中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

にごりワインと金剛輪寺

2012-04-28 12:30:00 | 旅行
■ワイナリーへ■

 少し前の、蒜山(ひるぜん)への小旅行で、楽しむ方法が少しは理解できた感のあるワイナリーへの訪問。これまた少し前に、知識のないボクとしては、何やら珍しげなワインがTVで紹介されていたことを思い出し、早速、滋賀県の八日市方面へと車を走らせた。
 名神高速道路を八日市インターで降りた後、永源寺ダムの脇を抜けて三重県方面へと向かう「八風街道」を走る。すると程なく沿線に現れるのが、今回の訪問先であるヒトミワイナリーだ。

●ヒトミワイナリーの看板●

 ここは「にごりワイン」のワイナリーとして有名なのだそうだが、そのにごりワインには、
 「果汁を発酵させる途中段階の、もろみ状態からろ過させずにビン詰めしたワインのことで、通常にの、ろ過したタイプよりも食物繊維、ミネラル分が豊富であり、独特の風味と味わいが楽しめる。」
という特徴があるそうだ。

 店内に入るとズラツッと並ぶ、オリジナルワインの数々と、パン、その他の食材が出迎えてくれた。

●手前は「田舎式微発泡にごりワイン」のシリーズ●

 運転担当のボクは遠慮するしかないので、試飲は妻に任せることにして、もっぱら店員さんの説明にイメージを膨らませていた。ここの試飲は、ケチ臭いことは言わず、かなりの種類を試させてくれるのが嬉しい。

●こちらは「普通?のにごりワイン」のシリーズ●

 妻による吟味の結果、選んだのは「Kire Dela(キレ・デラ)」と「Niagara(ナイアガラ)」の2本だった。

●手前の2本を選んだ●

(帰宅後、このブログを書いた時点でボクが飲んだのは「Niagara(ナイアガラ)」だけだが、やや辛口の味わいの中にフルーティーな香りがバランスよく漂う、オリジナリティーに溢れる大変ウマいワインだった。)

 ワインもさることながら、感動したのは併設のパン工房で作られるパンの数々だった。
 たとえば、通常だと酸っぱさが残るライ麦系のパンだが、それを取り除いてうまみだけを取り出したタイプ、竹炭を使ったタイプ等々、珍しいタイプが並んでいて、そのほとんどが試食できるようになっている。
 また、ワインと同様に責任者の方が直々に「パンの食べ方=このパンに、これを着けると更にうまみが増す。」等々、興味深い説明をしてくれるのは、うれしい配慮だった。
 そのうまさとワインが試飲できない悔しさとが手伝って、ついつい試食が進み、お腹が一杯になってしまった。
 しかし、コストがかかるせいか、その分、価格設定が高めなので、多くを購入することができなかったのが心残りだった。

●珍しいパンの数々●


■金剛輪寺■

 時間が余ったついでに、近くにある金剛輪寺に立ち寄った。
 この寺は、百済寺、西明寺とあわせて「湖東三山」と称されている。ほかの二寺は既に参拝済みだったので、ウチの家族としては、これですべてを網羅することになる。

●金剛輪寺の三門(禅宗ではないので、山門かな?)●

 天台密教系の寺だと聞いて、鬱蒼(うっそう)とした木々に囲まれた山中にあるようなイメージを持っていたが、結構明るい雰囲気があり、特に本道へと続く参道の左右には風車を挿したお地蔵様がずらっと並んで、和やかな雰囲気が流れていた。
●参道に並ぶ、お地蔵様●

 大きさの大小はあれど、湖東三山の二天門には大きな「わらじ」が掛かっている。
 調べてみると、このわらじ、仁王様の力を表すモノであるそうな。すなわち「大きなわらじをを履く仁王様が居る」 ということで、悪霊や疫病神を退散させる目的で掛けられているそうだ。この風習は全国的にも散見され、東京の浅草寺にある宝蔵門の北側にも掛けられている。

●本堂前の二天門●

 静かな本堂に参拝し、周囲を少し散策して、この寺を後にした。

●本堂は「大悲閣本堂」と呼ばれる●

●三重塔●


 ボクは、特に「ワイン好き」というタイプではないのだが、ワイナリーはその地の「村おこし・町おこし」的要素があって、ワイン以外にも興味深い特産品が並ぶことも多いから「覗いて楽しい店」として捉え始めている。今後も、どこかの観光に向かう際には、その地の立ち寄りスポットとしてピックアップしてゆくことになるだろう。
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ルークさん再び

2012-04-21 12:30:00 | 音楽
■7ヶ月ぶりの来日■

 昨年9月に、TOTOの一時再結成ライヴを見に行ったことは、このブログでも触れたが、それに続いてこの4月、そのTOTOの元メンバーでリード・ギターを担当していたスティーヴ・ルカサー氏が、7ヶ月ぶりに今度はソロ・ツアーで日本にやって来た。
 この来日情報を得たのは昨年12月のことだったが、ボクと同じくTOTOファンである、妻と二人分のチケットを早速先行予約でゲット。その送られてきたチケットが、何と!前から4列目の好位置だっただけに、当日を待ち遠しく思いつつ、楽しみにしていた。
 そして、ついに大阪公演当日である4月12日がやってきた。場所は大阪城の北東側にある松下IMPホールだ。

●松下IMPホール●

 氏のことは別にボクなんかが説明しなくても、TOTOやソロでのグラミー賞受賞歴を始め、スタジオミュージシャンとして数多くをサポートした経歴を知る人も多いことだろう。言うなれば、80~90年代のエレクトリック・ギターサウンドの一つの指標となった、NO,1クラスのギタリストの一人だ。
 ギターは弾けずにドラムを叩く、エセ・ギター小僧(正確にはE・ギターの音マニア)であるボクにとっては、ルーク(=スティーヴ・ルカサー氏の愛称)さんは、神様的な存在。だから今回の来日はまさに「降臨」となるワケだ。

 ルークさんの関わったアルバムは、たくさん持っているが、ことギターの冴えという点でボクのお気に入りは、TOTOでの活動時よりも「ベイクドポテト・スーパーライヴ」やラリー・カールトンとの共作である、「ノー・サブスティテューションズ」のようなライヴハウスでのライヴ・レコーディング物なので、今回のIMPホールのような小さ目のホールでの演奏には期待が大であった。


■生ルークさん■

 当日の席は、ルークさんとの距離は最短時だと7~8mしか離れていない、絶好のポジション。演奏時間は約1時間45分、演奏途中での「お話」は英語のできる妻の通訳を聞きながら、フルに楽しんできた。

●会場前のポスター●

 ルークさんは、ただいま54歳。ライヴ中でも、ジョージ・ハリスンやジェフ・ポーカロのように亡くなった友人のことを話すような年になっているし、自身のことも「初めて日本に来たのは22歳の頃。(32年前)」「俺も年だからさ~。」なんて言っていた。
 しかし、何の何の!。ヴォーカルに関しては、一時の「ダミ声」は随分と解消され、特に本業のギターは、独特の太くサスティーンの効いたサウンドとウルトラなプレイは健在であり、世界でも有数のギタリストのままであった。
 そのルークさんをサポートするメンバーは当然、それに見合うだけの人達だ。キーボードのスティーヴ・ウェインガートは堅実プレーでサポートしていたし、ドラマーのエリック・ヴァレンタインの超絶ドラム・ソロも素晴らしかった。中でも紅一点(古~い表現!)の女性ベーシストであるレニー・ジョ-ンズの容姿は、「スーパー・モデル級」であり、「まさに才色兼備とはこのことである。」と、一人納得していた次第である。

 選曲は、TOTO時代の物は「Out Of Love」とアルバム「スルー・ザ・ルッキング・グラス」で取り上げていたカヴァー曲が2曲のみだから、実質的には1曲のみ。ほとんど自身がギターを弾くためのような曲で構成されていたから、ルークさんは思う存分弾きまくっていた。
 ルークさんの経歴の中には10万人、あるいはそれ以上の観客動員でのライヴも当たり前のようにある。そんな会場でのライヴ映像で見る「演奏することが楽しい!」と言わんばかりの笑顔と、今回のように400人くらいしか観客が居ない会場での笑顔に違いは感じられず、演奏に手抜きもない。
 その姿は、その昔、ギターを弾くことが大好きだった少年が、そのままオジさんになった姿だ。レベルは大層低いながらも、ボクのように少しは音楽をかじり、僅かにプロの世界を夢見た人間にとって、その姿は、まさしく若い時に夢見た「理想の年のとり方」の一つである。だからこそ、ボクは夢を具現化し、ギターを弾き続けるルークさんのパワーを受け取りたいし、その実ルークさんは様々な立場である会場の我々に、パワーを送り続けていた。
 
 アンコール後のラストの曲は「歌詞を思い浮かべて」と言いつつ、ナット・キング・コールの歌(作曲はチャールズ・チャップリン)でお馴染みの「スマイル(これもインストルメンタル・ヴァージョン)」をギターとキーボードのみでカヴァーして演奏していた。帰宅後、歌詞カードを確認したのだが、恐らく震災を含めた日本人に対するルークさんの思いが込められていて、感動は後からもやってきた次第である。
 
 何はともあれ、「日本好き?」とも言われているルークさんだけに、今後も来日があるだろうから、その際には「是非見に行きたい!」と思っていたら、来年(2013年)、再始動するTOTOでの来日公演を明言してアメリカに帰ったということだそうだ。その日が今から待ち遠しく思う今日この頃である。
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一ヶ月ぶりの舞鶴沖

2012-04-14 12:30:00 | 船釣り・釣行記
■またもや「ブンブン丸」へ■

 近頃、釣り人に「何とか魚を」と、細かなアンカリングや調整を繰り返す姿勢が気に入って通い続けている「ブンブン丸」さん。ただし、予約を入れ続けるも、毎日曜ごとの荒天が災いして延期に次ぐ延期となり、ようやく乗船可能となるのに約1ヶ月を要した。
 まさに「待ちに待った乗船」だったのだが、今回は兄と二人で乗合船への乗船だったので、釣りを開始する以前に、ボクには鬼門である釣り座決定のくじ引きが待ち構えている。そこで今回は作戦?をたててみた。とは言っても、今回は実質抽選には参加せず、最後に残ったもの=よく言う「残り福」狙いにしただけなのだが…。
 その結果、「どうせだめだろう」との諦めの境地とは裏腹に、ボクの手元には3番くじが転がり込んできた。しかしながら、それでも下から2番目といったあたりは、いかにもボクらしい結末だった。

■白石グリへ■

 前々日~前日までは冬型の気圧配置となり、荒れ模様だったのだが、当日は波も収まりつつある状態だった。しかし、風向きは北西ではないものの、真東から吹いており、寒いことこの上ない。舞鶴湾港を出た後、あたりの山々を見渡すと、4月の初旬を過ぎようとしているのに、冠雪している。道理で寒いハズだ。
 
●あまりにしつこい冬の名残●


■白石グリへ■

 地上の狂った季節感とは違って、海中では季節が進んでいた。このところ凝っていたメダイは例年よりも数が少なかったうえに、深場に落ち始めているようで、望み薄との船長判断から、途中の魚礁での釣りはせずに直接経ヶ岬沖の白石グリへと向かうことが決定し、同船の釣り人と共に航行しながら準備を始める。
 今回は始めから完全フカセとの指示が出ていたので、それに対応した仕掛けをセットし、「後は到着して、潮さえ動いていれば…。」と、期待に胸をふくらませながら船がポイントに到着するのを待った。
 午前11時にブンブン丸はアンカリング開始。海域が混雑していたので、多少手間取ったが、なんとか実釣がスタートした。


■アンカー潮■

 以前から何度も紹介しているが、「完全フカセ」とは、船尾方向からオキアミのマキエサを撒きながら、それが流れてゆく筋の中に、基本はハリとサシエサだけが着いた仕掛けを流し込む釣りだ。従って多少のズレがあっても、船尾方向に流してゆくのがこの釣りのスタイルなのだが、この日はそうはいかなかった。
 当然ながら自然界は常に無情であり、その日その日で条件は変わる。潮流がかなり速い場合と海上が無風の場合であれば、船首にアンカーが入ると、そこを支点にアンカーロープを伝って船は潮流と同じ方向に、真っ直ぐ潮下側になびく。しかし、海上ではある程度の風がある日の方が多い。従って海上を渡る風に押されて、潮流の速さと風力のバランスがとれた位置に船が止まるから、潮流と全く同じ方向ではなく、少し角度がズレることの方が多い。
 この日は潮流がそこそこの勢いで西から東へ、それとは逆に東から強風が吹きつけていた。こうなると、船は風に押されて西側に船尾を向け、それとは逆に潮が東へと向かう。これを釣り人の間では「アンカー潮」と呼ぶが、特に完全フカセの場合は流し込んだ仕掛けがアンカーロープに絡んで最悪の事態になる。
 それでも、完全フカセスタイルのままで、仕掛けの回収タイミングを計ったりしながら、何とか2時間ほど続けていたのだが、ロープへの絡みつきが連続し始めたことをきっかけに、釣法を変更することになった。


■初アタリ■

 船の位置が変更されて、船頭さんの指示で同船の全員が直下を釣る「天秤ズボ釣り」スタイルに改められた。
 水深が94mということだったので、とりあえず最初に狙うタナは、先端の針先が海底から5m付近を流れるようにと考えた。実際にオモリが海底に着底するまで糸を出してみると、潮流その他の影響を受けて、ボクのリールのカウンター表示では98mを指していた。
 全長が8mある仕掛けを使用していたので、海面からオモリまでの距離をを85mにして釣り始めた。
 2投目、オキアミのマキエサが効き始めたのか、サシエサが取られたので、5mタナを上げて様子を伺う。するとまたサシエサが取られたので、更にもう5mタナを上げる。しかし、今度はサシエサが取られない。そこで、当初の狙いダナは中間の78m付近と予測をする。
 何投かする内にエサが取られたり残ったりを繰り返していたが、投入、回収のインターバルを5分として続けてゆく内に、竿先がフワフワと震えた。
 狙いは、メジロ(ブリの60cm以上、80cm未満のサイズ)もしくはマダイだったので、本命なら、ここから衝撃的にズドンと竿全体が曲がり込んでゆくのだが、それがない。
 「さてはエサ取りの仕業か?」と思い、とりあえずアワセを入れてみる。しかし、これが予想に反して急に走り始めたのだ。
 この日の初物なので、慎重にやりとりをする。何度かの締め込みをかわして無事に取り込んだのは、メジロだったが、もう一つのハリには小型マダイのオマケがついていた。
 「アタリが小さかったのは、2匹掛かって相殺されたからか?」と、納得する。

 ここまで釣り開始から3時間以上経っていたが、釣れるときはこんなもので、ダブル釣果に気を良くしつつも、次の魚を狙うべく、仕掛けの投入を続けてゆく。

●ボクにとっては、久しぶりのメジロ(68cm)●


■アタリは小さい■

 マキエサの効きがさらに出たのか、先ほどと同じタナではサシエサが確実に残らなくなったので、さらにタナを上げて調節を繰り返す。何度かタナを上げ下げし、リールのカウンターは72mを指していたが、ここでまたもや、あのフワフワとしたアタリが竿先に現れた。
 アワセるタイミングが掴めないので、今度は竿をロッド・キーパーからハズして、アタリについて行くような感覚で竿先を送り込んでみた。しかし、全く走らない。
 ここでシビレを切らして無理にアワセると、竿が絞り込まれていった。そして65cmのメジロをゲットする。


■逆転の一発■

 この魚を掛けてやりとりをしている最中に、船中の2カ所でも同時に竿が曲がっていた。一方はボクと同サイズのメジロだったが、もう一方は全くパワーが違う魚のようだった。そして、その大型魚を掛けているのが兄だった。
 聞けば、アタリが竿先に出なかったので、巻き取り始めたところ、その瞬間にズドンッときたそうだ。その引きは強烈で、前回同船した時に掛けた88cmのメダイと同等か、それ以上だという。

●攻防中の兄●


 ドラグが滑り、リールが逆転して一旦糸が引っ張り出されると、しばらくは止まらず、「巻いては引き出され」の、一進一退の攻防が続いていたが、何とか踏ん張って兄が魚に打ち勝った。
 見れば、ボクが掛けた魚とは二回りも大きい、ぎりぎりブリと呼べるサイズが玉網に収まっていた。

●80cmジャスト●


■逆転ならず■

 続いての釣果もボクだったが、兄のサイズには及ばず、またもやメジロサイズでがっかりする。
 アタリの小ささは相変わらずで、魚の活性は低いが、小型のマダイを含めてポツン、ポツンとアタリを拾いながら、気付けば数の上では船中で一番になっていたが、夕暮れが近づいても大型魚はボクの手中にはなかった。
 「日没間際に、せめて大型のマダイが来てくれれば…。」と思って諦めずに頑張っていたが、思いが通じたのか、相変わらずの小さく渋いアタリを掛けアワセると、それといった雰囲気でウマく竿が曲がり込んでくれた。

●大型マダイか?●

 途中の引きも段をつけて叩くような引きでありながら、重量感もタップリであったから、大型マダイを期待して胸をふくらませる。
 リールで糸を巻き取り終えると、ロッド・キーパーに竿をセットして、後はハリス分の8mを手でたぐり寄せるだけだ。
 いざ魚が浮いてくると、ビックリ。上バリに65cmほどのメジロ、下バリには53cmのマダイという、ダブル釣果だったのだ。つまり、頭を振る仕草はマダイが担当し、途中の締め込みはメジロが担当するという、合わせ技だったということだ。
 それでも嬉しいには違いなかったのだが、「釣り師たるもの大型を!」との思いが強く、素直には喜べなかった。

●何と、ダブル●

 ダブル釣果の後は、終了までは残すところ1時間を切り、日没近辺になると、海の様子が変わり出す。そして、釣果がチカメキントキに代わり始めた。それから程なく、あれこれ努力の甲斐もないままに、終了の時間を迎えた。


■一日を終えて…■

 食いが渋く、ハリの着いたエサをくわえ込むまでに時間は掛かるが、サシエサが残るか残らないかの、ぎりぎりのタナを探り当てさえすれば、ポツポツと答えが返ってくるから、その意味では釣り易い状況だった。まさに「基本には忠実に!」を思い知らされた釣行だった。
 この日の釣果はメジロ4本+中小型のマダイが5枚という、船中では1番の結果を残したが、惜しまれるのは大型がゲットできなかったことだ。
 それにしても昨秋以来、兄には大型魚を釣られっぱなしで、全くもって悔しい限りだ。
 そう言えば、以前に所属していた釣りクラブの会長に、こういう時の言い訳を教えてもらったことがあるから、ここでその言葉の披露と負け惜しみを兼ねて、ほざいておこう。
 「海中の一番大きな魚は、上から覗いて選ぶことはできないからな…。」と…。
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意外な東寺

2012-04-07 12:30:00 | 旅行
■京都のランドマーク■

 二十歳前、当時京都市北部に下宿をしていた兄の元に転がり込み、泊まり込んでいた頃に始まり、家業を継いだ後も得意先の関係から、振り返れば現在に至るまで、ボクが京都市内へ向かった回数は数え切れない。
 京都市内への車でのアプローチは、ほとんどの場合で名神高速の京都南インターで降りて市内に入ることが多い。インターを降りて国道1号線を北上し、京都市内の中心部に入ると実際には十字の交差点ながら、直進ができず、突き当たった感覚になる交差点がある。そこにあるのが、東寺だ。だから、東寺は京都市街の中心に入る際の目印=ランドマーク的な存在だ。
 面白いことにその感覚はあながち間違いではなく、その昔、この交差点付近には、洛中と洛外とを隔てる「羅生門(「らしょうもん」あるいは「らじょうもん」)があったそうだ。そういった感覚がリンクするあたりも京都が「京都らしい」ところであろう。

●国道1号線からの、いつもの風景●

 ところで、その東寺だが、多くの人々と同じでボクも「若かりし頃」は何の興味もなく、ただの「右折ポイント」としての認識しかなかったし、恥ずかしながら、「東寺」と「東本願寺」との区別も曖昧で、いい加減この上ない状態だった。

 そんな東寺を訪問したのは、開花が遅れている桜はもとより、梅すらも満開ではない寒い日曜日だった。

●梅は5分咲き程度●

●鴨の夫婦も水に入れずに、凍えていた●


■境内へ■

 東寺とは桓武天皇(かんむてんのう)が平安京に遷都された際に、羅生門の左右に大寺を置いたことに始まる。当初は今日の「寺院」という意味合いは少なく、むしろ「迎賓館(げいひんかん)」的存在であったそうだが、その役目が終わり、弘法大師(空海)に下賜されて以降は、本格的密教寺院として大きく発展した大伽藍だ。また、「東寺」という名が表すように、荒廃して現在は跡形もなくなっているが、羅生門の西には西寺があったそうだ。
 本尊は薬師如来様ということなのだが、弘法大師が大きく関わっているだけに、真言宗、すなわち密教系なので、当然ながら大日如来様も大きな扱いでまつられている。

 まずは、拝観受付で料金を払う。境内に入る料金と塔頭の観智院、宝物館を含めて¥1000というのは、他の寺院に比べると低い設定であるから、嬉しい限りだ。
 入って目を引くのが大きなしだれ桜なのだが、全く咲いておらず、残念。それを見越して先に進むと大池があって、その池越しに五重塔が見えてくる。

●大池と五重塔●


■五重塔■

 弘法大師による最初の創建以来、五重塔は4度の焼失があって、今に至る。現在のものは1644年に江戸幕府三代将軍、徳川家光の寄進によるものだ。
 この塔は5月の連休頃には内部を公開するそうだが、当日は非公開となっていた。

●五重塔●


■講堂■

 次に向かったのは、講堂。実は、この講堂がボク的には一番見たかった場所だ。真言宗(密教)では宇宙を曼荼羅(まんだら)で表すが、その多くが絵画であったり織物であったりする。しかし、この講堂内には、それがいわゆる仏像そのもので表現されており、それ故「立体曼荼羅」と言われている。

●講堂内部は撮影不可のため、パンフレットで我慢を●

 あいにく内部は撮影不可となっているので、この目に焼き付ける他はなかったのだが、21尊の仏像全体的に、軟らかな表情ものが多いことが印象的だった。
 この講堂も本来は弘法大師によって創建されたが、オリジナルのものは日本史の教科書でおなじみの「山城国一揆」によって焼失している。したがって、現存のものは室町時代に建てられたものということだが、立体曼荼羅を構成する全21尊の内、15は焼失を免れたらしく、平安時代前期の作だそうだ。
 そんなことを知れば、上述した「表情の柔らかさ」は、「武家が天下を取る以前の時代の作だからか?」と、納得できるような気がする。



■金堂■

 続いては金堂へと向かう。金堂にはご本尊の薬師如来様が祀られている。ここも山城国一揆で焼失し、現存のものは豊臣秀吉の子、秀頼が発願して再興したものだ。

●金堂の外観●

 左右の月光菩薩(がっこうぼさつ)と日光菩薩(じっこうぼさつ)と共に並ぶお姿は、安土桃山期のため、講堂の仏像群とは違った表情があって、見比べると面白い。

●金堂内部は撮影不可のため、パンフレットで我慢を●


■大師堂(御影堂=みえいどう)■

 大師堂(御影堂)とは、弘法大師の住房だった建物で、内部には誰も見たことがないと言われる秘仏の不動明王が安置されている。ここもまた南北朝時代に焼失しているので、室町期の再建になるが、その価値は高いそうだ。

●大師堂(御影堂)●


 この、お堂の歴史的価値については、歴史小説家の司馬遼太郎氏の記述があり、立て札にして示している。

●「古寺巡礼 京都」の一節●

 これによると、このお堂が、現存する平安京最古の遺構だそうだ。

 そしてその後は食堂、宝物館、観智院と一通り見終わって、この大伽藍を後にした。


 1号線、171号線という、京都市内を走るメインの国道が際を通る割に内部は意外に静かで、堂内の仏像群と土塀で隔てられた外界を走る自動車の群れとの間には、まさしく「隔世の感」があって、タイムスリップしたかのような感覚を味わう。そして、町のど真ん中にあるにもかかわらず、「世界遺産条約」に登録されているから、「意外さ」はさらに増す。
 規模や敷地の大きさは、外から土塀の長さを見るだけで簡単に想像できるが、そんな大伽藍であっても、たとえば同規模の禅宗寺院に比べると、お堂同士の間隔が広くて開放的な感じがする。これは宗派の違いのせいか、それとも都の土地に余裕があった時代に創建されたせいかは判らないが、鎌倉~室町期の伽藍とは全く世界観が違う。
 「そういった伽藍の中を流れる空気の違いを感じることが楽しい。」と思った東寺めぐりだった。
 
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