■幕末の会津藩■
このブログでも以前に紹介した、作家の司馬遼太郎氏が生前に各地で公演した際の記録の中に、「会津の悲運」というタイトルの他、幕末の会津藩についての公演が記されている。そこでの内容にボクなりに調べた内容を加えて説明をすると…。
●現在は改題し「司馬遼太郎全講演」として文庫本化されている●
会津藩で起こった悲劇の数々は、幕末期の会津藩主「松平容保(まつだいら かたもり)」が固辞する中、後に徳川家最後の将軍になる徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)と福井藩主・松平春嶽に、「徳川家を助けること」と書き遺された藩祖の家訓までもを持ち出され、半ば無理矢理に京都守護職を引き受けさせられるところから始まる。
京都守護職とは、尊皇攘夷派の過激志士らによって悪化する京都の治安を回復するためにおかれた役職なのだが、引き受けた際には家臣共々「これで会津藩は近い将来に滅亡するだろう。」と涙ながらに語り合ったという。
相当難しい舵取りが要求される中、生真面目な気質の松平容保と会津藩士達は、一度引き受けたからには実直に、ご存じ新撰組などを使い、矢面に立って徹底的に取締を行った。しかし、それが薩長の大きな恨みを買うことになる。
そして、徳川慶喜が最期の将軍になった後に事態が急転し、大政奉還をしたのと同時に松平容保は京都守護の職を解かれる。
その後、鳥羽伏見の戦いを経て勝海舟による江戸城の無血開城が行われたのだが、それと並行して徳川慶喜が出身の水戸藩に戻って謹慎すると、松平容保は旧幕府側から見捨てられてしまう。
そうなると、松平容保と会津藩は、江戸総攻撃にいきり立っていた、今や新政府軍となった薩長を中心とした軍の「一度振り上げた拳の降ろし先」として、積年の恨みを晴らす意味も込めた徹底攻撃を受け「血祭り」にあげられることになる。
他の東北各県の多くも江戸幕府に協力的であったがために、江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩のように攻撃の的になった。東北近県の北越(新潟県北部)では、中立の姿勢をとろうとし、会津藩を説得しようとした河井継之助で有名な長岡藩等もその対象になってゆく…。
結果は白虎隊の悲劇に代表されるよう、多くの犠牲者が出た後に会津を始めとする東北各藩は降伏する。
しかし、悲劇はまだ続くのである。明治新政府の要人は薩長閥を中心に構成されているが、官職の上職では、東北各藩とそれに協力した藩の出身者は賊軍として排除され、明らかに差別されたそうだ。しかもそれは長きにわたって続いた。後に海軍元帥となる山本五十六が、昭和9年に中将へと昇級した際に「長岡の出身者が、とうとう中将になった。」と、感激した手紙を送っているそうだから、60年以上経った後もまだ続いていたようだ。
■旗本八万騎■
一方、江戸には同時期、「徳川家に一大事あれば馳せ参じる」ということで俸禄を得ている「旗本(はたもと)」という身分の武士達が居た。言わば徳川家の親衛隊のような人達であり、その数は「旗本八万騎」と言われていたそうだが、幕末期の実数は、禄高の低い御家人を合わせても5万人程度だったようだ。
しかし、司馬遼太郎氏に言わせると、身分の高い旗本の坊ちゃん達は芸者や太鼓持ちに囲まれて「粋だ」の、「野暮だ」のと、江戸文化の発展には役立っていたようではあるが、学問ができる、できないを問われることもなく、もし仮に学びたくとも個人が家で学ぶしかなく、みんなで通う学校すらなかったのだそうだ。
地方の各藩では、藩校をつくって学問を奨励することが多く、そこに通う若い武士達は勉学に勤しみ、日々精進の暮らしを送っていたそうだ。勿論、会津藩でも同様だが、そのレベルはかなり高いものだったそうだから江戸の実情とは対照的だ。
もっとも、江戸の町自体が生産性のある町ではなく、地方から供給される物を消費することで成り立っていたような町だったそうだから、町全体がそんな雰囲気であったのかも知れないが…。
そんな旗本達が、実際の「徳川家の一大事」である、官軍による江戸総攻撃が始まろうとする際に、どういった行動をとったのか?。残念ながら?ほとんどが雲散霧消、「いったい何処に行ったのやら?」の状態であり、中には「隠居をする。」と宣言して、年端のいかない子供に家督を譲ってまで逃げる者も現れたそうだ。
上野に立て籠もっていた反新政府側の彰義隊へ、僅かな参加があったようだが、彰義隊のピーク時は総数約4千人。皮肉にもその多くを占めたのが、地方から馳せ参じた各藩の脱藩者だったそうだから、旗本の総数からいうと数%の範囲内が参加するに留まっているだろう。
■繰り返してはならない歴史■
本来なら、自らが負うべきリスクを負わず、とるべき責任をとろうともしない江戸から難題を押しつけられ、それを請け負ったがために、多大な犠牲を払った会津藩を中心とした東北諸藩…。
会津とはモチロン現在の福島県のことだ。震災の発災以来、原発事故の報道を見る度に、ボクは会津藩の悲運を思い出す。繰り返してはならない歴史を、またもやここでも繰り返している現実に今更ながら愕然とするが、今は今回の悲運が長続きしないことを心から願うしかない。
そして…。
我々関西在住者も偉そうなことは言ってられない。13基の原発に加えて問題が多いと言われる高速増殖炉「もんじゅ」までもを福井県の若狭湾一帯へ押しつけており、その原発群からの電気でエアコンを動かし、この地方特有の「クソ暑い夏」をしのいでいる現実をよく理解しておかなくてはならない。