■城巡り■
今から20年前後も昔の話。当時30歳前後だったボクは、日本史、それもベタだが、戦国期の群雄割拠の時代に興味を持ち、関連書籍を読み漁っていた。歴史小説も随分と読んだが、どちらかと言えば、ノンフィクションの方が好きで、そこから得た知識を基に様々な思いを巡らせる日が続いていた。
本ばかりでなく、実際に行動し、見に行くことも怠らなかった。関ヶ原や川中島といった戦跡巡り、それに城巡りにもよく向かった。行った城を挙げると、大阪城、姫路城、彦根城、福知山城、岡山城、高知城、松山城、松江城、犬山城、名古屋城、岐阜城、松本城、そして熊本城。城跡では、安土城跡、竹田城跡あたりだ。
ただし、訪問した城の中には張りぼての鉄筋コンクリート製、中には資料や考証を無視し、勝手な想像で造った”あるハズのない城”もあるので、ガッカリすることもあった。逆に、江戸期、もしくはそれ以上昔から残る”本物の城”に出会う喜びはひとしおだった。
当時は今のようにゲームから広がった、ブームなんてモノはなく、全く整備がされていない城、特に城跡は荒れているところが殆どで、安土城なんかは伝羽柴秀吉邸前の大手?階段はまだ出土しておらず、獣道のような通路を上がった先に本丸跡に出るような状況だったから、昨今の状況には、それこそ隔世の感がある。
そんな、歴史オジサンだった昔を振り返りつつ、今夏の九州旅行中、約20年ぶりに立ち寄ったのが、豊臣秀吉の重臣、加藤清正が縄張り行い、初代城主となった肥後の名城”熊本城”だった。
■熊本城の今■
”歴女”という言葉の出現に代表されるよう、昨今のブーム(といっても大ブームという程ではないようだが…。)のお陰か、ここ熊本城でも築城400年を記念し、本丸御殿の他、各櫓等の再構築や整備が行われている。
まずは須戸口門(すどぐちもん)から場内に入る。
●須戸口門(すどぐちもん)●
場内に入って、まず驚くのは城壁の高さと急峻さだ。公式パンフレットの説明によると、最初に入った加藤家によって築かれた石垣の外側に、後に入った細川家が更に石垣を増設した結果が現在の状態なのだそうだ。加藤家の下で竣工し、改易があって細川家が入るまでに20数年しか経っていないが、技術の進歩で、より急峻に石垣を積み上げることができるようになったのだそうだ。
●加藤期、細川期で違う二様の石垣●
ご存じの方も多いとは思うが、織田信長が六角佐々木氏の観音寺城をヒントに、今の滋賀県下に暮らしていた穴太(あのう)衆を召し抱えて自身の安土城築城に”より高く、より急峻な石垣”を採り入れたのが、本格的な石垣城郭の最初とされている。
余談だが、安土城以前には天守閣という意匠もなかったというから、織田信長の偉大さを今更ながら我々は思い知らされるが、その壮大な安土城を見た各国の武将達が”憧れの信長流”を盛んに採り入れた結果が、全国に”石垣城郭&天守閣スタイル”が広がった経緯なのだそうだ。
少々、横道にそれたが、アナログな技術と伝承法しかなかった時代に、織田信長から50数年でこれだけの技術革新ができる日本人の実力を知り、我々の誇りを感じた瞬間だった。
●本丸御殿脇の高石垣●
●振り替えれば…●
攻め込めば瞬殺されそうな回廊部を抜けると、近年の”売り”である、闇り(くらがり)通路をくぐることになる。
●闇り通路●
この通路は、20年前の訪問時にはなかった部分で、石垣間をまたぐように渡された本丸御殿によってフタをされた状態になっており、昼間でも暗いためにこの名が付けられたようだ。
そこを抜けると、本丸の中心部に出る。そして、そこにそびえるのが大小二つの天守だ。とは言っても、これは昭和35年に鉄筋コンクリートで外観復元しただけの天守で、本物は西南戦争で西郷さんの軍に囲まれる3日前に、謎の出火で焼失しているのだ。
この手の天守閣は昭和6年竣工の大阪城を始めとして全国に多数存在するが、殆どが高度成長期に町のシンボルとして建てられたモノだ。しかし、その当時は「せめて外観だけでも…。」の思いだったのだろうが、今となってはこれはもったいないような気がする。現代であれば、資金、技術の面から考えても、往時の本物に近い状態を木造で再現することも可能だろうと思うし、特に熊本城の場合は写真や資料も多く残っているようだから、尚更可能性は高いようにも思える。しかし、一度建ってしまった状態からやり直すとなると、壊す手間を含めてかなり時間と費用が掛かるだろう。また、シンボルである天守が消えた期間をどうするのかが問題になってくるだろう。だから我慢するしかないのかも知れない。
●鉄筋コンクリート製の天守●
味気ない天守内部の階段を登ると、城の全景が見渡せる。恐らく多数の櫓等が消失していることだろうが、基本的な景色は往時と変わらないだろう。そして、右下部にある宇土櫓(うとやぐら)を見下ろすことができる。
その昔、加藤清正であり、豊臣政権下では現在で言うところの政敵のような存在だった熊本の近隣国であるところの宇土城主・小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原の戦いの後に滅んだ際に、宇土城の天守を移築させたという説が流布していたが、平成元年の調査で、始めからこの位置にあったことが判ったのだそうだ。
●宇土櫓●
店主を降りて、一旦本丸広場に戻り、今度は本丸御殿へと向かう。一般に勘違いされることが多いが、天守は権力を示す象徴であり、籠城の際に城主が籠もり、指揮を執る場所であって、実際の生活空間は別であることの方が多い。そしてここ熊本城では、本丸御殿がそれに当たる。
●本丸御殿内の大御台所●
今回の訪問で是非観ておきたかったのが、この本丸御殿内にある昭君の間(しょうくんのま)だった。
●昭君の間●
この部屋は、関ヶ原の戦い以降の徳川の世になっても、幼少期より仕えた豊臣家の恩を忘れない加藤清正が、秀吉の忘れ形見である秀頼を迎え入れようとして創った部屋であることが説として残っている。この説では、描かれているのは中国の故事に出てくる王昭君(おうしょうくん)という、女性で、「将軍の間」になぞらえて名付けたとされている。
●昭君の間(天井絵)●
●王昭君像●
本丸御殿を出た後は、創建時から残る重要文化財の源乃進櫓(げんのしんやぐら)、四間櫓(よんけんやぐら)十四間櫓(じゅうよんけんやぐら)、七間櫓(しちけんやぐら)、田子櫓(たごやぐら)を右手に見上げつつ須戸口門へと向かった。
●重要文化財の櫓群●
■今後も楽しみな熊本城■
これまで数多くの城を訪問してきたが、この熊本城ほど実戦向きの城は見たことがない。その証拠に、西南戦争勃発時、ここを舞台に攻防戦が繰り広げられたが、250年以上前に加藤清正が築き、決して強いとは言えなかった官軍側の鎮台兵が守るこの城を、精強と言われた西郷軍側が陥とすことは叶わなかった。それをうけ、西郷隆盛は「官軍に負けたのではなく清正公(せいしょうこう=加藤清正)に負けた。」と語ったそうだ。
この城はそんな加藤清正が描いた機能美と、後に入った、足利将軍家に仕え、教養、知識、茶道、全てを極めていたとされる藤孝(ふじたか=幽斉)、千利休の高弟だった忠興(ただおき)親子を祖に持つ細川家の美意識とが重なり合った、現存では規模、美しさではナンバーワンの城のように、ボクには思えた。
熊本城復元整備事業計画は今後も往時の姿を取り戻すべく続いてゆくということだ。ボク自身も何年かの後、再々訪問をすこととしよう。