中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

松原湖高原オートキャンプ場

2012-08-25 12:30:00 | キャンプ
■恒例の夏キャンプ■

 毎年恒例になっている、数家族集まっての夏キャンプ。子供たちの成長や諸事情も手伝って、一人欠け、二人欠け、参加人数が減ってきたのはチト寂しいが、今年も予定通りに執り行うことになった。
 毎年のように襲い来る猛暑を避けて楽しむには、「高原のキャンプが一番」ということで、さんざん迷った結果、向かうは八ヶ岳の北、長野県南佐久郡小海町にある、松原湖高原オートキャンプ場と相成ったわけである。
 このキャンプ場を選んだ理由は、「予約無しのフリーサイト(=満杯にならないからこのシステムが組める)」、「標高が1300m付近(=標高が100m高くなるごとに、気温は0.65℃下がり、自宅付近よりも8℃以上低い)」という、「人混み嫌い、暑さ嫌い」であるボクの条件を満たしていたからだ。

 
■買い出し■

 キャンプ場の麓には「ナナーズ」という、小規模のスーパーがあって、そこでの買い出しが便利だが、規模が規模だけに思うような食材が揃わないことも考えられるので、関越道からのアプローチであれば、佐久付近の大型スーパーを利用するのが得策のように思う。
 また、中央道からのアプローチであれば大型店舗は少ないので、長坂、須玉インターからの国道や幹線道路沿いのスーパーをチェックしながら先へ進む方が安心だろう。しかし、こと野菜関連については、そう心配することはない。なぜなら両インターからのアプローチ道沿いは、日本では有数の高原野菜の産地であり、直売所の数も多いからだ。
 中央道経由で現地に向かった我ら家族は、国道141号線沿いに数ある直売所の中でも有名店である、ヤマホ青果に立ち寄ることにした。

●ヤマホ青果●

 特に付近で豊富に栽培されている、キャベツ、レタスといった基本中の基本である野菜は一玉¥100以下であり、かなりお買い得だ。

●レタス&キャベツ●

 また、夏季限定にはなるが、採れたてのトウモロコシの味は格別であり、勿論、今回のキャンプのために購入した。


■キャンプ場内■

 八ヶ岳を左に見て回り込んで小海町内へ、国道141号線から松原湖方面に入り、8kmほど山間を走れば現地に到着する。

●幹線道路沿いの案内板●

 サイトに着くと、ビックリ、敷地は思った以上に広大だ。いくつかのエリアに分かれていて、それぞれに特徴はあるが、全体に直接日差しが届くようなところはなく、ウマく考えられている。人気があるのは便利な管理棟近く、逆に空きスペースが多いのは管理棟から遠い位置のエリアになる。
 我々グループは当然のように管理棟から一番遠いエリアに入る。

●周囲の様子●


 運良く撤収中の家族があり、入れ替わることで無事にスペースを確保することができた。


●我がグループのサイト●


●「森のキッチン」も完成●


 そして、ここから2泊3日のキャンプがスタートした。


■場内施設■

 広大なキャンプ場と言っても、付近は一帯開発によって様々な施設が造られていて、来訪者を飽きさせない。
 中でも秀逸なのが、車で5分とかからない位置にある温泉施設「八峰の湯(やっほーのゆ)」と、マレットゴルフ場だと思う。

●八峰の湯(やっほーのゆ)●

 八峰の湯は、露天と屋内のかけ湯流しの浴槽があり、サウナ等、浴内施設も充実している。ただし、露天風呂のみ、やや塩素臭があったのは残念であったが、これも「お上の指導」の結果なので、致し方ない。
 そして、マレットゴルフ場は3コース、計54ホールもあって、ほぼ一日中遊ぶことが可能だ。
 マレットゴルフとは、ハンマーのようなクラブでボールを打ち、自然地形を利用したコース上で打数の少なさを競うルールで、よく似たグランドゴルフとは違って、ちゃんと掘られた穴にボールを入れなければならない。だから穴に落とす快感?もあるので個人的にはこちらの方が好みだ。また、芝の上を転がすパターゴルフよりも自然の障害物や地形のウネリも大きいので、運、不運の要素も大きく、大人と子供の差が出にくいところがある。従って、家族全員が楽しむことができると思う。
 また、施設内にはニジマスの釣り堀、MTBのレンタルと専用コース、パターゴルフ、簡易的なフィールド・アスレチック等もあるので、長期滞在しても”遊びネタ”には困らない。


■夜の楽しみ■

 訪問期間中の夜は薄曇りがかかって視界が広がらなかったが、天文観測所も多い八ヶ岳一帯は、晴天時の夜空に浮かぶ星々の多さでも有名だ。ここ松原湖周辺も、その例に漏れず、他者のホームページ等で確認する限り、「素晴らしい」の一言だ。
 樹木が覆うサイトではそれは難しいが、見晴台もあるので、いずれ機会があればそこからの眺めを見てみたいものだ。
 まぁ、それが無くとも、キャンプの夜は楽しくふける。焚き火を囲んで友と酒を飲みながら、ぐだぐだと話す時間は貴重な時間だ。

●焚き火●


■周辺観光■

 キャンプ中は場内近辺での遊びが優先されるが、現地と中央道の行き帰りには日本有数の高原観光地である「清里(きよさと)」があるので、そこに立ち寄るとイイだろう。
 知っている人も多いとは思うが、付近には有名牧場が多数有り、そこで販売される、チーズ、牛乳、ソフトクリーム等の乳製品は高品質でウマイ物が多いとされている。上述した野菜の直売所と合わせて牧場関連の施設を巡ると楽しいと思う。
 しかし、それが無くとも、何と言ってもこの辺りの風景は格別なのだ。従ってそれを眺めるだけでもここに来た甲斐があると思う。

●八ヶ岳●

●南西方向には富士山が顔を出す●



 自宅のある西宮からだと、アプローチに5時間程度かかるキャンプ場だったが、長時間かけてやって来るだけの値打ちがあり、既に来年夏のキャンプの筆頭候補となっている。今までに何カ所か巡った中で、ボクにとっては最高点に近いキャンプ場だったことは間違いのないところだ。
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終戦記念日を迎えて

2012-08-18 12:30:00 | その他
■終戦記念日を迎えて■

 8月15日の終戦記念日がやってきた。今年も一年間に渡って何点かの近代史関連の本を読んだが、前半は海軍、それも戦闘機乗りの本を多く読み、後半からは何とも実態がよく解らず、もやもやとした霞の中にあるイメージの陸軍関連の本を探し、読む中心に据えている。
 今回は、その日本陸軍について書きたいと思っているのだが、その前に、前半で読んだ中で一番印象に残った神立尚紀氏著「祖父たちの零戦」という一冊を紹介しておく。

●祖父たちの零戦●


 この本は、零戦の登場期から終戦にかけて戦闘機隊を指揮した進藤三郎、鈴木實の両氏を中心に、他の元零戦搭乗員124名のインタビューを元に書かれたノンフィクション作品だ。この膨大な量のインタビューによって、今までのやや脚色された間のある、個人の”空戦物”とは違った、零戦搭乗員達の実像に迫っている感があって非常に興味深い内容だった。
 この本を読み、その後に陸軍関連の本を読み始めたのだが、旧軍の中での違いを大いに感じさせられた。
 「祖父たちの零戦」の中に出てくる戦士が搭乗する戦闘機は基本的に一人乗りであり、空中での判断も個人にある程度の裁量権があったせいか、軍という組織に属しているものの、言わば”個人事業主”のようなところがあって、他の将兵とは違う個人主義的な物の考えを持っていたようだ。そもそも「あこがれの海軍に入ったものの、艦隊勤務の、毎日のように殴られる”団体での訓練”が嫌になったこと」が理由で、戦闘機乗りを志願した人も居たので、逆に軍という組織の中では珍しい、そういった”個人”の集まりが戦闘機隊とも思える。
 また、日頃から搭乗員同士で意見を交換し、協力し合って任務をこなすなど、個人行動と組織行動のバランスがとれていて、風通しの良さも見受けられる。
 それとは違って、後半から読み始めた陸軍関連の本に出てくる将兵は、没個人を求められ、陰惨そのもので、読むのも辛い記述がかなり出てくる。このあたりが出版数の差になっている理由の一つに思う。

 
■日本陸軍関連の本■

 陸軍関連の書籍を探している最中、最初に出会ったのが、山本七平氏の著書である三冊(内一方は上下巻)だった。

●山本七平氏の著書の三冊●

 「一下級将校の見た帝国陸軍」は、学徒動員により、筆者自身が幹部候補生少尉として壊滅寸前のフィリピンに投入された際の実戦体験をもとに、そこで起こった「日本陸軍の不条理、不合理という言葉では表しきれない機能不全」を書き綴っている。そして、もう一方が「私の中の日本軍」で、こちらの方は、連合赤軍による一連の事件、グアム島での横井さんの救出、ルバング島での小野田さんとの救出交渉(後に救出)等々、著作前に起こった事件と自身の戦争体験と、中国戦線で起こったとされている、いわゆる「百人斬り競争」とを重ねることで、その根底にある共通項に迫ってゆく内容だ。

 上述した山本七平氏が自費出版に近い状態だった物を発掘し、世に出したのが、小松真一氏著「虜人日記」という一冊だ。

●虜人日記●


 小松真一氏は、今で言うところのバイオテクノロジー技術者としてブタノール(アルコール燃料類)生産プラントに関わる、軍属という立場でフィリピンへ渡り、戦線の後退に合わせて、軍と共にジャングルにこもった末に、終戦後は捕虜収容所に入れられ、やがては帰国したという経歴の持ち主だ。
 「後書き」にもあるが、小松真一氏が当時肌身離さず持っていた手帳を始め、メモや日記にリアルタイムで記した内容を元にして出国~帰国までの期間に見、聞き、感じたことを書き綴った物であり、その意味では大変貴重な物になる。というのも、多くの戦中体験記は戦後しばらく経ってから書かれた物がほとんどであり、その場合、その戦後の価値観に支配されている物が多いし、中には自己弁護のために都合良く解釈した物など、故意であるなしに関わらず、実際にその場で感じた事ではないことが多いからだ。

 そして、最後に紹介するのが、堀栄三氏著「大本営参謀の情報戦記」という一冊だ。

●大本営参謀の情報戦記●

 これは、大本営の情報部に所属していた堀栄三氏が書いた物で、当時の大本営の中枢部である作戦課が、如何に情報を無視して作戦指導していたかが良く理解できる内容になっている。


■私的制裁■

 他にも数点読み、それを合わせても数冊の単位ではあるが、読んだ内容から、当時の日本陸軍という組織をボクなりに考えてみた。すると現在にも繋がる我々日本社会に巣食う病的な傾向が見えてくる…。

 戦前~戦中の下士官以下は日頃兵舎に暮らし、その単位を内務斑と言うそうだが、そこでは些細なことが理由と言うか、ほとんどの場合がこじつけで下士官や入隊年数の長い古兵と呼ばれる人達による、兵への私的制裁という名のリンチが毎夜の如く行われていた。
 制裁を加える側は一部ではあるのだが、こういった人達が一定の割合で居たがために、避けることは難しく、一般兵、特に入りたての初年兵に対する私的制裁に関する記述や証言は山本七平氏以外にも多数あるので、どこにでもある、当たり前の光景だったようだ。
 制裁の内容は凄惨そのもので、手で殴る、足で蹴るはもとより、殴れば必ず口の中が切れて血だらけになるという、鋲が打ち込まれた硬質の上靴で殴る、それも顔が変形するまで殴る事も多かったそうだ。そして、一旦肉体的苦痛が限界を超えそうになると、今度はタン壺ナメや軍靴ナメその他といった精神的な苦痛へと切り替えるという、地獄の攻めを日々加えていたそうだ。
 日常的に制裁を受け続けた兵は、やがて思考が停止し、命令に反射的に動くロボットのようになる。そういった兵同士で殴り合いをさせることもよく行われ、(兵が死ぬと「人数が減った=道具と同じ」として責任追及されるので実際には殺さないが)命令さえすれば互いに殺し合わせることも可能だったという。そんな状況は当然、自殺者や逃亡者を生み出している。
 だが、これら私的制裁は表向きには「あるはずがない」とされていたそうだ。元より内務斑の管理者にはそれを押さえる能力はないが、「あるはずがない」を取り繕うために、そういったことに対する捜査があると、協力しないばかりか妨害すら行っていたそうだ。また、管理者の中には私的制裁を必要悪と考え、「制裁を受ける側にも、それを受ける理由であるところの、良からぬ点(この場合は軍人精神の欠如)があるはずだ。」と捉えていたことも発覚しにくい理由だったという。
 しかし、頻発する私的制裁は隠し通せることでもなく、広く世間に知れ渡っていたが、その状況を「軍、民離間の元凶」と捉えた軍上層部は「私的制裁は厳禁とする」という、通達を出すに至った。
 それを受け、朝礼時には中隊長が確認のため、頻繁に「私的制裁を受けた者は手を挙げよ。」と言っていたそうだが、制裁を受けた本人が手を挙げる、あるいは周りでそれを見ていた兵が申し出ることはない。なぜならば、あってはならない私的制裁によって、「手を挙げる」といった意志を示す心理自体が、すでに失われているからだ。確認する側の士官も実情を知らないワケはないのだろうが、恐らく「確認したが無かった」ということで済ませていたのだろう。
 こういった私的制裁の傾向は山本七平氏曰く連合赤軍も同様であったそうだが、近頃紙面を賑わす「いじめ問題」も全く同じ構造であり、戦前から変わらない状況にボクは唖然とする。そして、戦後、軍部を徹底的に批判し続けていた教育者側が、同じ轍を踏むに至るとは皮肉と言う他はなく、「いったい、70年近くもの間、何をしてきたのか?」と、問いたくなってしまった。


■伝統的体質■

 兵とは逆のエリート中のエリートと言われた参謀本部作戦課は当然花形であり、学力では東京帝国大学と同等と言われていた、陸軍士官学校~陸軍大学でも上位5番以内の成績優秀者が配属される部署だが、彼らには他の部署に対する差別意識があったそうだ。
 作戦課から見れば、「大本営参謀の情報戦記」の著者である堀栄三氏の所属していた情報課は、「自分たちよりも成績下位の人達が入るところ」という意識があり、これは司馬遼太郎さんが以前に書いていたことでもあるが、成績下位の者から送られてくる情報は、それこそ「大したことのない情報」であり、それを精査することなく、半ば捨て置くことがあったそうだ。
 堀栄三氏が送った情報の中に、戦局を左右するほどの重要な物があったのだが、それを某参謀が握りつぶして既定の大作戦を遂行したことによって、多大な犠牲者が生まれ、実質的に連合艦隊は壊滅した。そして、その作戦の後、日本海軍は組織的戦闘を行う手段を無くして特攻に偏るようになり、相対的に陸軍の力も落ちてフィリピン戦や沖縄戦のような、より凄惨な戦いへと進んでいった。しかし、この経緯の中で責任を取った人は居ない。
 「情報を生かす能力の低さ」は、未だに日本政府の弱点となっているが、これは今に始まったことでははないことに気付かされる。そして、自分たちのみが正しく、他の意見に取り合わない独善ぶりと、そのくせ犯してしまう自分たちの失敗に対する無反省ぶりは、日本の当局者の中での伝統になっているかのようでもある。

 また、軍内の恐るべき習慣(慣例?)の中には「員数合わせ」というモノがあったそうだ。
 例えば砲が「砲を10門移動させよ」という命令があれば、それが壊れていようが、砲弾が無かろうが、10門移動させれば良いワケで、その移動さえこなせば内容について咎められることはない。何故なら員数が合っているからだそうだが、こうやって表面上で無理矢理につじつまを合わせることを「員数合わせ」と呼んでいたそうだ。
 また、飛行場のような重要施設であっても、たとえそこが空襲の被害によって、穴だらけで使用に耐えない滑走路の上に、焼き払われて残骸になった飛行機が20機並ぶモノであったとしても、「員数合わせ」の下であれば、そこは20機配備の航空基地と化するそうだ。
 そして、こういった員数合わせによって積み上げた数値で兵力や装備を計算し、作戦が立てられたというから、その結果は「言わずもがな」である。
 上述したような思想は、今も活きているように思え、それが市民と政治・行政に携わる人々との感覚の乖離(かいり)原因の一つとなっているように思う。
 これまた約70年もの間、「いったい当局者は何をしてきたのか?」と思わざるを得ない瞬間だ。


■教訓の忘却■

 作家の三島由紀夫氏が自決する約4ヶ月前に
「私はこれからの日本に対して希望をつなぐことができない。」「日本は無くなって、その代わり無機質な、空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。」
という言葉を残した。恐らくこれは「国家のあり方」についての憂いだろうが、「国家のあり方」を考えず、ただひたすら豊かさを求めて得た、「富裕さ」に陰りが見え、「抜け目なさ」を失い、これまで登っていた経済大国への階段も下りつつある。これは近代史関連の本を読む度に感じる、「教訓の忘却」の結果だろうと思う。

 「世の中が変わるには『御維新』を待つしかないのだろうか?。」とは、近頃つくづく思うことである。そしてまた一年、来年の終戦記念日に向けて、ため息と共にボクは本を読み続けるのだろうが、もしその「御維新」があった際には、微力ながら力添えをしたいと思っている。それが一票を投じることなのかも知れないが…。

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’12 玄達瀬の釣り ~その2

2012-08-11 12:30:00 | 船釣り・釣行記
■ようやくのアタリ■

 兄の仕掛けとは、道糸の号数、ハリスの長さと号数も同じ、サルカンのサイズと浮力調整の発泡ウキも同サイズ。ということは全て同じハズなのに、結果はまるで違う。
 あれこれ考えた末に道糸のメーカーが違うことに気付く。同じ8号のフロロカーボン製道糸なのだが、メーカーごとに若干の太さが違うのだ。これが恐らく浮力の違いとなって棚ズレを起こしているのだろうと思い、兄の仕掛けに合わすことは止めて、自分の感覚で棚を探るようにしてみる。
 このポイントでは食うまでの距離が短いので、流す距離は80mとして、まずはそこまで流し終えた時点で回収し、エサの残り具合を確認しつつ、「時折エサが取られる」状態になるまで、浮力を増して、狙う棚をどんどん上げていった。
 そして、その努力が実って55m付近でボクのリールからも「プシュー!」音がようやく聞こえたのである。

●只今、小マサくんと対戦中●

 同クラスのハマチよりも格段のパワーの違いがあって、ボクを楽しませてくれはするが、当日のタックルの敵ではない。
 そして難なく取り込んだのは58cmほどの小マサであった。

●兄のよりはやや大きい程度●

 続いてのアタリを取ろうと、取り込み後はすぐに仕掛けの投入を再開するが、ボクのアタリを機に続くアタリはなかった。

■同じパターン■

 しばらくアタリは遠退いたが、30分以上の沈黙の後、回遊が再び始まったのか、アタリが復活し始めた。しかし、またもやリールがうなりを上げたのは兄のタックルの方だった。そして、近距離で兄が2本釣った後に、そのやや沖を流れているボクの方にが当たりが出るという、先ほどと同じ展開になる。
 しかし、同じポイントでの3度目は無かった。釣れる魚が口太グレに変わり、しかも時間がかなり経った後もヒラマサの食いに回復の傾向がみられなかったために、「地合いは過ぎた」との船長判断で一旦深場ポイントに移動をすることになった。

 「朝の地合いが終わったので、日中は深場の方がイイだろう。」との船長判断だったが、ここでは潮が速すぎて上から撒くエサが効きにくく、流す仕掛けとの同調ができない。大物場だけに粘る手もあったが、残念ながら回復の兆しが見えなかった。そして、夕方の地合いに向けての移動が始まった。


■夕方の時合い■

 今度のポイントは、朝方とは少し違う位置にある浅場だった。
 マキエサをせっせと撒き、「効き始めたかな?」と思った瞬間に、またもや兄のリールがうなりを上げた。またもや至近距離の25m付近でアタったという。
 これまた結果は小マサだったが、すぐ横を流れているはずの、こっちの仕掛けにはアタリは出ない。そして、午前中と全く同じパターンとなって近距離で兄が2本釣った後に、ボクがその沖でようやく1本を掛けることになった。
 ここまでの成績は兄の6本に対してボクは3本という、ダブルスコアだ。同じ流し方をしていると、同じ傾向は続くのだろうか?。釣果の差にボクの頭は混乱する。こういった場合、必死になりすぎて落ち着いて周りを見ていないことが多いものだ。
 そこで、兄と同じタイミングで同じサイズの発泡ウキを装着した仕掛けを投入してその沈み具合を目で追うことにする。
 ここで一つの発見があった。同じ発泡ウキでも沈み方が全く違うのだ。
 兄の発泡ウキは使い古しで色ハゲが多く、どうやら海水を吸って浮力が落ちているようだ。古くなると浮力が落ちることは知っていたので、ボクの場合は状態を確認して悪い物は捨てていたのだが、兄は無頓着なので、そのまま使用していたようだ。その差が棚の違いとなって釣れる位置の違いと釣果の差となっていたのだ。
 ここからは兄の装着サイズよりも一つ浮力を下げ、実際の浮力を合わせることで棚を合わせることにする。そしてアタリを待ったわけだが、次なる釣果も又至近距離で掛けた兄の物だった。
 ここで又新たな疑問が沸いてきた。「果たして、仕掛けの長さは同じなのだろうか?」と。ボクらは市販の仕掛けは使わず、自作の仕掛けを使用している。兄に確認すると同じ4ヒロ=6mの仕掛けだと言うが、目視ではどうもボクの仕掛けよりも長い。
 仕掛け作りの際には両腕を広げた長さが1ヒロとして、繰り出す回数で長さを決めることが多いが、ボクの場合は、手首を直角に内側方向へとを曲げた状態で胸を張ればちょうど1ヒロの基準である、1.5mになる。(試しに計ってもあまり誤差はほとんど出ない)
 対する兄の場合は、どうやら腕の延長方向へ真っ直ぐに伸ばして計っているようであり、そもそもの体格の違いから1ストロークで30cmほどの違いがありそうだ。それが4ヒロ分だと1.2mもの差になり、当日のように魚が食う距離が近い場合だと、ボクの仕掛けとの違いはかなり大きくなる。
 そこで、仕掛けに1.5m分のハリスを継ぎ足して延長する。そしてこの工夫がようやく実って最後の小マサ4本の内、2本はボクの釣果になって追いつくことに成功したのであった。

●当日の、小マサ13本、口太グレ5枚の釣果●


■一日を終えて■

 普段釣っている中~遠距離の感覚であれは、ハリスの長さの1~2mの違いはそんなに意識はしないし、発泡ウキの浮力が周りと違っていても「それぞれに流し方や仕掛けが違うんだから」と、気にしないが、近距離だと仕掛が馴染んですぐに魚が食うわけだから、初期セッティングの違いから来る差は大きい。冷静になればすぐに理解できることだが、先行されて頭に血が上っていたせいか、半日以上気付かなかったことがイタかった。
 当日は久しぶりの玄達瀬とあって、上記のようにボクがもたついた部分があったせいか釣果は伸びなかったうえに、釣行2週間前まで堅調に釣れていた1mクラスは登場するどころかアタリすら出なかった。その意味ではかなり残念だったが、これも運なので仕方がない。
 しかし、喜びもある。それは「~その1」の冒頭でも書いたようにヒラマサの食味である。同じ青物でもブリであれば、当日のサイズだとハマチクラスになるが、そのハマチ、特に夏場はスカスカで全くウマくはない。しかし、ヒラマサの場合は小マサであっても全くウマさは衰えず、若干の脂の乗り具合の差はあるものの、極上そのものなのだ。
 これに気を良くして「次回の釣行を…。」とも考えるのだが、もう禁漁は間近に迫り、時間切れ寸前だ。だから次回釣行は来年ということになるのだろうが、小マサの一部が回遊せずに居着きとなったのが、メーター・クラスの大型だという説があるだけに、後半に釣れ盛った小マサの量を考えると、来年への期待は大きい。2005年の4月以来、長らく出会っていないメーター・クラスのヒラマサに会えるのは来年なのか?。釣行が今から待ち遠しい今日この頃なのである。
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’12 玄達瀬の釣り ~その1

2012-08-04 12:30:00 | 船釣り・釣行記
■玄達瀬■

 玄達瀬とは福井市西部の海岸線から約35km西の沖合にある”スーパー漁場”だ。
 大きさは長さ18km、幅6kmほどで、周囲の水深200mから一気に水深30~10mにまでせり上がる非常に起伏の激しい瀬になっており、最浅部は7mほどと言われ、船上から肉眼で確認できる。対馬暖流からの栄養豊富な潮流が、この複雑な瀬にぶつかることで、魚の集まりやすい条件が整い、一帯の漁場では最高クラスの魚が狙えるポイントになっている。
 この玄達瀬で釣りができる解禁期間は毎年6月16日から8月15日までであり、入ることができるのは、許可船のみになる。
 狙う魚は、ヒラマサ、ブリ、マダイ、がメインだが、近年ではメダイの大型や、尾長グレの大型もよく見かけるようになり、その他の磯着きの魚である、口太グレ、石鯛、イサギなどもよく顔を出す。
 中でも、釣り人の一番人気はヒラマサだろう。この魚の魅力は何と言ってもその強力な引き味と食味だ。その強引は、サイズが1mを優に超えるクラスにもなると10号クラスのハリスを簡単に引きちぎり、ヤワな竿は折られ、下手をすれば電動リールまでもが破壊されるというモノだ。更には習性上一度ハリに掛かると、海中の障害物の際に向かって猛突進するから、必然的にハリスや道糸が擦れて切れる確率も高いので、ゲット率が下がる。そのことが更に釣り人の「獲ってヤル魂」を刺激するのである。
 そしてその食味は、最高クラスの評判であり、浜値もブリの3~4倍もする。個人的な趣向かも知れないが、高級クロマグロやクエと同等に思うほどだ。特に旬が産卵期にあたる夏になっているので、玄達瀬の解禁期間と重なっているのが嬉しい。
 今シーズンの玄達瀬では特に1m前後の大型の回遊量が多く、解禁当初から安定した釣果が続いていたし、中には1m40~50cmというオバケ・サイズも登場しているようだ。

 今回利用した釣り船は越前フィッシングセンターに所属する、晴海丸という船だ。そう、6月初旬にこのブログで紹介した鷹巣沖での釣りでも利用した船だ。
 この船の船長さんは、完全に大物指向であり、そのヤル気たるや、一度船に乗ればすぐに伝わってくるような人柄であり、それでいてきめ細かいアドバイスや世話を的確にこなしてくれる。かくいうボクもその人柄に惹かれて、今回の玄達行きでは指名して乗船の運びとなったワケである。因みに上述したオバケ・サイズの1m40cmは、この船の釣果だ。

●晴海丸の船影●

 実は本来、7月初旬に釣行予定だったのが、一度荒天で流し、再度の挑戦になっていたのだが、その間の3週間で玄達瀬では状況が変わっていた。新たにヒラマサの群れが入って来たのは良いことだが、そのサイズは小ビラと呼ばれる50~60cmクラスだ。数が出ていることから、釣果においては堅い状況だろうが、釣り味については疑問が残る。果たして結果はどうなるのであろうか…。


■瀬落ち狙いから浅場へ■

 母港の福井港から、1時間弱で玄達瀬に到着する。付近の海域には20隻程度が集結し、それぞれのポジション取りを行っていた。

●付近の船団●


 我が晴海丸は浅場から深場に落ちてゆく”瀬落ち”のラインにポジション取りし、仕掛けの投入が開始された。
 この玄達瀬では、ジギング等、ルアーで狙う釣り人以外の、ほとんどの釣り人が、オキアミエサを使った完全フカセ・スタイルで挑んでいる。このブログでも何度か紹介したが、この釣りはリールから無抵抗で糸を送り出し、ハリに着いたエサをくわえた魚が走ることがリールの急速回転として表現される。だからその瞬間がいつ来るのかと、ドキドキしながらアタリを待ち、アタった瞬間の「プシュー!」という音と共に、こちらの興奮も最高潮となるのである。
 そのアタリを拾うまでには、オキアミのマキエサを撒き続けると共に、「タナ調整」が重要になってくるが、詳しくはこのブログの過去の記事を見て欲しい。 

●新調したリールは唸りを上げるのだろうか?●

 約2時間、同一のポジションで粘ってみたが、最初のポイントでは不発だった。そして船長のひらめきと判断から、周囲に他船が居ない、やや浅場で起伏の激しい地点へと移動を開始した。

 釣り人にはいろいろなタイプが居るが、ボクは群れることが嫌いだ。例えば、磯釣りだとある磯が絶好調だとすると、釣り人の中には、周りに人がたくさん居ても平気で並んで釣ることのできる人が居るが、ボクの場合はそれは苦痛になる。だから、たとえ不人気であっても、自分のスタイルで一日を通したいが故に、人の少ない、あるいは全く居ない磯に上がることが多い。また、兄や友人達との釣行であっても、一人で磯に降りて、そこで一日を過ごすことになるとしても、一向に構わないのだ。要は「思う存分竿を振りたい」ということだ。
 実は晴海丸の船長もそんな釣り姿勢のようである。船団の近くには寄らず、培った実績と自分の感覚でポイントを選ぶことを優先しているようだ。あくまでも「ボクにとっては」の話だが、こういったポイント選びは自分の波長にも合うので、気持ちが良い。


■初アタリ■

 浅場への移動後、数頭目で兄のリールから待望の「プシュー!」音が出た。アタリの出方と竿の絞り込まれ様からすると、間違いなくヒラマサであるが、サイズは近頃主流の小マサ・クラスのようである。

●当日の、初やりとり●

 メーター級に照準を合わせた10号ハリスを使用しているだけに、強引なやりとりで難なく手中に収めたのは、予想通り55cm級のヒラマサであった。

●55cm級のヒラマサ●

 兄曰く、アタったのは40m付近ということである。続いてボクにもアタリがあると思っていたが、意に反して40m付近を素通りし、100mまで到達してもアタリは無い。回収するとエサが取られている。もう一度流しても結果は同じだった。
 続いてのアタリも兄だった。聞けば今度は25m付近でアタったという。これも小マサで難なく取り込んだが、至近距離で食っているというのに、こちら側のかすりもしない現状にボクの頭は???で埋め尽くされる。果たしてボクの仕掛けや流し方は兄と比べて何の違いがあるのだろうか…?

~その2へ続く
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