中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

今年も一年間ありがあとうございました。

2011-12-31 12:30:00 | その他
 今年も色々な出来事があったが、振り返ると何と言っても東北の大震災を抜きにしては語れない。
 以前にも書いたが、ウチの会社も阪神大震災で被災し、当時は三週間以上も操業できない状況にあった。その時に感じた不安を思えば、それが十ヶ月以上も続く今の東北の状況は今更ながらも耐え難い苦悩だと想像できる。
 苦しみはまだ続くのだろうけど、一刻も早い回復を祈りたい。「来年こそは良い年でありますように。」と…。


 話変わって只今、年末の商戦を終えたボクは長野県中野市内で休養中だ。来年も外遊びに奔走し、愚痴をこぼすブログは書き続けてゆくので、拝読をよろしくお願いします。

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会津藩の悲運

2011-12-24 12:30:00 | その他
■幕末の会津藩■

 このブログでも以前に紹介した、作家の司馬遼太郎氏が生前に各地で公演した際の記録の中に、「会津の悲運」というタイトルの他、幕末の会津藩についての公演が記されている。そこでの内容にボクなりに調べた内容を加えて説明をすると…。

●現在は改題し「司馬遼太郎全講演」として文庫本化されている●

 会津藩で起こった悲劇の数々は、幕末期の会津藩主「松平容保(まつだいら かたもり)」が固辞する中、後に徳川家最後の将軍になる徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)と福井藩主・松平春嶽に、「徳川家を助けること」と書き遺された藩祖の家訓までもを持ち出され、半ば無理矢理に京都守護職を引き受けさせられるところから始まる。
 京都守護職とは、尊皇攘夷派の過激志士らによって悪化する京都の治安を回復するためにおかれた役職なのだが、引き受けた際には家臣共々「これで会津藩は近い将来に滅亡するだろう。」と涙ながらに語り合ったという。
 相当難しい舵取りが要求される中、生真面目な気質の松平容保と会津藩士達は、一度引き受けたからには実直に、ご存じ新撰組などを使い、矢面に立って徹底的に取締を行った。しかし、それが薩長の大きな恨みを買うことになる。

 そして、徳川慶喜が最期の将軍になった後に事態が急転し、大政奉還をしたのと同時に松平容保は京都守護の職を解かれる。
 その後、鳥羽伏見の戦いを経て勝海舟による江戸城の無血開城が行われたのだが、それと並行して徳川慶喜が出身の水戸藩に戻って謹慎すると、松平容保は旧幕府側から見捨てられてしまう。
 そうなると、松平容保と会津藩は、江戸総攻撃にいきり立っていた、今や新政府軍となった薩長を中心とした軍の「一度振り上げた拳の降ろし先」として、積年の恨みを晴らす意味も込めた徹底攻撃を受け「血祭り」にあげられることになる。
 他の東北各県の多くも江戸幕府に協力的であったがために、江戸薩摩藩邸の焼討事件での討伐を担当した庄内藩のように攻撃の的になった。東北近県の北越(新潟県北部)では、中立の姿勢をとろうとし、会津藩を説得しようとした河井継之助で有名な長岡藩等もその対象になってゆく…。

 結果は白虎隊の悲劇に代表されるよう、多くの犠牲者が出た後に会津を始めとする東北各藩は降伏する。
 しかし、悲劇はまだ続くのである。明治新政府の要人は薩長閥を中心に構成されているが、官職の上職では、東北各藩とそれに協力した藩の出身者は賊軍として排除され、明らかに差別されたそうだ。しかもそれは長きにわたって続いた。後に海軍元帥となる山本五十六が、昭和9年に中将へと昇級した際に「長岡の出身者が、とうとう中将になった。」と、感激した手紙を送っているそうだから、60年以上経った後もまだ続いていたようだ。


■旗本八万騎■

 一方、江戸には同時期、「徳川家に一大事あれば馳せ参じる」ということで俸禄を得ている「旗本(はたもと)」という身分の武士達が居た。言わば徳川家の親衛隊のような人達であり、その数は「旗本八万騎」と言われていたそうだが、幕末期の実数は、禄高の低い御家人を合わせても5万人程度だったようだ。
 しかし、司馬遼太郎氏に言わせると、身分の高い旗本の坊ちゃん達は芸者や太鼓持ちに囲まれて「粋だ」の、「野暮だ」のと、江戸文化の発展には役立っていたようではあるが、学問ができる、できないを問われることもなく、もし仮に学びたくとも個人が家で学ぶしかなく、みんなで通う学校すらなかったのだそうだ。
 地方の各藩では、藩校をつくって学問を奨励することが多く、そこに通う若い武士達は勉学に勤しみ、日々精進の暮らしを送っていたそうだ。勿論、会津藩でも同様だが、そのレベルはかなり高いものだったそうだから江戸の実情とは対照的だ。
 もっとも、江戸の町自体が生産性のある町ではなく、地方から供給される物を消費することで成り立っていたような町だったそうだから、町全体がそんな雰囲気であったのかも知れないが…。
 そんな旗本達が、実際の「徳川家の一大事」である、官軍による江戸総攻撃が始まろうとする際に、どういった行動をとったのか?。残念ながら?ほとんどが雲散霧消、「いったい何処に行ったのやら?」の状態であり、中には「隠居をする。」と宣言して、年端のいかない子供に家督を譲ってまで逃げる者も現れたそうだ。
 上野に立て籠もっていた反新政府側の彰義隊へ、僅かな参加があったようだが、彰義隊のピーク時は総数約4千人。皮肉にもその多くを占めたのが、地方から馳せ参じた各藩の脱藩者だったそうだから、旗本の総数からいうと数%の範囲内が参加するに留まっているだろう。


■繰り返してはならない歴史■

 本来なら、自らが負うべきリスクを負わず、とるべき責任をとろうともしない江戸から難題を押しつけられ、それを請け負ったがために、多大な犠牲を払った会津藩を中心とした東北諸藩…。
 会津とはモチロン現在の福島県のことだ。震災の発災以来、原発事故の報道を見る度に、ボクは会津藩の悲運を思い出す。繰り返してはならない歴史を、またもやここでも繰り返している現実に今更ながら愕然とするが、今は今回の悲運が長続きしないことを心から願うしかない。

 そして…。
 我々関西在住者も偉そうなことは言ってられない。13基の原発に加えて問題が多いと言われる高速増殖炉「もんじゅ」までもを福井県の若狭湾一帯へ押しつけており、その原発群からの電気でエアコンを動かし、この地方特有の「クソ暑い夏」をしのいでいる現実をよく理解しておかなくてはならない。
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減り行く車種

2011-12-17 12:30:00 | その他
■妻の車が…■

 ボクが所有するクルマは、年間の走行距離が3万5000~4万kmに及び、寿命が5年以内に来るのだが、対して妻の場合は年間の走行距離が5000~6000kmしかないから7~8年乗り続けることが多い。従って、本人にとって「末永くつきあえるクルマ」が購入の対象となる。
 そんな妻の車のATが不調になり、3速固定の緊急モードになって突然死した。修理工場に持ち込むと30万円以上の見積が…。そこで慌てて次車にスイッチすることとなったのだが…。


■消えゆくセダン■

 とりあえず、妻に次車候補を絞ってもらうため、インターネットで各社のホームページを覗いてみる。すると、前々から薄々気付いてはいたが、排気量2000cc未満、価格が200万円以下のクラスに、セダン・タイプのクルマが激減していることを改めて思い知らされることになった。

 以前はファミリーカーの代名詞であった日産の「サニー」、マツダの「ファミリア」は既に消滅し、ホンダの「シビック」は既に発売している限定車の完売をもって長い歴史が幕を閉じるそうだ。また、最多の生産量を誇っていたトヨタの「カローラ」は、かろうじてその名が残ってはいるが、副題のような別名称をつけてイメージを変えているようとしているし、シャシー等を共用する兄弟車だった「スプリンター」はとっくに姿を消している。
 それらに変わって、別名称のクルマが販売されてはいるのだけれども、セダンタイプの補充はほとんど無いようだ。また、セダン少ないということは、それをベースにルーフを延長したタイプのワゴンが、ほとんど姿を消すことにも繋がっている。

 妻の第一希望は、困ったことに当初はそのクラスのセダンであったのだが、少なくなった車種の中では候補もクソもなく、妻が自ら乗りたくなる、あるいはボクが勧めたくなるような魅力ある車種は無さそうであった。


■ワンパターンの車種■

 「セダン」というカテゴリーから離れてみるともう少し展開が変わると思ってみたが、例えば低床ミニバンタイプか、トヨタ・ヴィッツやホンダ・フィットとその仲間の範疇といった具合に、2~3種のコンセプトの中で横並びしているかのようなものばかりであり、イメージ的には、それぞれのタイプ内の大小と、室内高の高低くらいの差しか無いように思えるような光景だ。
 コレも近頃の「ご時世」の影響からか、燃費、室内スペースを高効率化させると、方向性が絞られるからこうなってしまうのだろうか?。
 その並びの中では買い手が「ワクワク」するような思いは起こらず、「実用」という言葉のみが浮かび上がってくるような気がする。

 各モデルごとのスポーティ・グレードは採用する車種が減ったものの、現在でもチラホラと見掛けるが、その多くは後付けパーツで内外装のイメージを変えるのみであり、せいぜい頑張ったところでサスペンションのチューン程度に留まっているようだ。(これも後付けと言えば後付けだが…。)
 一昔前であれば、低めの価格帯であっても少しはあったスポーツカーは言わば絶滅危惧種のようだが、一人?(一台?)気を吐いているのが、スズキの「スイフト・スポーツ」だ。他の車種が「雰囲気」のみでお茶を濁す中、ハイ・チューン版のエンジンが搭載されている車種はボクの知るところでは他に見当たらないから、本当の意味で「とんがった」と言えるモデルは、コレのみであろう。
 こういった流れには、以前はそういったタイプの車を好んで購入していた若い世代の、いわゆる「クルマ離れ」の影響があるのだろうか?。
 もっとも、料率というランク付けによって最大で料金差が4倍強にもなるという、高額な保険料金のおかげで、ヘタにスポーツカーや、それに近いタイプには手は出せない現実がある。そういったことも購入層の減少に拍車を掛ける一因になっているのだと思う。(これに対しては個人的な意見もある。事故するヤツはどんな車種に乗ってもするのであって、クルマの種類によって変わるワケではないと思う。つまり、ドライバー全体からの割合だと思うのだ。)
 そして、そんな背景があってか、今やスポーツ&スポーティなクルマのほとんどが高額車や輸入車となっているのは、それらのクルマが「高額所得者」の持ち物になってしまったということを意味するのだろうか?。


■格差社会■

 クルマのタイプやデザインにせよ、エンジン性能や操縦性にせよ、「乗り手の心をワクワクさせる」クルマの減り具合を見ていると、ボクたちの世代あたりが若い頃に抱いたクルマに対する夢や希望といったものが、商売が成り立たないほどの割合で減っている現実に気付かされる。
 もし、時代が変わったせいで憧れや夢の種類?が変わり、クルマとは違う方向に向かっているのならソレはソレで受け止めなければならないことだろうけど、「卵の話」のように「買わないからワクワクするような車種が減る」のか、「ワクワクするような車種が無いから買う人が減るのか」は知らないが、現状を鑑みクルマに対して「血湧き肉躍った」あの頃の自分を思い出すと、チト寂しい気がする。
 現代の青年達は、キライな言葉だが「草食系男子」で表されるようにガツガツせず、指向が内向きだと言われているが、そんな彼らにとって「速いクルマ」等は必要ないのかも知れない。しかし、もしもその草食系男子の増加が、今の日本が抱える「閉塞感」の中で彼らの夢の選択肢が減った影響であれば、何ともやるせない。

 先日、トヨタの社長が「円高是正を求める」コメントを発表していたが、自動車メーカー側もギリギリの状態であり、特に数を売らなくてはならない手頃な価格帯では、リスキーなクルマを販売することが難しく、「万人ウケし、より堅実に売れる」という方向に向かわざるを得ないのかも知れないし、そういった現実に、ある程度理解はできる。
 だからこそ、導く側の立場である政府や関係各省に、「デフレ」「超円高」といった問題がもたらした現状の日本を覆う「暗い影」をいち早く払拭してもらわなくてはならない。
 早くしないと、「高嶺の花」だった時代から何十年もの歳月を掛けてせっかく一般庶民の持ち物にまで降りてきた「クルマ」が、実用一点張りの「ツマラナイ物」で席巻され、「ただの道具」と化してしまい、人や物を運ぶ以外の「操る」楽しみなどは高所得者の特権になってしまう。その楽しみを少しは知っているつもりのオジサンとしては、自分の若かった頃に比べて格差社会の広がりを実感しつつある今日この頃だ。
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西宮の奥庭

2011-12-10 12:30:00 | キャンプ
■手頃な外遊び場■

 「外遊びがしたい。」それも自分が少年だった頃のように、自然の中で焚き火をしたり、海や川で遊んだり…。今やそんな場所は都市部ではすっかり減ってしまい、たとえそれらしき場所を何とか見付けたとしても、薪に火を着けると「危険だ」、「臭い」、「ダイオキシンが…」と苦情が入り、ヘタすると警察官が飛んでくる。
 だから仕方なく管理された公園内の「バーべーキュー・コーナー」のようなところや、キャンプ場を探して「デイキャンプ」料金を払ってアウトドア遊び=この場合、特にアウトドア料理メインの遊びをする訳だが、そういった施設で特に近場の場合は軟弱者?に基準を合わせているから、トイレに困ったりすることはないが、その反面、制約が多く、ロケーション的にも不満足なところが多い。

 そこで、「ボク好みのワイルドなスポットがどこかにないものか?…。」とハイキングや釣りの帰りに各地を物色していたのだが、今のところボクにとってベストな場所は、西宮の北、船坂というところに存在している。ただし、そこは何も隠れスポットというわけでもなく、阪神間に住むボーイスカウトの少年達にとっては、とてもメジャーな場所だ。

 天気の良い日曜日。そんなスポットへ、アウトドア料理を楽しむために、妻と2人で向かった。


■野外料理■

 ここでの一日を紹介する前に、「入るには関門がある」ということを説明しておかなくてはならない。
 船坂の川沿いを上がって行き、最終地点で河原に降りて駐車するワケだが、その部分で舗装が切れている。その部分で切れ目の土が流れて段差ができているので、駐車スペースの入り口部分では、一旦車を降りてルートを確認したうえで慎重に降りて行かないと、セダンの様な普通の乗用タイプの車高しかない車は、100%に近い確率で腹をコスるから要注意だ。
 ここに土嚢を積んで補修していることもあるが、大雨が降って土が流れた直後などでは補修が間に合わず、その場合は、侵入すること自体がかなり厳しくなるだろう。
 そして駐車スペースから先も道は続くが、車高が高い車でないと今度は必ず!=100%の確率で腹をコスるからむやみに侵入しないことだ。だから、普通の車の場合は、駐車スペースに駐車し、そこから先は少しの距離を歩いて気に入った場所を探すことになるから要注意だ。

●奥へと続く、車高の高い車専用の道●



 適当な場所を確保すると、まず火を起こす。この日はダッチ・オーブンを使う料理なので、その上に乗せる上火用の豆炭にも同時に火を着けた。
 焚き火、特に豆炭は火が安定するまで結構な量の煙が出るが、誰にも文句を言われないのがウレシい。因みに豆炭は石炭粉を固めたものだから、その煙のニオイは懐かしの蒸気機関車のニオイなのだ。

●この日のキッチンスペース●

 火が安定し、豆炭全体に火が回ると煙はあまり出なくなり、ニオイも消える。そのタイミングを見計らってダッチ・オーブンの上火の上にも網を敷き、ソーセージを焼くと共に、焼きおにぎりも同時調理する。

●ダッチ・オーブンは二階建てで使用●


 肝心のダッチ・オーブンの中身は前日からハーブ・オイルに漬け込んでいた骨付きラム肉(ラムチョップ)だ。このラム肉もハーブに漬け込んでいるとは言え、焼けば結構ニオイが出るので、アウトドア向けの料理の一つだ。

●この日のメインはラムチョップ●


 外で食う料理は何でもワンランク美味しくなると言うが、特にレシピ本で読んだソース?の「バルサミコ酢+しょう油」という、言わば酢醤油の和洋折衷版を漬けて味わうラムチョップの味は最高だった。


■利用するならルールを守ろう■

 この場所で半日ほど焚き火で遊び、料理を楽しんだわけだが、勿論、管理者が居るわけではないので、道具類や食材の一切は持参しなければならず、持ち込んだゴミは自分で持ち替える以外の選択肢がない。それに加えて女性の場合はトイレにも困るだろう。しかし、そんな「来るものを拒む」部分が逆に環境を守っているのかも知れない。
 ワイルドさが楽しく、現代となっては貴重な存在の「西宮の奥庭」なのだが、こんな場所であっても、ゴミを捨て置く不届き者がいくらかは出没しているようだ。
 「そのゴミはどうなるのか?」それは、ハイカーのグループやボーイスカウトの少年達が「自分たちのフィールドを守るために」後片付け役を担ってくれているようだ。大人の不始末を子供達に押しつけるようでは、あまりにも情けない。もしこのブログを見て「ウチも…。」と思った場合であっても、今後使用禁止にならないよう、各自が責任を持ったうえで活用して欲しい。

 ワイルドすぎてとても…、せめてトイレだけでも…という向きには、少し脚を伸ばす必要があるが、東条湖畔にあって、焚き火等の制限が少ない「ちいさな森キャンプ場(デイキャンプ使用・一人¥500)」(http://www.chiisanamori.com/)というキャンプ場の、デイキャンプ利用もオススメだ。

■オマケの「サント・アン」■

 長野旅行で立ち寄った「美麻珈琲」。その本家本元のケーキ店である「サント・アン」が西宮市の北側、三田市内にある。裏六甲に出たこの日、ついでに立ち寄ってみた。

●サント・アン●


 美麻珈琲で味わったケーキ類と全く同じ種類ではなかったけれど、やはり評判通りに美味しいケーキ屋さんだった。
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今こそ小村寿太郎を…

2011-12-03 12:30:00 | その他
■TPP問題■

 今、国内の世論を大きく分けている「TPPへの参加問題」。
 農政や保険、郵便側に立つ資料では日本側の不利益が、輸出関連側からは利益が訴えられる資料や金額が試算され、結局のところ、日本が参加しても最終的に得するのか?損するのか?が見えてこない。
 であるのなら、日本が最終的に利益を得るようになるためには、会議での交渉力=外交力の「有る・無し」が関わってくることは間違いのないところだ。
 しかし、そんな力が今の日本にあるのだろうか?…。
 いつものように時代を遡ってみると、過去にはそんな力があった。それは、またもや明治期の話だが、中でも外務大臣・小村寿太郎(こむら じゅたろう)という人物の能力は大きかった。


■小村寿太郎■

 第一回・文部省海外留学生に選ばれた小村寿太郎はハーバード大学で法律を学び、帰国後は司法省に入省し、大審院判事を経て外務省へ転出する。
 そこで陸奥宗光(坂本龍馬の海援隊出身!)に認められ、清国代理公使を皮切りに日清戦争の処理を始め、義和団の乱では、講和会議全権として事後処理にあたった。
 次いで明治34年、第1次桂内閣の外務大臣に就任し、伊藤博文らの反対を押し切って明治35年、日英同盟締結に持ち込む。この日英同盟は日露戦争遂行と日本側勝利の大要因の一つと言われている。
 そして日露戦争終結に際して開かれた明治38年のポーツマス会議において日本側全権として出席し、ポーツマス条約を調印するに至る…。


■ポーツマス会議の背景■

 日本海海戦の大勝利に象徴されるよう、「日本の大勝利」と思われがちな日露戦争。しかし、その実を知ると「辛勝」という言葉を当てはめることの方が正解に近いようだ。
 上述した日本海海戦や、旅順要塞攻略、奉天会戦のように個々の戦場での日本側の勝利は、現場から日本国内に至るまでの指揮官の能力の高さと、戦闘に参加した兵士達の士気や訓練度の高さがロシア側とは全く違っていたことが原因とも言われている。
 しかし、日本とロシアの国力差は埋めがたく、特に陸軍兵力は10倍もの差があり、もし仮にロシア側に更なる戦争継続の意思があれば、武器・弾薬、兵力共に払底していた日本の、その後の運命は変わっていたのかも知れない。
 だが、そこは明治の軍部と政治家達だ。ロシア側が戦争継続意識を無くすよう、手だても打っていた。
 日本軍は、明石元二郎(当時は大佐)を送り込み、当時帝政だったロシアの「足下を掬う」ため、ロシア国内で活動する革命家に対する支援工作をも行っていたのだ。その効力も手伝って「血の日曜日事件」をはじめとする数々のデモや民衆蜂起、ストライキ、徴兵拒否などが起こり、ロシア側に相当な厭戦気分が蓄積されていったとされている。
 また、日本側は、政治家や軍の上層部といった国家の中枢部でも初めから自らの国力をわきまえており、「戦費をいつまで払い続けられるか?」=「いつまで戦争を続けられるか?」についても理解していた。だから開戦時から「引き際」も考えて、終戦時には有利な状態に持ち込んでの講和に持ち込めるよう、算段していたのだ。


■ポーツマス条約締結■

 日露戦争開戦に先駆けて、日本政府は外交官の金子堅太郎にあらかじめアメリカ国内での活動を指令していた。これは、当時のアメリカ大統領「セオドア・ルーズベルト」と同じハーバード大学で学び、個人的にも親しい金子を通じて「講和の際には仲介を」と下工作を進めていたということだ。
 そして実際に日露戦争終結に向けてのポーツマス会議ではルーズベルトが講和の斡旋をし、日露両者が講和のテーブルにつくことになる。

 講和会議に際して日本国内の世論は、「戦勝国なのだから、日清戦争と同じように賠償金を!」というものだったのだが、実際日本の政府内では「賠償金は獲れないだろう」という意見も多く、当初は全権に選ばれる予定だった伊藤博文までもが「締結後の風当たり」を予想した側近の反対で辞退する中、小村寿太郎が全権として送り込まれた。
 一説によると、小村を送り出す際に井上馨は涙を流し「君は実に気の毒な境遇にたった。いままでの名誉も今度でだいなしになるかもしれない」とまで語ったとされている。それほど困難で「得る物が少ない」と予想された交渉だったということだろう。

 対するロシア側の全権はウィッテ。丁々発止のやり取りの中、小村寿太郎は粘り強く交渉する。
 実際には当時のロシア皇帝である「ニコライ2世」が当初は「やるんなら、まだやってやるゾ!」の姿勢をとっており、交渉は決裂の可能性が高かったようだが、民意に恐れをなした首相の桂太郎がねじ込んだと言われている「賠償金の要求」を取り下げたことと、ロシア国内の革命が本格化しつつあったこと(これは明石大佐の工作の効果も大だったそうだ。)の影響で、何とか締結できたそうだ。

その結果、日本は以下の六つの講和内容を得ることができた。

 その内容は、
 「日本の朝鮮半島における優越権」、「鉄道警備隊を除く日露両軍の満州からの撤退」、「北緯50度以南の、樺太の日本への永久譲渡」、「東清鉄道内、旅順~長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡」、「関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡」、「沿海州沿岸の漁業権を日本漁民へ与える」
であった。

 「各個の局地的な戦闘では負けたが、国が敗北したわけではない」との姿勢で挑む大国ロシアを相手に、これだけの条件を引き出したことは現代から見ると賞賛に値するし、何よりも開戦の大きな原因であった「ロシアの南下」を見事に防いだ。そして国際社会の中では、この条約内容をもって、「日本側の勝利!」が確定的だという評価を受けることができたのだ。


■その後の小村寿太郎■

 その後の小村寿太郎は、明治41年成立の第2次桂内閣でも外務大臣に再任する。ここでは幕末以来の不平等条約を解消するための条約改正交渉を行い、遂に明治44年、日米通商航海条約を調印し関税自主権の回復をし、明治政府成立以降の念願であった不平等条約の撤廃をも果たすのである。


■今こそ小村寿太郎を!■

 明治時代あった「国家的危機」に際して職を賭す姿勢で臨み、粘り強い交渉を続ける外務大臣と、省庁の壁を越え、リアリズムに徹して交渉を一丸となって全面的に支える、政府、軍部の要人と官僚達。今、その姿を思い浮かべると胸が熱くなる。
 今抱えるTPP関連の交渉には当然、小村寿太郎クラスの外務大臣以下が必要だ。
 しかし、現状の日本を見ると何とももどかしく、同じ日本人でありながら、気骨や気概は「何処に行ったのやら?」というのが現実であり、全権を与えられるに相応する人物も思い浮かばない。
 いずれにせよそういった人達の登場を待っている余裕すら今はもうない。正に「待ったなしの状態」なのに…。でも、この状態を今まで放置してきた我々みんなの責任なんだろうな…。
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