだ友好の基礎にある”信頼”をなくせば、次の世代に引き継ぐ”友好”が揺らぐ。こんなことがあってはならないと思う。
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梅雨入りの渓流

2012-06-23 12:30:00 | 渓流&管理釣り場での釣り
■ようやく梅雨入り■

 晴天続きで渇水していた渓流も、梅雨入りしたことで好転するかに思えたが、さほど降らずに一週間が過ぎようとしていた。
 釣行予定の週末を前にようやく降り出したのだが、今度は降りすぎの感があって、予定していた岐阜県奥飛騨方面では釣行24時間前からの累計で40mmを越え、更には局地的に豪雨状態のところもあって、増水しすぎで釣りになりそうにはなかった。そこで富山県に向かうことにしたのだが、反して日本海側ではそんなに降った様子はなく、八尾(やつお)周辺では24時間の累計で9mm程度だった。
 「それでも降らないよりは好転しているだろう。」との判断で、ボクにとっては、もうホームグラウンドと化している、富山県の久婦須川(くぶすがわ)へと向かうことにした。


■遅まきながらの開幕■

 河畔に到着し、仮眠すること1時間で準備を開始する。
 この日がボクに取って今シーズンの開幕となるわけだが、予想通りと言うべきか、周囲の様子からすると前夜来、そんなに降ってはいない様子であり、実際河原に到達して確認しても渇水気味の様子だった。それでも当日の天候が曇りであることは救いではあった。

●渇水気味の久婦須川●

 朝一番は、浅場へとエサを食いに上がって来ている魚を狙うのだが、まずはミミズを刺して投入する。すると、すぐに目印がブルッと小さく揺れるのだが、それは小さく、かつ力なく、まるでエサ取りの小魚のようなアタリであった。しかし、「もしや?」との思いで、半信半疑のまま、試しにアワセを入れてみた。
 すると、意に反してそれはヤマメのアタリであったのだが、1匹目から結構なサイズではあったものの、食い込みが浅くハリハズレを起こしてしまった。
 続いてのアタリも同様に小さく、無理にアワセても乗ってこない。そこで、エサを食い込みのよいヒラタに交換する。

●ヒラタ●


 この作戦が当たって、今シーズンの渓流魚第一号をゲットする。

●20cmくらいのヤマメ●

 何とか、ゲットしたものの、やはり渇水のせいか、食いは悪いようである。以後、そのことを常に頭に入れることを戦略の基本とした。


■エサのローテーション■

 要所要所で狙い撃ちをするが、普段ではポイントであるはずのところでも、当日は水量が足らず、多くがつぶれた状態であり、苦労する。やがて瀬の中にポケットのようにほれ込んだ部分が点在するポイントに差し掛かるが、ここでも全盛時の3分の1以下にポイントが減っていた。

●ポイントは少ない●

 ここでも、ヒラタ、ミミズ、クロカワムシ、オニチョロ(ギンパク)の4種を駆使して、小型のイワナを皮切りに、ぼちぼちヤマメをゲットするが、エサに傾向があることがなんとなく見えてきた。

●今年初イワナ●

 時たまアタリはあるが、ずっと小さいままで、タイミングがとり辛くて掛けてもハリが外れることが多い。そんな中、ようやく良型と呼んでも良い魚に遭遇する。

●25cm級●



 このポイント以降は、エサのローテーションをすることで次第にキャッチする量が増えるようになってきた。

●オニチョロ(ギンパク)●



■竿抜けポイント■

 もう一つの傾向もあった。やはり連日川に入りやすい状況が続いていたので、朝一番以外はいわゆる「竿抜けポイント」という、仕掛けを入れにくい部分にしか魚はついていない様子であった。
 そんなポイントを丹念に攻め、いつもの2倍近い時間をかけて探ってゆく。そうすると...

●25cm前後のヤマメ●

魚はボクに答えを返してくれた。


■最大魚■

 当日の最大魚は竿抜けポイント&オニチョロという、パターンで出てくれた。
 ポイント自体は下の写真の部分であったが、手前の石の前で20cm前半のヤマメが出た後、一番奥にあるブッシュの被った所から飛びだしてきたのだ。

●左上の隅が最大魚の出たところ●

●28cmのヤマメ●


■期待の堰堤は...■

 さてさて、第一回目の脱渓地点である、堰堤前に差し掛かったのだが、いつもよりシツコク丁寧な攻めをしていたので、時間が結構経っていた。そのため、ボクが到達する頃には誰かがすでに入渓した後になっていたのか、ほとんど反応がない。それこそ何をハリに刺しても、どう攻めても全く魚から答えが返ってくることがない。
 全く期待はずれのままに最終地点に達したが、唯一の釣果は竿抜けポイントに隠れていた小型のイワナのみであった。

●20cmほどのイワナ●


 朝4時過ぎにスタートして、この区間を脱したのは午後2時半だった。結構時間がかかったが、気付けば釣果は普段と変わりない量になっていたので、今回は粘り勝ちということだろう。(自宅用の魚を残して多くはリリースした。)
 そして、退渓後はあまり時間もなかったので、下流の小場所を少しだけ攻めて2匹追加してこの日の釣りが終わった。

●最終のヤマメ25cm●


■この日を振り返って■

 この日、最大魚は28cmのヤマメだったが、同クラスを数匹ハリ外れでバラしていた。やはり渇水のせいか、活性は低く、ヒラタで無理矢理口を使わせた感があり、掛けて取り込めた魚を含めてハリを飲み込むような魚は少なかった。
 エサのローテーションを振り返ってみると、記憶の残る範囲では、最大魚を含めて25cmクラスの多くがオニチョロに食ってきた。しかし、それぞれは単発で、連続したわけではない。昨年のこの時期にもそうだったのだが、僕自身が他地域ではイイ思いをしたことがなく、しかも、ここなぜかここ久婦須川でもこの時期しか食いの良くないこのエサが、こと梅雨時期になると威力を発揮するようである。しかし、現地で採取しようにも、数が少なくて確保に苦労した。
 反対に至るところで採れた大型のヤマメ狙いでは定番であるハズのクロカワムシは食い飽きているのか、全釣果の内、たった1匹でしかなかった。
 本文中でも触れたヒラタは最も多くのアタリを捉えたが、サイズは伸び悩む傾向にあり、ミミズは目先が変わった一瞬だけに当たりが出る傾向にあった。
 ともあれ、最大は28cmながら、20~25cmを中心に、気付けば釣果は軽く20を越えていた。やはりそういったエサのローテーションは、釣果を伸ばすには必要不可欠な要素であろう。特にヒラタは、もし無ければ釣果が一桁台だっただろうから、まさに「ヒラタ様様」だった。

 ようやくボクに取っての渓流シーズンがスタートした。今年はどんな魚が待っているのだろうか?。期待を膨らますのには十分な、幸先の良い久婦須川での開幕だった。
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釣りをしていて「怖い目」に遭った話

2012-06-16 12:30:00 | 釣り一般
■バス釣り■

 その昔、今から15~6年くらい前の一時期、ボクはブラックバス釣りに凝っていた時期があった。
 「やり出したらとことんまで」のボクは、ロッド&リールはもちろんのこと、当然?のように小型船舶操縦士免許を取得し、アルミ製の長さ12フィート(約3.6m)の小型ボートと10馬力エンジン、魚群探知機諸々を用意して、当時は琵琶湖や奈良県の池原ダム等でよく竿を出していた。
 表題の「怖い目」とは、そのバス釣りの最中であり、好きなポイントだった琵琶湖の湖東、近江八幡にある伊崎不動で起こった出来事だった…。


■釣り人生で1、2を争う「怖い目」■

 当時、この近江八幡の堀切港から伊崎不動と呼ばれる琵琶湖に突き出た半島に掛けてのポイントは、春の産卵期に大型が釣れることで知られている存在だった。事実ボクは、当時としては大型の56cmのブラックバスをここで釣っていたので、毎年春の産卵シーズンは、浅場へと上がってくる大型を狙って、近くの浜からボートを降ろして攻めに行くことが多かった。
 しかし、好調だった何年かを過ぎると、突然魚が減って、なかなか釣れないポイントへと変貌していった。その原因は今から考えると、川鵜の仕業だったものと思われる。川鵜を始めとする海鵜など奴らの仲間の姿を見たことがあるだろうか?。何しろ奴らは水の嫌いなカラス、水面の浮遊物しか食えないカモメなどとは違って泳ぎがウマく、一度水中に潜ると数十mは出てこないほど息がもつ。この川鵜が伊崎不動周辺に異常繁殖し始め、そこら中の魚を喰いあさっていたのだ。何しろその数はものすごい勢いで増えているようで、周囲の山は大量に排出される糞による作用で”禿げ山”と化すほどだったのだ。

 何年前だか正確ではないが、ある年の春、ボクは釣れにくくなったことを承知の上、この伊崎不動の付近で「一発でもイイから大きいのを!」と朝から気合いを入れた釣行をしていたのだが、予想通りと言うべきか、朝から釣れない静かな状況が続いていた。
 そのうち、岬の付け根にある堀切付近でボートの動きが慌ただしくなってきた。 最初のうちは、「ライバル出現か?」と、思っていたが、そのうちに「パーンッ! パーンッ!」と銃声が聞こえ始めた。
 「川鵜の駆除を始めたのかな?」と思いつつ、ボクは気にせずそのまま釣りを続けていたが、しばらく経つと銃声が鳴った後に、ポトポトと水面を叩くような音がするようになった。よく見ると、何かが雨のように周囲に散らばって落ちてくる様子だ。しばらく考えた後に合点がいった。何とそれは散弾銃の弾が水面を叩く音だったのだ。
 ボクの心にはだんだんと恐怖心が沸いてきたのだが、それでもどこかに「まさか」という思いもあった。しかし、それまでの「ポトポト」という音が「カラン カラン」というボートのデッキに落ちる音に変わった次の瞬間に、恐怖は体に震えがくるほどに変わった。それと同時に痛くはないのだが、ボクの体に当たり始めたのだ。
 こうなれば完全に釣りどころではない。慌てて退散の準備を始めたボクは「這々の体(ほうほうのてい)」でその場から逃げ帰るのであった。

 まさか、ボクが熊に見えて銃口をこちらに向けていたのではなく、上空方向に向けて撃った散弾が、放物線を描いて落ちてきたようだが、「もしも」を考えると、あまりの恐怖にそこから遠ざかった沖合で、しばらくガタガタと震えていたのであった。
 幸いにもボクは、幽霊やお化けの類を信じないタイプなので、夜釣りで「お化けを見た」という体験などは全く無く、他人からそんな話を聞いても怖くもないが、日頃から「人間のすることの方がよっぽど怖い」と思っているだけに、それを確信するには十分な釣行だった。
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鷹巣沖のマダイ釣り

2012-06-09 12:30:00 | 船釣り・釣行記
■渓流には行きたいけれど…■

 今年のスケジュールとして、沖釣りは一旦4月いっぱいで中断して、10月の禁漁までの間は渓流釣りに行こうと考えていた。
 しかし、5月に入ってからほとんど雨が降らず、岐阜県の高原川等ではかなり広範囲でヌルヌルの藻類が石にべったりと着くような状態だそうで、状況的に厳しい日々が続いていた。渓流魚は雨が降り、一旦増水した後に水位が落ち着き始める頃がベストの状況だ。差し詰め、海で言うところの「潮が動かない」と同じで、晴天続きは魚の活性を落とし、警戒心が強まって食い渋る。
 であるから、ボクは躊躇し、相変わらず海へと向かっていたのだが、その裏には「スカッと納得のいく釣果をあげてから」という思いもあった。


■鷹巣沖■

 そこで向かったのが福井県の越前岬の北~三国にかけての総称「鷹巣沖」というところだった。
 ここ鷹巣沖は、今から15年ほど前、ボクが初めて「完全フカセ釣り」を体験した場所だ。当時はヒラマサの中型がよく回遊しており、初めてでありながら65~75cmのサイズを4~5本釣った記憶がある。以来、完全フカセ釣りの面白さにハマッたワケだが、ここ近年はそのヒラマサの回遊量が減り、まれに訪れることはあっても、やや遠ざかり気味だった。
 ただし、ヒラマサの回遊は減ったが、毎年5月1日の解禁~梅雨までの間は、40~80cmクラスのマダイが一船3人で50匹近い釣果が何度も記録されているから、付近の海域ではダントツにマダイの濃いところであり続けている。同様に秋のハマチ~ブリクラスの大量回遊も恒例のように続いている。
 普通の釣り船店とは違って個人営業で客を取る船は少なく、「越前フィッシングセンター」、「鷹巣釣り船センター」、「アラタニ釣具」等の地元釣具店で斡旋してもらわないとほとんどの船で予約が取れないシステムになっている。また、このシステムで船を押さえた場合は、斡旋店経由でしかエサは持ち込めないので注意が必要だ。
 船は仕立て船がほとんどだが、各斡旋店では乗合の募集も行っているのでインターネットでチェックしたり、電話で問い合わせてみるとイイ。希望日を伝えておくと他の希望者との仲介をしてくれるのだ。


■実釣スタート■

 今回もボクは単独での釣行だったから、当然乗合船利用だ。岐阜から来たという二人と共に乗船した。
 今回は晴海丸(はるみまる)という船だったが、気さくで好感の持てる船長だったので一安心。

●福井新港の晴海丸(はるみまる)●

 ポイントに向かうまでの間、状況確認などをしていたが、15分以内に到着する。この近さも鷹巣沖の魅力でもある。

 到着後、船が落ち着くのを待って投入開始。ハリスは超大型に備えて6号の2本バリ、全長は6mのモノを使った。
 フカセ釣りでは、20mクラスの長いハリスを使う人が居るのだが、ボクの場合はほとんどが6m・2本バリを使っている。乗合船で横に並んだ人が長い仕掛けを使っていても差を感じたことは無いから、これをほぼ押し通しているが、恐らく長い仕掛けはこの釣りが始まったごく初期段階に、沈みの早いフロロカーボンの道糸ではなく沈みの遅いナイロンの道糸を使っていた名残ではないのか?というのが僕の個人見解だ。
 仕掛けを長大にすることよりも、発泡ウキで浮力をつけたり、オモリで沈めたりという自分の工夫で流すタナを探り、魚の居るタナを見つけ出すことの方が大事だと思っている。ただし、釣りには絶対はないから、決めつけることはダメなのだが…。
 その辺のことを船頭さんに確認してみると、「それは潮次第で臨機応変に。」と言うことであった。

●リールは、うなりを上げて逆転するだろうか?●

 完全フカセ釣りでは流し始めに「送り出し」という、リールから手たぐりで強制的に引き出す作業がある。これは潮に馴染ませるため、一気に無抵抗で沈ませる部分だが、この長さでも狙うタナが変わってくるから、その日の潮流に合わせて工夫する必要があるが、この日は上潮が遅く、底潮がそこそこ動いている状況だったので、送り出しの長さは20mとした。

 20mが馴染むには時間がかかったが、その後は順調に流れてゆく。仕掛けの入る角度も道糸の様子を見る限り海面から45度という、理想的な角度だ。
 「今日はイイかも?」と思った矢先にリールが急回転した。何と一投目からのアタリだ。魚の引き自体は大したことはなく、すんなりと上がってきたが、この日の初物である40cmほどのマダイをゲットする。

●40cmほどのマダイ●


 しかも、こちらの巻き上げの途中で、隣の釣り座でも当たりが出ていた。そちらのマダイは二回り以上大きい60cm弱のサイズだ。


■連発の横で■

 続いてのアタリ、その次のアタリも隣の釣り座からだったが、ボクには一向にアタリがない。しかもハリに着いたエサは残ったままだった。
 この隣の釣り人はフカセ釣り初体験のオジサンだったが、こちらと「何が違うのか?」を探るために、流す方法に違いがないか?を探してみる。
 普通、エサが残ればタナを下げるため、連結部にサルカンが1個着いただけの、この時点での仕掛けに小さなオモリを足して、より沈む方向に浮力を調整してゆくのだが、隣のオジサンの使っていたリールは借り物であり、ボクの持ち込んだ”手入れが行き届いてよく回るリール”とは違って、明らかに回転が遅い。そこから、
 「魚が食うのは50m前後の距離なので、回転に抵抗がかかるリールだと、仕掛けは浮いているのだろう。」という予測の下、まずは、それまでの仕掛けに着いていたサルカンをより小型のモノに換えてみた。すると即アタリが出たのだが、これまた40cm前半クラスで、隣のオジサンの平均からするとかなり小さい。そこで、
 「現況では活性が高く、大きい魚は我先に食い上がってきているのかも?」という、予測を立て、更に上層を狙うべく、サルカンのすぐ上に発泡シモリウキを入れることにした。サイズを始めから、やや大きめの7号にするか、6号にするか迷ったが、船長のアドバイスに従って6号とした。そしてこの仕掛けが当たったのだ。

 リールの急回転音とアラームでアタリをキャッチし、アワセを入れると、今まで以上の引きがロッドを絞り込んだ。とは言っても、心地よい引き程度であったが…。
 そしてその引きを味わった後、やって来たのは50cmオーバーのマダイだった。

●50cm台後半サイズ●

 タナさえ掴めばこっちのモノ。アタリは連発する。続いて上がったのは60cm級だった。

●60cm台中盤サイズ●


■本日最長寸■

 船長に「写真を撮って」という度にサイズがアップし、気を良くしていたが、「そんなにウマイ話は続くまい。」と思っていた矢先、それまでにない強い引きがボクのロッドを襲った。

●只今、マダイと攻防中●

 ハリスは太めの6号を使用していたため、余裕があったが、それでも一応ドラッグをゆるめ気味に、慎重にやりとりを続けつつ、その引きを楽しむ。
 そして無事に取り込んだのは本日最長寸のマダイだった。

●73cmのマダイ●


 ”大型という領域に足を突っ込んだばかり”ながら、このサイズは久しぶりなので、正直嬉しい。


■日は昇り、食い落ちて…■

 午前8時を回ると、風向きがそれまでの南東から西系統に変わり、日が高く昇ると、明らかにマダイの活性が落ち、食い渋り傾向となった。
 それまでの仕掛けだとエサが残ったままになるので、今度はより沈む方向へと調整を始める。まずはウキを外し、それでもダメなので、ジンタンオモリのBの数を徐々に増やしてゆく。それと共に、流す距離もそれまでよりも長くしてみた。
 周りではアタリが途絶える中、ジンタンオモリが1個~2個の間で着けたり外したり、流す距離は水深の2倍強の150mまで流したりといった、工夫を重ねていけばポツポツとマダイのアタリがキャッチという、「ここが腕の見せ所」といった展開が続き、ラストの1投直前の魚を最後に、この日の釣りが終わった。

●3人分の釣果(右を向いているのがボクの魚)●

 この日、ボクは43~73cmのマダイが9枚と、ハマチのオマケが1本、隣のオジサン達は二人で63cm以下のマダイが15枚、助っ人で仕掛けを少し流した船長が50cm台中盤を2枚の、合計26枚という、大満足の釣果だった。


■鷹巣沖の今後■

 さてさて、鷹巣沖の今後だが、この海域では更に沖にある玄達瀬(げんたつせ)が6月16日から8月15日までの間で解禁になることから、主にメーターオーバーのヒラマサを狙って多くの船がそちらを目指すことになる。しかし、一部の船はその時期であっても鷹巣沖に出漁している。
 勿論、この時期の鷹巣沖は空いているので攻め易く、まだ居残り組や産卵に出遅れたマダイも出ることから、それを好んで狙う人も居ると聞く。だから、まだまだ目が離せない鷹巣沖であることには間違いない。

 この日の釣行で沖釣りに対して一応のケジメがつき、これでようやく渓流釣りに取り組むことが出来るだろう。
 先頃梅雨入りし、それ以前の晴天続きで、雨が降らない「晴天続きなのに暗雲が垂れ込める」という状況からは脱出し、これからは期待できそうである。だが、ボクのことだから、釣行直前に大雨に遭って「今度は水がありすぎて…。」という状況にならないか心配だ。「何事もほどほどが肝心」なのだが…。とにかく渓流道具を引っ張り出しつつ、期待に胸を膨らませる今日この頃である。
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釣りをしていて「ドエラい目」に遭った話

2012-06-02 12:30:00 | 釣り一般
■磯釣りの事故■

 年に何度か、釣りをしている際に遭難したニュースが流れるように、不幸にも大波さらわれたり、転落したりで命を落とす人が居る。中でも多くを占めるのが、磯釣りをしている最中の事故だ。これには昔から、よく言われている「事故が起こるパターン」がある。


 第一に「ライフジャケット(救命胴衣)」を装着していなかったケース。
 このケースは、着衣のままで落水すると、水分を含んだ衣類が手枷足枷となって思うままに泳ぐことができず、最終的にはおぼれてしまうというものだが、これは車のシートベルトと同じで、ライフジャケットを装着していれば大事故をある程度防ぐことができる。だから、日頃から装着を習慣づけ、「これが無くては釣りが始まらない」という、釣り道具の一部としてとらえることが大切だと思う。現在では、ライフジャケットの装着がなければ船には乗せてくれない渡船店がほとんどだが、渡船利用のみとは限らないから、その場合は自己管理能力が問われる。
 以前のように雑誌を始めとする紙媒体が情報の主体であった時代であれば、啓蒙の意味を込めて定期的に特集記事を組んで事故防止につとめていたのだが、ネット中心の現在、釣果情報のような「見たい記事」だけを選ぶようになった、今の若い世代に十分に浸透しているかどうかは心配されることでもある。
 また、ライフジャケットの装着時には必須の条件がある。それは必ず通称「股ひも」と呼ばれる、ベルトを股間に通すことを忘れないで欲しいということだ。このベルトを通しておかないと、もし落水した場合に、スポンと体がジャケット内から抜け出てしまう危険性があるからだ。これも雑誌では昔から啓蒙していたことであり、ボクらが実際に釣り雑誌での写真撮りを行った場合、もしこのベルトが通っていなければ、その写真はNG=掲載不能になるほどの徹底ぶりだったし、それは今でも続いているほど重要な点なのだ。

 もう一つのケースとしては、自己判断による無理な釣行があげられる。
 一言に磯釣りと言っても、渡船を使って主に沖磯や人が陸からは入ってこられないような磯への釣行と、歩いて自分の足で入る地磯への釣行とがある。
 渡船を使う場合、遙か沖合にある台風や熱帯低気圧からのウネリが入っている場合は数日前、少なくとも前日夜7時頃の天気予報時に当日の海が荒天だと判断されると、出船停止の船長判断が伝えられる。だから、よほどのベタ凪でもない限り前日の7時過ぎには出船の確認を釣り人側からとるべきだが、困るのは、思った以上に波が落ちなかったり、変わると思っていた風向きが変わらなかったりで、当日の朝、渡船乗り場で中止が発表される場合だ。
 前日までに中止が判れば、当然、予約していたエサをキャンセルすることができるが、当日朝の場合は、もう購入済みであることから返品するわけにも行かず、そこに来るまでの交通費も掛かっていることから、損害金が大きくなる。そこで、釣り人の中から「どこかで竿出しはできないか?」と、つい考えてしまう人が出てくることになるのだ。
 そしてその行き先が内湾の安全な防波堤程度であれば、問題は少ないのだが、そんなところで釣れる魚と言えば小さな魚が多く、物足りないから、「大きな魚を得るためには潮通しの良い『沖へ、沖へ』、『先端へ、先端へ』」という釣り人心理がつい働いてしまう。
 そこで波が来るか来ないかのギリギリのラインにあり、車を駐めて歩いて降りられる地磯に向かうことになる。実はこの地磯がクセ者なのだ。
 ある程度経験を積んだ漁師さんや船頭さんであれば「この風向きと風力なら、この方向から、こんな大きさの波が来る。」ということが、ある程度予測できるが、一見さんの釣り人の場合はそんなことは出来るはずもなく、あくまでも「見た目」でしか判断できない。しかし、波やウネリの大きさは少し観察しただけでは判断できないのだ。数回に一度の割合で波長が重なって大きくなることを知っているだろうか?。この大波が発生した時にさらわれてしまうのだ。
 また、“地磯”という地形自体にも問題がある。独立礁に立っている場合だと、波高が膝下程度であれば、波は足下を洗いながら一定の方向へと通り抜けてゆく。だから和歌山県の南部(みなべ)地区や田辺地区にある沖磯は、満潮時に水没することで知られているが、その状態でも脚立に道具を乗せて“平気”で釣りが出来るのだ。(当然だが、限界もある。)
 だが、地磯の場合は地形的に波が後ろに抜けないところも多く、見た目にそう高くない波であっても、一旦駆け上がった後は、落下する重力を伴って戻ってくる。これを「引き波」と言うが、地磯の事故はこの引き波にさらわれることで発生することが多いようだ。だから、事故防止のためには素人の自己判断は禁物であり、「諦め」が肝心なのだ。

 渡船利用の場合であっても、各地の船頭さんの中には残念ながら他店を出し抜いて無理な磯渡しをする人も残念ながら存在するし、荒天が予想される状況であっても、少しでも渡せる可能性があるのなら釣り人に「行ける」と言いつつ、当日朝になって「やっぱりダメだった」と、簡単に言ってしまう人も存在する。
 前者の場合は、そのまま渡船店利用での事故に繋がる可能性があるし、後者の場合は地磯での事故の原因にもなりかねない。
 反対に釣り人の安全を考え、グレーゾーンであれば、思い切って中止を言い切る人も存在するし、こちらがどこから来るのかを確認し、「遠くから来るんだったら、リスクがあるからヤメにしたら?」と正直に言ってくれる人も存在するから、まさに「玉石混淆」の状態だ。そこでだが、安全に釣りをするためにイイ船頭さんと巡り会うには、電話でのやりとりで自分で判断するか、他の釣り人に意見を求める、あるいは地元に密着したエサ屋さんでエサを予約&購入し、怪しい場合はそのエサ屋さんで状況を説明して確認を取って判断するということが重要になるのだ。


 そんなこんなで、磯釣りの事故について書いてみたが、僕自身自己判断による無理な釣行をして”ドエライ目”に遭った経験があり、人に対してエラそうなことは言えない。それは…


■隠岐での事故■

 今から20年近い昔、当時妻とは交際中だったが、二人で島根県の隠岐へと旅行と釣りを兼ねて訪問していた最中の話だ。

 隠岐の各島を廻り、最終の地である、中ノ島にたどり着いたのだが、その島の南端にある木路ガ崎(きろがさき)というところに灯台があって、その近くでキャンプをしながら釣りをしようとボクは考えていた。ポツポツと雨が降るものの、雨量は大したことはなく、何よりもそれまでの予定が狂ったおかげで持ち込んでいたオキアミが余っており、最終日のこの日に「それを撒き切ってやろう。」と考えていた。
 灯台からポイントに降りるにあたって、地元の人間にとっては「勝手知ったる道」であるのかも知れないが、ボクには手がかりとして空撮写真しかなく、その写真に書かれている降り口(と言っても写真の上に点線が書かれているのみ)をたどって行った。
 振り返ってみれば、アホなことだが、空撮写真を撮影した時からは時間が経ち、季節も違うから、そんなモノが役に立つハズはない。更に訪問時は真夏であったことから草木が生い茂り、踏み跡を確認してたどってゆくことは不可能だった。そうこうしているうちに、ぬれた草木に足を取られて少し滑落してしまった。落ちた段差の下から上を見上げると、重い釣り道具を持ったまま戻る気にはならず、とりあえず下に降りてエサを使い切ってから戻れば帰りは軽くなるとの判断から、更に下へ向かったのだが、岩伝いに垂直に切り立った岩壁を降りていた最中、掴んだ岩が外れてそのまま5mほどの高さから転落してしまったのだ。
 着地した際に鈍い音と共に両足首から激痛が走った。どうやら重い釣り道具と重い体による衝撃の全てが両足首にかかってしまったようだ。しかし、不幸中の幸いでオキアミの詰まったバッカン(EVA樹脂製の容器)が、ウマく尻と岩の間に入って緩衝材の役目を果たしてくれたおかげで、腰骨や尾てい骨といったそれ以上の箇所には痛みはなかった。

 「捻挫かヒビ程度だろう。」と、言い聞かせに近い自己判断をし、歩こうと思うのだが、どうにもこうにも自分の体が支えられず、タコのような”軟体足首”となってフニャフニャとその場にへたり込んでしまう。それと共に痛みが走り、どうにも耐えられない。
 そこで辺りを見回すと、「天の助け」と言うべきか、「渡りに船」と言うべきか、地元漁師さんの操るサザエ採りの小舟が視界に入った。
 そこへ向けて大声を出すと、有り難いことにこちらに近づいて来る。そして事情を説明すると漁師さんはボクを船内に収容して近くの港まで回航してくれるというのだが…。
 しかし、灯台横には妻が一人で残っているし、マニュアルシフトの1BOX車を、当時はペーパードライバーだった彼女が運転することは危険だ。そのことでボクが困り果てていると、漁師さんが親切にも灯台横まで上がって、とりあえずの連絡をつけてくれると言う。
 「どうやって?」と思ったが、聞けば、何とボクが降りた側と反対には、海から灯台へと行き来するためのステンレス製のハシゴが掛かっているというのだ。
 そこを伝って漁師さんは妻に連絡をとりに上がっていったのだが、船に残ったボクの頭には「こっち側にこんなハシゴがあったのなら、何も無理をする必要は無かったのに…。」と同時に別の考えが頭をよぎった。

 「このままだと、隠岐の島内に入院かも…。」
 そうなると、中ノ島内に取り残される妻のことや、休み明けの仕事の手配、その他のことを考えると、「このままではダメだ。」という、思いが駆け巡る。そして次の瞬間に火事場の馬鹿力が出たのか、ボクは船を這い出て、膝と痛みの少ない右足の一部を使ってハシゴを登り、何とか灯台横の駐車スペースまで来ることに成功したのだ。
 漁師さんには「島には残れない」という事情を説明し、島内の診療所を紹介してもらって、妻の運転で何とかそこに駆け込んだ。
 診断の結果は、「レントゲンの調子が悪く、はっきりとは言えないが、恐らく両足首の骨折だろう。」ということだった。
 診療所の先生の計らいで、便を早めてフェリーに乗り込み本土に戻ったが、その頃には両足はパンパンに腫れ、痛みで脂汗が出るほどだった。しかし、それを表情に出すと、途中の病院に入ることにもなりかねない。だから、自宅のある西宮市内の病院に到着するまでは、心配するる妻に愛想笑いをしながらこらえるしかなかった。
 結局、妻の必死の運転で西宮市内の救急病院に駆け込んだ後に再診断を受けると、見事に左足首が1カ所、右足首が2カ所の計3カ所の骨が折れていることが発覚し、三日ほど腫れが引くのを待った後に手術を受けることになった。そしてこの日から約2ヶ月の入院を余儀なくされ、その間は車いすの生活を送っていた。
 手術と治療の結果、両足で立ち、歩くことができるようになったが、今でも足首の動きは固く、和式のトイレで苦労することもある。


 当時を振り返る度に、地元まで連れて帰ってくれた妻に感謝すると共に、打ち所が悪ければ半身不随以上、あるいは「命までもが…。」という状況だっただけに「よく死ななかったモノだ。」と、思いは巡る。そしてそれ以来ボクは素人判断での釣行は二度とすることは無くなり、渡船店利用でしか磯には上がっていない。多方面に迷惑を掛け、今でも反省することしきりだが、これがボクの教訓だ。
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