更新をサボッていた間のある日、BSのデジタル放送にフィリピンのルバング島から戦後29年目に帰還した、あの小野田寛郎さんが出ていた。
何気なく見ていたんだけど、話の内容がとてもおもしろく、それまで自分の中にあった小野田さん像が全然違っていたことに気が付いた。今では数点の著書もあり、それを読んだ人はとっくに知っているだろうけど、ワタシ自身の中では「終戦を信じず、30年間(現地には昭和19年赴任、昭和49年日本に帰還)もジャングルに潜んでいたが、帰還した後は日本に馴染めるはずもなく、ブラジルに移民してしまった人」という感覚でしかなかった。でもそんな簡単なものじゃーなかった。結局、もっと知りたくて関連書
を3冊買ってしまった。
小野田さんに対して「ただの山賊だったから、出てこられなかったのではないか?」と言う人がいるそうだが、少なくともワタシは①フィリピン軍に攻撃を仕掛けていた。②常に補修した軍服を身につけていたり、将校が礼装用につける白手袋を大事に持っていた。という2点から考え、著書の中に書かれている小野田さんの言葉を信じる事にした。
詳しい内容については是非読んでもらいたいけど、何でもカネ、カネの戦後日本人の姿に絶望感を覚えたうえ、政府が小野田さんに対してとった態度が小野田さんの心をいかにボロボロにしたか。ジャングルに居た時の方がまだ誇りを持って行動できた分「幸せだったかも?」と思えるほどだ。
で、その小野田さんは1984年からはブラジルから夏の期間だけ日本に戻ってきて「小野田自然塾」というアウトドア教室のようなものを開いている。(現在はご高齢のため、第一線には出ておられないようです。)
そもそもこれを開くキッカケは…。
小野田さんは川崎市で起きた「金属バットでの親殺し事件(=受験に失敗し続けた子供が叱責されて親を殺した事件)」を知って日本の子供達の行く末を案じたそうだ。
意外なことに小野田さんは親に反発し、家を飛び出した後に中国で商社マンとして働いていた時に召集を受けたという経歴の持ち主だ。そんな人だから「自分に合わない環境がそこにあるのなら、そこを破壊(=川崎の事件の場合は親を殺す)することよりも、そこから外に飛び出すことを考えられるようになると、あんな不幸な事件は起こらなかったであろう。」と考え、そのためには「子供に自信をつけさせ、たくましく育つよう」にするのが良いのではないか?と思ったそうだ。
そこで、自分のジャングルでの経験を役立てようと考えて興したのがこの「小野田自然塾」だそうだ。
例えば、アウトドアではナイフ1本あれば木を削って箸を作るなど、他の道具を作ることが出来る。夜の暗がりでも星を頼りにすれば自分の進むべき方向が解る。そんな経験を積んでいくと、一見何もないようなところでも自分の工夫次第で活路が見出されるようになるだろう。そこで得た自信が、その後の人生に生きてくるんではないか?と考えたそうだ。
また、子供達には「ジャングルでの採取生活のような状況下で、いくら1人で頑張っているつもりになっていても、どこかで必ず人の恩恵は受けている。」だから「人は1人では生きられないんだ。」と、自らの経験から得た教訓を語り、伝えているそうだ。
こういう考えは、ワタシ自身が子供を”外遊び”に連れて行くときに、伝えたい大事な部分なので共感が出来るのだ。
そして「たった一人の30年戦争」という著書の中に出てくる「戦場では、400枚の紙幣は紙切れでしかなかった~中略~ルバング島の住民は、あの暑い山野でオノを振るってジャングルを切り開いていた。ああすれば人間は生きられるのだ。~」と思い、ブラジル行きを決意したというあたりは、大好きな倉本聰の作品「北の国から」の最終話(遺言)で黒板五郎が言う「金なんて望むな~。」「自然から頂戴しろ~。」という言葉にも似て私の心に響くのであった。
更新をサボッた間に、にわか”小野田さんファン”になっていたワタシであります。
何気なく見ていたんだけど、話の内容がとてもおもしろく、それまで自分の中にあった小野田さん像が全然違っていたことに気が付いた。今では数点の著書もあり、それを読んだ人はとっくに知っているだろうけど、ワタシ自身の中では「終戦を信じず、30年間(現地には昭和19年赴任、昭和49年日本に帰還)もジャングルに潜んでいたが、帰還した後は日本に馴染めるはずもなく、ブラジルに移民してしまった人」という感覚でしかなかった。でもそんな簡単なものじゃーなかった。結局、もっと知りたくて関連書
を3冊買ってしまった。
小野田さんに対して「ただの山賊だったから、出てこられなかったのではないか?」と言う人がいるそうだが、少なくともワタシは①フィリピン軍に攻撃を仕掛けていた。②常に補修した軍服を身につけていたり、将校が礼装用につける白手袋を大事に持っていた。という2点から考え、著書の中に書かれている小野田さんの言葉を信じる事にした。
詳しい内容については是非読んでもらいたいけど、何でもカネ、カネの戦後日本人の姿に絶望感を覚えたうえ、政府が小野田さんに対してとった態度が小野田さんの心をいかにボロボロにしたか。ジャングルに居た時の方がまだ誇りを持って行動できた分「幸せだったかも?」と思えるほどだ。
で、その小野田さんは1984年からはブラジルから夏の期間だけ日本に戻ってきて「小野田自然塾」というアウトドア教室のようなものを開いている。(現在はご高齢のため、第一線には出ておられないようです。)
そもそもこれを開くキッカケは…。
小野田さんは川崎市で起きた「金属バットでの親殺し事件(=受験に失敗し続けた子供が叱責されて親を殺した事件)」を知って日本の子供達の行く末を案じたそうだ。
意外なことに小野田さんは親に反発し、家を飛び出した後に中国で商社マンとして働いていた時に召集を受けたという経歴の持ち主だ。そんな人だから「自分に合わない環境がそこにあるのなら、そこを破壊(=川崎の事件の場合は親を殺す)することよりも、そこから外に飛び出すことを考えられるようになると、あんな不幸な事件は起こらなかったであろう。」と考え、そのためには「子供に自信をつけさせ、たくましく育つよう」にするのが良いのではないか?と思ったそうだ。
そこで、自分のジャングルでの経験を役立てようと考えて興したのがこの「小野田自然塾」だそうだ。
例えば、アウトドアではナイフ1本あれば木を削って箸を作るなど、他の道具を作ることが出来る。夜の暗がりでも星を頼りにすれば自分の進むべき方向が解る。そんな経験を積んでいくと、一見何もないようなところでも自分の工夫次第で活路が見出されるようになるだろう。そこで得た自信が、その後の人生に生きてくるんではないか?と考えたそうだ。
また、子供達には「ジャングルでの採取生活のような状況下で、いくら1人で頑張っているつもりになっていても、どこかで必ず人の恩恵は受けている。」だから「人は1人では生きられないんだ。」と、自らの経験から得た教訓を語り、伝えているそうだ。
こういう考えは、ワタシ自身が子供を”外遊び”に連れて行くときに、伝えたい大事な部分なので共感が出来るのだ。
そして「たった一人の30年戦争」という著書の中に出てくる「戦場では、400枚の紙幣は紙切れでしかなかった~中略~ルバング島の住民は、あの暑い山野でオノを振るってジャングルを切り開いていた。ああすれば人間は生きられるのだ。~」と思い、ブラジル行きを決意したというあたりは、大好きな倉本聰の作品「北の国から」の最終話(遺言)で黒板五郎が言う「金なんて望むな~。」「自然から頂戴しろ~。」という言葉にも似て私の心に響くのであった。
更新をサボッた間に、にわか”小野田さんファン”になっていたワタシであります。