中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

’14 初釣り

2014-01-25 12:30:00 | 船釣り・釣行記
■初釣りは舞鶴から■

 いよいよ初釣り。今年も「メダイ食いたさ。」から、舞鶴沖でスタートした。
 お世話になる釣り船は、舞鶴地区では「ボクの信頼のおける船頭さん」の1人である船長が操る、滝ヶ浦遊船所属の日本海41だ。そして期待を込めて、舞鶴へと向かったのだが…。

●出船前の日本海41●


■空き家続き■

 出船が不能、または、危ぶまれる天候続きだったのが、奇跡的に落ち着いた日曜の朝、予定通りの出船となった。湾口を出ても波高は1.5mほどであり、釣りに支障が出る程ではないことにホッとしつつ、日本海41は更に沖へと進んでいった。
 今回は、不調の白石グリは始めから避け、冠島方面へと向かうことになった。そして、その道中の天然&人工漁礁で魚探の反応を見ながら「ここぞ!」というポイントを見つけ出し、そこで竿出しして攻めるという作戦だった。
 しか~し!である。ほとんどのポイントで魚影が全く無いのである。
 移動すること5~6回目の深場で、何やら薄い影を発見するのだが、投入した天秤ズボ仕掛は、そこでは不発。続いて冠島を挟んで東から西へ移動をしたのだが、その方面でもほとんどが空き家という始末だった。


■低活性■

 移動することさらに数回目、ようやく魚影を発見したのだが、ここも、モヤモヤとした感じで頼りないモノだった。それでもないよりはマシと、投入を開始する。ここも深場の水深100ラインなので、ここでも天秤ズボ仕掛を使用した。

 仕掛けを打ち返すこと数回目、「竿先に変化があったような気がした」程度のアタリを拾って、30cmほどのアジをゲットする。しかし、食ってウマイ魚であっても、全くファイトをしてくれないため、ボクにとっては釣りの対象魚ではなく、あまり歓迎できない。
 続いて同じようなアタリが竿先を揺すった。そのままアジを釣っても仕方がないため、「サイズが大きすぎるような気もするが、そのままハリに掛かった状態にして、これを食う魚を狙ってやれ。」と思い、そのままの状態で海底まで仕掛けを落とし込んでみることにした。
 予想通りと言うべきか、数分待ったがアタリはなかった。仕方なく仕掛けを回収してみると…。てっきりアジだと思っていた、ハリ掛かりした魚は、何と40cm弱のマダイだったのだ。

●ヤル気のないマダイ●

 普通、小型と言っても、このクラスのマダイであれば、やり取りでの引きはともかくとして、アタリが出た時点で竿を曲げ込むほどの走りがあるのだが、食っても全く走らず、いわゆる居食いをしたためにこうなったのだろう。ということは、かなりの低活性だということになる。
 1月は、水温が下降し続ける時期であるのだが、それでも潮流によっては、下げ幅が少なく安定していたり、逆に小幅で上昇していることもあるのだが、実はこの日、その潮流までもが思わしくない状況だったのだ。と言うのも、若狭湾では西から来る=対馬暖流の影響を受ける潮流が本命とされているのだが、この日は福井県側の若狭湾奥からやって来る潮流だったのだ。そのため、下げ幅の大きい水温低下が起こっていたものと思われる。マダイにしてみれば寒くて動けずジッとしているところに流れてきたエサに、つい口を使ってしまっただけのようだ。その様子から、ここまでの各魚礁で魚探に写る反応がほとんどないことにも頷けてしまった。

 「アタリがある以上、少し粘った方がイイ」という判断から、同じポイントで時間を掛けて攻めてみたが、たまに上がってくるのはアジ程度で、そのうちにだんだんとエサ取りの動きが目立つようになってきた。
 「エサ取りが活発になるということは、水温が上がったのか?。」と肯定的に捉えてみたが、水深の半分を切っても取られっぱなしになり、お手上げとなった。
 そして、ついに、「どうにもならい」という判断から、大移動を行うことになった。


■そしてフカセ釣り■

 残り時間は3時間程度となっていたし、こちらサイドの「天秤ズボはもうウンザリ」という思いが伝わって、船長は大小ある冠島の水道部分に船を掛け、フカセ釣りのポジションを取ってくれた。
 今年初めてのフカセ釣りに期待を込めて投入を開始するが、ここでも逆潮のままであるため、イヤな予感が漂っていたことは否めなかった。
 最初に竿を曲げたのは同行していた兄だった。しかし、それは大サバとハマチのダブルでガックリ。
 続いてボクのリールもアタリらしき動きを始めたのだが、それはアラームをならしつつ急速回転するようなモノではなく、ヌルヌルッといった感じで「やや速くなったか?」という程度の動きだった。そしてその結果は「やはり」と言うべきか、ハマチだった。
 警戒心の薄いハマチクラスですらこんなアタリでは、期待できる状況ではないことは確かだったが、船長の「夕方に一発が来るかも?」という言葉に励まされて、その後も更に投入を続けていた。
 そして、気付けば日は傾き始め、赤く色づきつつある頃になって、ようやく、この日初めてアラームを鳴らすアタリをリールが捉えた。
 疾走する様子からしてハマチクラスとは違う動きをしているが、大きさはさほどではなさそうだった。しかし、逃せば後がない状況だけに、慎重にやり取りを開始する。
 じんわりと力を掛けて、ゆっくりと船縁まで引き寄せると正体が判明する。上バリにハマチがぶら下がり、下バリには待望のヒラマサが掛かっていたが、2本とも無事にゲットに成功し、ホッと胸を撫で下ろすことができた。

●62cmのヒラマサ●

 貴重な一匹をゲットした後は少しの期待が芽生えたが、続く魚はハマチのみ。やがてエサが全く取られなくなったのと時を同じくして、日没を迎え、尻すぼみのままで納竿となった。

●最後もハマチ●


■挑戦は続く■

 舞鶴沖でスタートした今年の釣り。かろうじて中型に足を突っ込んだばかりのサイズのヒラマサを釣ったものの、思うような展開ではなかった。
 釣行後に調べてみると、欲しかったメダイは、この釣行前に若狭湾では最も沖合にある浦島グリで一船で三桁前後の釣果があったし、釣行後には冠島周辺でもある程度の数が上がるようになっている。その狭間に、タイミングを合わせたかのように釣行するのは「いつもながらのパターン」としか言いようがないのだが、様々な状況から予想するに、ここ2年程続いた不漁気配はなさそうなことは幸いだ。今後は鍋の準備をして待つ家族のために、目の色を変えて狙ってゆくつもりだ。
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シニア割引でスキー

2014-01-18 12:30:00 | アウトドア・スポーツ
■齢50を過ぎて…■

 昨秋に50歳という大台に乗ったのだが、それまでと何かが変わることなく過ごしていた。しかしそれを実感する日が年を越えた途端に続いている。
前回紹介した映画の入場割引もそうだが、調べてみると、スキー場でも同様の割引が設定されているところが結構あるようだ。ただし、その適応範囲は一律ではなく、早いところでは50歳からだが、55歳から始まるところも多い。
  
 信州中野市近郊で正月を過ごすことの多い我が家では、滞在期間内に周囲にあるスキー場を訪問する日を数日あてている。これまでは、ほとんど志賀高原でその数日を過ごすことが多かったのだが、今回は1人で滑らなくてはならない日があったので、より市街地に近いスキー場を訪問することにした。向かった先は「よませ温泉スキー場」だったが、ここでは上述のシニア割引が50歳からなのが有り難い。

●シニア割引券●

 そして、その料金は一日券が何と¥2900というものだった。

■Mt. KOSHA■

 昔は単体で運営されていた、よませ温泉スキー場だが、近年のスノースポーツ衰退の影響を受け、他の、幾つかの地区と同じようにマックアースリゾート株会社による経営・運営に移行している。気付けばこのマックアースリゾートに吸収されたスキー場は、現在では28を数え、中小スキー場ばかりではなく、斑尾のように比較的大きなスキー場までもが傘下に入っている。
 経営基盤や運営基盤が共通になったことで、「隣同士であるにも関わらず、共通リフト券の発行がなく、行き来できなかったスキー場」が一体化されて、滑り応えのあるスキー場に変わるという嬉しい変化が生まれている。奥美濃の、「ダイナランド&高鷲スノーパーク」がその例だが、今回訪問した、よませ温泉スキー場も「Mt. KOSHA(マウント・コウシャ)」の名の下、付近の中小スキー場とを合わせた3+1の4スキー場が一帯運営されて魅力あるモノに変化している。+1とわざわざと書いたのは、木島平スキー場のみが実質村営のためだが、共通リフト券を購入すれば、ここもその適応範囲内になる。

●4スキー場のマップ●


■人気ムラのあるゲレンデ■

 よませ温泉スキー場を始め、やまびこの丘、X-JAM高井富士、木島平スキー場の各ゲレンデはトップまで行けるところもあれば、リフトを止めているところもあって運行状態はまちまちだった。

●北志賀竜王と、その後ろに志賀高原方面も見通せる●

 リフトにはクワッド・タイプもあるのだが、各スキー場に0~2本の合計4本であり、ほとんどが普通タイプのペアリフトだったので、そんなに輸送力の高いスキー場ではない。
 ゲレンデは空いていてガラガラの所も多いのだが、X-JAM高井富士の一部ゲレンデにスノーボーダーが集中していた。そこにパークなどがあって、それを滑りたい人が集中したのなら理解できるのだが、何もないところで集中があったり、逆にハーフパイプやジャンプ台があるにも関わらず、それを避けて滑る人が集中していたりで、とても不思議な光景だった。

●ガラガラのゲレンデ●

 各ゲレンデのリンクに不都合はなく、歩かなくてはならない箇所もなくて移動はスムーズだ。

●各スキー場間のリンク部分には表示がある●


■嬉しい計らいだが…■

 4つのスキー場を合わせると、結構ワイドにはなるのだが、この日の最長滑走コースは、よませ温泉の2000mだった。それよりも長い木島平は2800mほどあるのだが、最上部のリフトが止まっているので滑りようがなかった。従って全体に横に広く縦に短い印象があるスキー場群だった。
 シニア割引に加え、短めのコースとスピードの遅いリフトという組み合わせによって、嫌が上でも休憩時間が長くなるため、我々世代にはぴったりのコースだった。しかし、「他にも多種ある割引料金と入場者数」を考えると心配になる部分が多いことは確かだ。事実、このエリアに繋がっていた、もう一つの、牧の入スキー場は既に休止している。これではいくらマックアースリゾートグループが格安で経営権を手に入れたのだとしても、苦しくなるのが間近に迫っているようにも思えてくる。
 「スキー場便り」に関しては、寂しい話ばかりが目立つが、このエリアからその便りが届かぬことを祈るばかりだ。

 そして、翌日は結局、志賀高原に向かった。何と言っても日本有数の規模を誇るスキー場群だけに、Mt. KOSHAとは別格の滑り応えだったが、根が貧乏性なボクは、¥2000近くも高いリフト券の「元を取る」ために、ついつい膝が笑うまで滑り込んでしまった。(イイ年こいて何をやってんだか…。)

●結局、二日目は志賀高原で最終の5時まで過ごす●
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映画「永遠の0」を観て

2014-01-11 12:30:00 | その他
■待ちに待った公開■

 映画化すると知って以来、待ちに待ったが、2011年7月9日にこのブログでも紹介した「永遠の0」が映画化され、ついに昨年末の12月21日から公開が始まった。しかし実際に見に行くまでは少しの不安があったのも事実だった。と言うのも、これまで邦画には随分と裏切り続けられたうえ、TVから流れてくるCMは、ボクの最もキライな、映画を見た素人?を写して「泣けました」と言わせる的なモノが一部で流されていたからだ。
 もっとも、原作者の百田尚樹さん自身が、これまで映画化を幾度か打診されても脚本が納得できず、断り続けた経緯があっての今作品であることから、その流れから言えば問題はなさそうでもあったのだが…。
 そんな中、正月休みを利用して映画館に足を運んだ。そして今回は、「夫婦のいずれか片方が50歳に達した時点で、2人で¥2000」の割引が適応され、自身がシニアになった事実を突きつけられたことに少々へこみつつの入館になった。

●公式のパンフレット●


■近年で一番の邦画■

 映画の内容については記述を差し控えるが、高度なVFX技術が導入されていて、空母赤城から飛び立つ零戦の主翼が揚力を支えるために「クンッ」と、しなる所まで細かに再現されている。そんな技術の下支えもあって、本来は史実の上に乗ったフィクションであるはずのストーリーであるのに、妙にリアリティを感じてしまうため、冒頭の主人公=宮部久蔵が操る零戦が飛んでいる姿を見ただけで、ついついオジサンは涙腺を緩めてしまった。
 小説では高山という新聞記者の発言がどうにも堪らなかったが、その部分の表現を別に置き換えて語るところもあった。しかし、小説の内容全てを脚本にすると時間がいくらあっても足りず、その表現はそれでウマくまとめてあるようにも思え、現代人に対して語るには、そのアプローチの方が適切であるように思えた。
 また、愛情の表現に関しても、現代風の一般ウケする方法を使うのではなく、当時の人達がとったであろう、精一杯の表現に押さえられていて好感が持てる。そのことは全体にも反映されており、この時代を知らない人達のために説明臭い表現をすることもなく、史実に対する考証に基づいた=リアリズムを追求しているところが素晴らしかった。
 とは言え、大東亜戦争の3年8ヶ月の流れを掴んでいる人にのみしか理解できない部分があるように思える。従って、そこを埋めるために原作を読んでから見た方が、よりスムーズに鑑賞できるのかも知れない。
 いずれにせよ、ボク的には近年見た邦画の中で最高の作品であったことには間違いなく、原作者の百田尚樹さん自身が上映会で3回見て、3回とも大泣きしたことも理解できる内容だった。


■映画の背景■

 これまた、以前、このブログでも紹介した本に、神立尚紀氏著「祖父たちの零戦」というのがある。これは実際に零戦に搭乗して大東亜戦争を戦い抜いた人達の証言で綴られたモノであり、搭乗員の実際を知るには最適な手段の一つだと思う。現在では文庫化されているので、「永遠の0」の背景を知るために是非読んでもらいたい一冊だ。

●祖父たちの零戦●


 この本でも触れられているが、それまで民意に押されて戦っていた彼らが、終戦という一大局面を過ぎて以降に、”手のひらを返したような仕打ち”を受けたこと多くの人々に知って欲しいと思う。それは、特攻隊員を含む飛行機搭乗員やその他の将兵に対し、その生死に関わらず行われたのだ。
 その例を示すと、特攻で散った人達は終戦後、「軍国主義下の教育で洗脳された犠牲者」、悪くすると「無駄死に扱い」とされ、何らかの理由で出撃できずに生き残った特攻隊員は”特攻崩れ”と呼ばれて社会から差別されていたことが挙げられる。また、職業的に軍人の道を選んだ人の生き残りは公職から追放されたのはもちろんのこと、訴追されたわけでもないのに「あいつは戦犯だ。」と扱われて、一般の就職ですら制約を受けることもあったそうだ。
 上述の特攻崩れに関しては、行き場を失った彼らが愚連隊化したことが原因とする説もあるが、「梯子を外された」彼らの気持ちを考えると攻められない側面もあるから、「どっちが先かの卵論」と同じであろうし、「軍国主義下の教育による洗脳」についても、生き残った人の証言などを読み、その心理が解れば全く違った意見に変わってしまうだろう。(第一、国民学校教育は昭和16年からだから、大正~昭和のごく初期生まれが中心の彼らには教育の影響は少ないと思うのだが…。)
 そんな中、戦後まで生き残った彼らの多くは「敗戦の原因は自身にもある」として、言い訳せずに批判を受け入れて、多くを語らなかった。このことが特攻を含めた彼らの実態が今に正しく伝わらなかった原因の一つだと思うが、百田尚樹さんもそれに気付いたからこそ永遠の0を書いたのであろう。

 大東亜戦争の犠牲者数は日本人だけでも300万人、その内軍人は230~240万人と言われているだけに、振り返ってみれば、1~3世代前に犠牲となった人が現代人の中にも少なからず居るハズで、ボク自身も、ボクをかわいがってくれた祖母が、海軍機関学校出身の兄と、海軍兵学校出身の弟を亡くしている。その大叔父達が守りたかったのは、当時小学校高学年だったボクの母を含めた親兄弟や友人達であり、その人達が暮らす日本そのものだったハズだ。だから、言うまでもなく、ボクに流れる血は彼らが献身し、護ってくれたために流れているのだと理解している。
 「平和ボケだから」、「学校では教えないから」、なんて言い訳はヤメて、皆が自身の目ででこの時代を検証することを願いたい。かく言うボクも、ある程度の年齢になるまではそんなことを考えてはいなかったので、エラそうなことは言えないのだが…。
 とにかく小説及び映画「永遠の0」はそれを知るイイ切っ掛けになるハズだ。そしてそれを知った結果、イデオロギーの違いとは関係のない、別次元での、「人としての感謝の意」を戦った彼らに示して欲しい。そうすることが現代に生きる日本人としての努めだとボクは思う。
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