■阪神タイガースと共に40年■
以前に書いたことだけど、ボクの育った実家は阪神タイガースの本拠地である、甲子園球場から子供の足でも10分とかからない距離にあった。だからボクは物心ついた頃からの阪神ファンだ。記憶に残る中で一番古いチーム編成は小学校低学年時の4番に田淵幸一氏、エースに江夏豊氏が君臨していた頃になるが、それからかれこれ40年近く経過してしまった。
当時の名称で「阪神こどもの会」という、小学生を対象とした会員組織があり、それに入会すると内外野の自由席への年間パス的なチケットがつく他、球場の斜め向かいにある「阪神パーク」という、遊園地検動物園に数回入園できる特典がついていたので、ボクも小学校6年生になるまで毎年購入し続け、何度も球場に足を運んでいた。
その頃の楽しみは野球観戦の他に、地の利を生かしての選手のサイン集めもその一つであり、自分なりに考えてゲットしていた。
一つ目は、ボクにとってのミスタータイガース第一号=田淵幸一氏をピンポイントで狙う方法だ。
ラッキーにも自宅から100m位しか離れていないところに「ホームラン」という名の理髪店があり、そこの上得意さんが田淵幸一氏なのを知っていたボクは、学校の帰りに、いつもの場所をチェックするのが日課だった。というのも田淵氏が来店すると、必ず同じ位置に当時の高級車であった「フォード・ムスタング(色は白)」が駐車してあるからだ。運良く駐めてあるのを発見すると、自宅に走ってサイン帳、もしくは近くの文房具屋さん経由で色紙を持参してひたすら待ち続け、店から出てくるタイミングを狙ってサインを貰うワケだ。だから、田淵氏だけでも何種類も持っているのが自慢だった。
もう一つの方法として、雨天練習場パターンがあった。
今は残っていないと思うが、改装前の甲子園球場にはアルプススタンド下に雨天練習場が備えてあった。雨の日にはホーム&アウェイの、両チームの選手達がそこで練習をしていたのだが、当時は恐らくエアコンもなく、更には今とは違ってノンビリしていたので、窓は全開、扉も開けっ放しでボールが飛び出さない、あるいは部外者が入ってこないようにするためのネットが張ってあるだけだった。そしてその扉のネット際には選手達が練習の合間に涼めるようにパイプ椅子を並べていたのだ。つまり外を歩く人には椅子に座っている選手が手で触れられそうな距離で丸見えの状態であったのだが、当時は特に人だかりが出来るわけでもなく、それは言わば当たり前の光景だったのだ。
サイン小僧であるボクはそこを狙っていたのである。ここでは相当な数のサインを集めたが、特に今でも印象に残っているのは、ある雨の日の2日間だった。
初日、ボクが雨天練習場に到着した頃にはあいにく阪神の選手は練習を切り上げて帰った後であり、そこでは宿敵巨人軍が練習していた。ボクはその日、敵情を探るために?何となく眺めていたのだが、ソレにも飽きて、程なく家に帰ることにした。
そして翌日もまた雨だった。そこでもう一度覗きに行ったのだが、運悪く?またもや巨人軍の練習中だった。もう見る気はないので、「帰ろうかな?」と思っていると、上述したパイプ椅子に座っている選手に声を掛けられた。それが当時巨人の正捕手だった吉田孝司(よしだ たかし)氏だったのだ。
「ボク、昨日も来とったな、ほんで(それで)どこのファンや?」(吉田選手)
「阪神ファンや!」(ボク)
「へ~、弱い阪神のどこがええんや?」(吉田選手)
この話にカチンと来たボクは子供なりにヘコませてやろうと、こう答えてやった。
「オッチャンこそ、大阪弁使ってんのに、なんで東京の巨人に行ってるんや、この裏切り者!」(ボク)
「コラッ!」(吉田選手)
コレには周りにいた他の選手達も大笑い。恐らく初めは「熱心に練習を見つめる巨人ファン」とでも吉田孝司氏の目には映っていて「サインでもしてやろうか?」と思って声を掛けてくれたのだろう。勿論、どちらもノリが判る関西人なのでそれは笑顔を浮かべての会話であり、生意気なクソガキの返答にどこまで吉田孝司氏がヘコんだのかは判らないが、当時の選手との距離感は、こんな感じであったことがうかがい知れる懐かしい思い出だ。
そして試合の中止が決まると、選手達は一風呂浴びた後に帰って行く。出て行く門は決まっているから、そこでボクは待ち構えるのだが、ここでは新人時代の掛布雅之氏が思い出深い。
掛布氏を呼び止め、その時代のみに使用していたひらがなベースのサインを書いてもらった後に、コッチが照れてボソボソと言いながら握手を求めると、逆に向こうから「よろしくね」と言われてしまったのだが、それが子供心に大きく響いたのだ。些細なことかも知れないが、子供にとっては大きな出来事だ。それ以来、掛布雅之氏の大ファンになり、やがてはボクにとってのミスタータイガース第二号になってゆくのだが、以降の実力や実績は言うに及ばず、この時のイメージが更に加わって、今でも同氏のファンであり続けているのだ。
■愛しの”オッサン”チーム■
今年もシーズンを前にキャンプインしている「我が愛しの阪神タイガース」は沖縄キャンプから舞台を変えた安芸キャンプもほぼ終了し、オープン戦へと順調に駒を進めているようだ。
キャンプの話題が集中する日本ハムの斉藤祐樹クンよりもレギュラー野手陣の平均年齢が10歳も上のオッサン集団の阪神タイガースだが、古くからのファンの立場から言わせてもらうと、何もこのオッサン度の高さは今に始まったことではないような気がする。
振り返ってみると、ボクが物心付いた頃から、オッサン臭い選手が中心であり、それは「田淵幸一・江夏豊・遠井吾郎」三氏に代表されるように、お腹が出ている姿が強くイメージされる選手が在籍していたことでもそれが理解してもらえると思う。また、若トラと言われても今とあまり雰囲気の変わらない掛布雅之氏であったり、俊足の新人と言われていた割にはこれまた今と変わらない、あの川藤幸三氏、はたまた藤山寛美さんにソックリだと言われた岡田彰布氏…。亀山・新庄の両氏が活躍した時代と一部の例外を除いて、オッサンだらけの感のあるチームだけに今の状態は不思議ではなく、一種の伝統のように思える。
自分がオッサンになった今、そんな阪神タイガースだからこそ、より応援に力が入ってしまうのだが、少々ヘコんでしまうのは、その愛すべき”オッサン”集団の誰よりも自分の方が年上になって久しいことだ。しかしこれから先、たとえ孫の世代がプレイしていても、球団が無くならない限りボクはファンで居続けることだろう。
長きにわたった「阪神の暗黒時代」を知るファンは、ついつい自虐的になって「優勝しろ」という言葉が、とてもじゃないけど出てこない。ここは、ただただ「各選手の、今シーズンの健闘を祈る!」と言っておこう。
以前に書いたことだけど、ボクの育った実家は阪神タイガースの本拠地である、甲子園球場から子供の足でも10分とかからない距離にあった。だからボクは物心ついた頃からの阪神ファンだ。記憶に残る中で一番古いチーム編成は小学校低学年時の4番に田淵幸一氏、エースに江夏豊氏が君臨していた頃になるが、それからかれこれ40年近く経過してしまった。
当時の名称で「阪神こどもの会」という、小学生を対象とした会員組織があり、それに入会すると内外野の自由席への年間パス的なチケットがつく他、球場の斜め向かいにある「阪神パーク」という、遊園地検動物園に数回入園できる特典がついていたので、ボクも小学校6年生になるまで毎年購入し続け、何度も球場に足を運んでいた。
その頃の楽しみは野球観戦の他に、地の利を生かしての選手のサイン集めもその一つであり、自分なりに考えてゲットしていた。
一つ目は、ボクにとってのミスタータイガース第一号=田淵幸一氏をピンポイントで狙う方法だ。
ラッキーにも自宅から100m位しか離れていないところに「ホームラン」という名の理髪店があり、そこの上得意さんが田淵幸一氏なのを知っていたボクは、学校の帰りに、いつもの場所をチェックするのが日課だった。というのも田淵氏が来店すると、必ず同じ位置に当時の高級車であった「フォード・ムスタング(色は白)」が駐車してあるからだ。運良く駐めてあるのを発見すると、自宅に走ってサイン帳、もしくは近くの文房具屋さん経由で色紙を持参してひたすら待ち続け、店から出てくるタイミングを狙ってサインを貰うワケだ。だから、田淵氏だけでも何種類も持っているのが自慢だった。
もう一つの方法として、雨天練習場パターンがあった。
今は残っていないと思うが、改装前の甲子園球場にはアルプススタンド下に雨天練習場が備えてあった。雨の日にはホーム&アウェイの、両チームの選手達がそこで練習をしていたのだが、当時は恐らくエアコンもなく、更には今とは違ってノンビリしていたので、窓は全開、扉も開けっ放しでボールが飛び出さない、あるいは部外者が入ってこないようにするためのネットが張ってあるだけだった。そしてその扉のネット際には選手達が練習の合間に涼めるようにパイプ椅子を並べていたのだ。つまり外を歩く人には椅子に座っている選手が手で触れられそうな距離で丸見えの状態であったのだが、当時は特に人だかりが出来るわけでもなく、それは言わば当たり前の光景だったのだ。
サイン小僧であるボクはそこを狙っていたのである。ここでは相当な数のサインを集めたが、特に今でも印象に残っているのは、ある雨の日の2日間だった。
初日、ボクが雨天練習場に到着した頃にはあいにく阪神の選手は練習を切り上げて帰った後であり、そこでは宿敵巨人軍が練習していた。ボクはその日、敵情を探るために?何となく眺めていたのだが、ソレにも飽きて、程なく家に帰ることにした。
そして翌日もまた雨だった。そこでもう一度覗きに行ったのだが、運悪く?またもや巨人軍の練習中だった。もう見る気はないので、「帰ろうかな?」と思っていると、上述したパイプ椅子に座っている選手に声を掛けられた。それが当時巨人の正捕手だった吉田孝司(よしだ たかし)氏だったのだ。
「ボク、昨日も来とったな、ほんで(それで)どこのファンや?」(吉田選手)
「阪神ファンや!」(ボク)
「へ~、弱い阪神のどこがええんや?」(吉田選手)
この話にカチンと来たボクは子供なりにヘコませてやろうと、こう答えてやった。
「オッチャンこそ、大阪弁使ってんのに、なんで東京の巨人に行ってるんや、この裏切り者!」(ボク)
「コラッ!」(吉田選手)
コレには周りにいた他の選手達も大笑い。恐らく初めは「熱心に練習を見つめる巨人ファン」とでも吉田孝司氏の目には映っていて「サインでもしてやろうか?」と思って声を掛けてくれたのだろう。勿論、どちらもノリが判る関西人なのでそれは笑顔を浮かべての会話であり、生意気なクソガキの返答にどこまで吉田孝司氏がヘコんだのかは判らないが、当時の選手との距離感は、こんな感じであったことがうかがい知れる懐かしい思い出だ。
そして試合の中止が決まると、選手達は一風呂浴びた後に帰って行く。出て行く門は決まっているから、そこでボクは待ち構えるのだが、ここでは新人時代の掛布雅之氏が思い出深い。
掛布氏を呼び止め、その時代のみに使用していたひらがなベースのサインを書いてもらった後に、コッチが照れてボソボソと言いながら握手を求めると、逆に向こうから「よろしくね」と言われてしまったのだが、それが子供心に大きく響いたのだ。些細なことかも知れないが、子供にとっては大きな出来事だ。それ以来、掛布雅之氏の大ファンになり、やがてはボクにとってのミスタータイガース第二号になってゆくのだが、以降の実力や実績は言うに及ばず、この時のイメージが更に加わって、今でも同氏のファンであり続けているのだ。
■愛しの”オッサン”チーム■
今年もシーズンを前にキャンプインしている「我が愛しの阪神タイガース」は沖縄キャンプから舞台を変えた安芸キャンプもほぼ終了し、オープン戦へと順調に駒を進めているようだ。
キャンプの話題が集中する日本ハムの斉藤祐樹クンよりもレギュラー野手陣の平均年齢が10歳も上のオッサン集団の阪神タイガースだが、古くからのファンの立場から言わせてもらうと、何もこのオッサン度の高さは今に始まったことではないような気がする。
振り返ってみると、ボクが物心付いた頃から、オッサン臭い選手が中心であり、それは「田淵幸一・江夏豊・遠井吾郎」三氏に代表されるように、お腹が出ている姿が強くイメージされる選手が在籍していたことでもそれが理解してもらえると思う。また、若トラと言われても今とあまり雰囲気の変わらない掛布雅之氏であったり、俊足の新人と言われていた割にはこれまた今と変わらない、あの川藤幸三氏、はたまた藤山寛美さんにソックリだと言われた岡田彰布氏…。亀山・新庄の両氏が活躍した時代と一部の例外を除いて、オッサンだらけの感のあるチームだけに今の状態は不思議ではなく、一種の伝統のように思える。
自分がオッサンになった今、そんな阪神タイガースだからこそ、より応援に力が入ってしまうのだが、少々ヘコんでしまうのは、その愛すべき”オッサン”集団の誰よりも自分の方が年上になって久しいことだ。しかしこれから先、たとえ孫の世代がプレイしていても、球団が無くならない限りボクはファンで居続けることだろう。
長きにわたった「阪神の暗黒時代」を知るファンは、ついつい自虐的になって「優勝しろ」という言葉が、とてもじゃないけど出てこない。ここは、ただただ「各選手の、今シーズンの健闘を祈る!」と言っておこう。