中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

週末ごとの木枯らし

2017-11-25 12:30:00 | 旅行
 週末ごとに吹いてくる木枯らしのため、何処にも行けず。やったことと言えば、妻と紅葉見物に行ったくらい。

●釣りの役にはたたないけれど、姫路城城下にある大名庭園=好古園にて●


 明日は出られるのか?。

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ベタですが、秋の京都

2015-11-28 12:30:00 | 旅行
■紅葉を探して■

 いつもの釣りレポートではなく、紅葉散策を。

 「紅葉のピークは、京都観光のピーク」と言われるだけあって、混雑は必至。特に訪問時は連休中だけにそれを覚悟しつつも、京都市内へと車を走らせた。しかし、意外や意外、9時過ぎに京都南インターから出る際も、大した停滞に遭わず、すんなりと入洛できた。後は裏道を使って北上すると、目的地の大徳寺まで何のストレスもなくアプローチでき、境内内にある各塔頭(たっちゅう)の開門時間である10時前に余裕を持って到着することができた。

 今回の第一目的地は大徳寺。以前に一度訪問したが、今回は秋の特別公開があるとの情報を得ての訪問だった。ボクにとっての、ここの魅力は千利休の影響を色濃く受けた戦国武将達が建てた塔頭が建ち並ぶところだ。
 到着後は利休切腹の一因となる木像が置かれていた三門、「金毛閣(きんもうかく)」を右手に見ながら、境内へと入ってゆく。

●金毛閣●

 そして、お目当ての特別拝観先である、黄梅院(おうばいいん)へ。

●黄梅院(おうばいいん)●

 黄梅院に関わる著名人、これが凄い。最初に創建を命じた織田信長は勿論のこと、千利休とその師匠である武野紹鴎(たけのじょうおう)、豊臣秀吉、毛利家と小早川隆景、そして加藤清正等々と数多く、戦国時代のオールスター級が揃い踏みしているのだ。
 その内部も、わびさびの世界の中に正反対の権力者でしか成し得ないの豪華さがちらりと垣間見られ、まさしく武家好みの塔頭だった。

 続いて特別公開の一つである、興臨院(こうりんいん)

●興臨院(こうりんいん)●

を経て、豊臣秀吉が織田信長の菩提のために建立した総見院(そうけんいん)に向かう。

●総見院●

 この塔頭でのお目当ては、織田信長木像だった。生前に信長本人と何度も対面している仏師の康清が制作し、秀吉もその出来に納得したというのだから、現代に生きる者が織田信長に一番近付くことができるのが、この木像とのご対面だ。ボクもそれを楽しみにしていたのだが、眼光鋭く座するその様には威圧されるばかりだった。

 続いて、利休の高弟の一人である、細川忠興(ほそかわただおき)創建の、高桐院(こうとういん)へと向かう。ここは2回目の訪問になる。

●高桐院(こうとういん)●

 ここでのお目当ては本堂前庭だ。以前の訪問時は、雪が降り止んだ後のタイミングだったので、紅葉期を期待していた。しかし、今秋は11月に入っての冷え込みが弱く、「真っ赤」という状態ではなかったのは残念だった。

●本堂前庭●


 その後は、一乗寺まで進んで車を降り、曼殊院(まんしゅいん)、

●曼殊院●

詩仙堂(しせんどう)あたり歩いて廻った。しかしながら、各ガイド上では「見頃」と表されているにも関わらず、残念なことに何処にも「真っ赤」はなかった。

●詩仙堂●


 そんなこんなで、釣りをせず、妻と二人でブラブラと散策した週末だった。
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奈良見物

2015-04-25 12:30:00 | 旅行
 先週は釣りには行かず、奈良見物。

 春日大社の特別拝観



を終えた後、興福寺へ。



 ここでも再建中の中金堂が組まれた足場の上から見られる、特別公開?を体験する。



 手前のブースでは“鑓かんな”を使って削る実演をしており、



先人たちから受け継がれる、ワザを目の当たりにする。



 ここも薬師寺などと同じく、現代の建築法に照らし合わせて、基礎部分を鉄筋コンクリートにしているようだったが、例えばよくある再建城郭のように“まるでビル”にはならないように様々な工夫が凝らされているようであったので、完成後が楽しみだ。

 最後に宝物庫で、八部衆、特に有名な阿修羅像とご対面した。これらの像は脱乾漆像であることは息子の、日本史の試験を手伝って知ってはいたが、割れた五部浄像の断面を見ていて、今で言うところの樹脂&グラスファイバーの組み合わせと同じだということに改めて気付かされた。1300年近く前に“軽くて強い”工法を知っていた事に驚くと共に、先人達に敬意を表す瞬間だった。

 まぁ、先週は釣りには行けず、レポートはこんなところです。

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談山神社

2014-11-29 12:30:00 | 旅行
 今週も、記事を書く時間がないから簡単に。

 皆が日本史で教わった、かの「大化の改新」は、当時権勢を誇っていた、蘇我蝦夷(そがのえみし)と入鹿(いるか)親子が討たれるところが最大の山場だが、その前段では、中臣鎌子(なかとみのかまこ=後の藤原鎌足)と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)が、奈良の飛鳥の外れにある多武峰(とうのみね)の山中に登って談合を行っていたそうだ。そして、その経緯が談山神社の社号の起こりとされている。
 
 ともあれ、この神社は紅葉見物の場として日本有数とされているが、そのピーク時に参拝することが叶った。以下は写真で…。

●ここから本殿へ●


●中央が本尊の藤原鎌足●


●本殿前●


●討たれ、首が飛ぶ蘇我入鹿(江戸時代の絵巻物)●


●東宝庫あたりの紅葉●


●本殿の中枢●


●本殿から見下ろす紅葉●


●十三重塔あたりの紅葉~その1●


●十三重塔あたりの紅葉~その2●


 この記事を書いている時点では“散り初め”という状況だが、落ち葉になって敷き詰められたモミジもまた綺麗であり、そもそも上下で紅葉具合に差があって、全山が一様に葉を落とすわけではないので、これからまだ10日程は楽しめるのではないかと思う。「是非一度ご訪問を!。」

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金峯山寺

2014-11-15 12:30:00 | 旅行
■金峯山寺へ■

 世の中には「異形(いぎょう)」と言うか、「異様(いよう)」と言うか、「こんなの見たことない。」というモノがある。仏像にもそういう存在があって、「一度はこの目で確かめたい。」と思っていたのが、奈良県、吉野の金峯山寺(きんぷせんじ)本尊の、“金剛蔵王大権現(こんごうざおうだいごんげん)”だった。この像に関しては後で記すことにして、まずは金峯山寺の国宝の一つである、仁王門から。

 と言ってみたものの、現在は大修理の真っ最中であって殆どが覆いの中にあるため、正面からは手前の石段程度しか見えず、門下を通過する際に、作業用のベールが掛かった状態で、かろうじて阿形像(あぎょうぞう)と吽形像(うんぎょうぞう)の胸から上が見られる程度だった。

●完了までには、あと5年を要する●



●阿形像●


●吽形像●

 そして程なく、本堂前に出る。この本堂が、東大寺大仏殿に続く規模を誇る、国宝の蔵王堂(ざおうどう)だ。
 金峯山寺は7世紀前半の白鳳時代に役行者(えんのぎょうじゃ)がこの地で修行に入ったことが開祖とされている。だから、日本有数の古寺ではあるのだが、南北朝時代を始めとする戦乱や厄災に巻き込まれたために各堂の焼失が幾度かあり、現存の蔵王堂も豊臣期に再建されたモノだそうだ。

●本堂の蔵王堂●

 この蔵王堂に納められているのが、御本尊の“金剛蔵王大権現”を中心とした3体の仏像だ。

●パンフレットからの抜粋 1●

 この3体は普段は公開されない秘仏という扱いなのだが、日本各地にある、その秘仏の中でも最大の7m強という。その大きさから来る大迫力は当然として、その太さ、表情、それに体色全体が“青い”ということが加わって「圧巻」という他ない御本尊なのだ。
 かつては私もそうだったが、この御本尊は一見、“御不動様(おふどうさま)”にも見て取れるが、御不動様はインド由来であって、別物であり、この金剛蔵王大権現はは紛れもない日本独自の“仏像”なのだ。中心が「釈迦如来(しゃかにょらい)」、向かって左が「弥勒菩薩(みろくぼさつ)」、右が「千手観音菩薩(せんじゅかんのんぼさつ)」で、開祖の役行者が過去・現在・未来の三世にわたる衆生の救済を誓願したことによって出現したという。
 しかし、多くの人が「何故、お釈迦様がこんなお姿を…。」と思うだろうし、ボク自身もそう思っていた。その点を、案内の方に訪ねたところ、
 「修行中の、現れたお釈迦様達に、役行者様が『そのようなお優しい姿では、荒れたこの世を救済できないのでは?』と言ったところ、変化した。」という説明だった。

●パンフレットからの抜粋 2●

 不思議と言えば、もう一点ある。本堂と金剛蔵王大権現は、ほぼ同時期の作ということなのだが、方や本堂は国宝、方や金剛蔵王大権現は重要文化財ということで扱いが違うのだ。
 「もしや、後から青く塗ったのか?。」とも勘ぐってしまったが、「いつから青かったのか」という説明は見つけられなかったし、本当の理由は解らない。 

●パンフレットからの抜粋 3●

 何はともあれ、この特別開帳は11月末までなので、「見たい方は、お急ぎを。」


■門前町■

 古くから賑わう神社仏閣の門前には、参拝者をもてなす門前町が付随しているが、ここ金峯山寺にもそれがある。そして、その門前町の名物に“葛切り(くずきり)”がある。
 葛切りを振る舞う店は何軒もあるが、嘉永四年の創業で「葛の元祖」と呼ばれているのが、八十吉(やそきち)さんだ。

●八十吉●

 ここを訪れた理由は同行していた、妻の母が「40年前の味わいが忘れられない…。」と言い出したからであったが、馬鈴薯等の混ぜ物のない本当の、葛の味わいは、ボクにとってうも忘れられないモノになった。

●抹茶とのセット●


 吉野を後にしてからは、紅葉の始まっている、大台ヶ原方面に立ち寄ってみた。当日の紅葉は川上村あたりまで迫っており、見事なモノであった。

●川上村の紅葉●


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砂の美術館

2014-10-04 12:30:00 | 旅行
■鳥取へ■

 以前から、訪問をしようと機会をうかがっていた施設に、鳥取砂丘にある「砂の美術館」があった。存在を知ったのはかなり昔だが、行きそびれている内に、早、7期目となったいた。そして、ようやく念願が叶って、先日、訪問に至った。

 この美術館に展示されているのは、砂像と言われる、砂を水だけで練って突き固めた砂の塊から削り出して整形した像だ。その像を制作するのは世界各国から集まった「砂像彫刻家」と呼ばれる人達で、参加者の中には様々な受賞経歴を持つ人も多いようだ。


●入場ゲート●


●展示室右サイドの様子●

 会場は思った以上に大きく、砂像も巨大なモノがほとんどなので、会場に入った途端一目で圧倒される。

 素人のボクが解説するワケにはいかないので、ここから先は主な砂像の紹介のみで進めていこう。

●氷河に眠るマンモス●


●リューリク ~建国のヒーロー~●


●キリスト教の受容●


●タタールのくびき(モンゴル人支配の時代)●


●コサックの力●


●ピョートル大帝と西欧化●


●エカテリーナⅡ世とロマノフ王朝●


●クレムリンとワシリー大聖堂●


●ロシアイコン●


●ロシアの音楽 -チャイコフスキーとバレエ-●


●ロシアの文学 -トルストイと作品「戦争と平和」-●


●ナポレオンの撤退●


●シベリア鉄道と極東の都ウラジオストク●


●ソビエト連邦時代●


●ロシアの科学技術 -宇宙開発-●


●最奥部の様子●


●ロシアの民話 -大きなかぶ-●


●「岐路に立つ勇士」 イリヤー・ムーロメッツの三つの旅より●


 巨大な砂像自体にも驚かされるが、細かく彫られた表情は更に驚かされ、見る物を睨み付けてくる。 

●よく言うところの「八方睨み」に思える●


●古代人の悶絶する表情●


 以前に比べると、無料の高速道路が伸びた分だけ近くなった鳥取。「行く価値のある施設」が増えて更に魅力が増している。来年は砂像彫刻家達が「どんなテーマで挑むのか?」が、今から楽しみな、砂の美術館だった。



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国宝巡り

2014-09-20 12:30:00 | 旅行
■寺巡りの日々■

 敬老の日がらみの連休は国宝の仏像を訪ねての、日帰り単発訪問をする日々だった。
 特に美術の素養もないボクなので、仏像に相対しても「曲線美がどうこう」であるとか、「細工の具合がどうこう」とか、そんなことにはあまり興味が沸いてこない。専らそれら仏像の制作、あるいは寺院そのものを建立した経緯や、仏師その他の制作者や庭園の造営者といった人々が、「そこに如何なる理由で関わり、思いを込めたか?」ということに興味がある。言わば、背景の人間ドラマを想像することが好きなのだ。

■浄土寺■

 まずは、初日にお兵庫県小野市にある浄土寺(じょうどじ)に、国宝の浄土堂とその中にある、阿弥陀三尊立像を訪ねた。

●整備された浄土寺の門前●

 この寺の阿弥陀三尊立像は1195年の開眼というから、時代は鎌倉時代のごく初期というになる。とすれば、建立の開始は平安時代の末期だろうから、この頃に日本に暮らす人々の心理には「末法思想(まっぽうしそう)」というモノが働いていたから、その影響を受けていそうだ。
 お釈迦様の教えと正しい行い・行いによる悟りの、3つが揃う時代から千年(五百年という説もあり)が過ぎると、悟りがなくなり、次の千年で正しい行いもなくなっていくという仏教上の思想が、その末法思想で、平安末期の1052年が、それが始まる時期にあたると考えられていたそうだ。
 丁度、源氏、平氏の戦いを始めとする、内乱がが盛んなりし頃と重なり、ついには平 重衡(たいら の しげひら)による南都焼討によって東大寺大仏や興福寺が焼失するに至ったため、人々はこのような現実から救いを求めるようになり、それが浄土信仰が広まる背景となったそうだ。
 浄土とは、仏教世界では「西方にある、清浄で清涼な仏の国」であり、その象徴が阿弥陀如来ということになる。そして、それを具現化したモノの一つが、この浄土寺にある浄土堂だ。

●浄土堂●

 この浄土堂は、境内の西にあり、夕日が射す頃になると、光背側の明かり採り窓から入った光が一旦床に反射し、それが天井に当たって阿弥陀三尊立像の上方から降り注ぐことで、あたかも西方浄土から阿弥陀如来様が脇侍(きょうじ)を伴って、お迎えに来られたかのような演出が施されている。
 案内書では、春分、秋分の日の頃の、日暮れ時が最も綺麗だと解説されているが、9/14の訪問時には、午後4時頃がピークだったようで、日暮れ時といっても、日没直前ではないから、訪問時には注意が必要に思う。
 ボクが訪問したのは4時20分頃だったため、ややピークを過ぎていたが、それでも光が降り注ぐ様子が見てとれたことは幸いだった。それにも増して驚かされたのは、国宝の仏像でありながら、参拝者との間に柵のような隔てるモノは一切なく、触れることがない限りにおいて、直近で見ることが許されていることだった。

●阿弥陀三尊立像(パンフレットより)●


■薬師寺へ■

 翌日は「薬師如来様が見たい」という、妻の要望に応えて、奈良市にある薬師寺を訪ねた。

●薬師寺の境内●

 薬師寺では、昨今のニュースでも採り上げられているように、東塔の解体修理が行われているために、全景が見られないせいか、参拝者もまばらであった。

●修理中の東塔●

 薬師寺は、天武天皇の発願であるところの、皇后の病気平癒のために建立が開始された。時代は白鳳時代と呼ばれる680年のことで、造営途中で皇后の病気が治癒したが、今度は逆に天武天皇が崩御されるに至る。次代の持統天皇の時代になって金堂にある薬師三尊が完成したと推測されているそうだが、その持統天皇も途中で病気になり、その平癒のために、この薬師寺で貴族や官僚達による仏像制作が行われていたそうだ。
 薬師如来信仰の基になる薬師経は、12の大願と九種横死(くしゅおうし)という「ロクでもない死に方」について説いている。信仰によって大願を得ることと、九種横死から逃れることを願い、それを具現化したのがこれほどまでの大寺院の造営であることから、現代人のそれと比べれば遙かに大きい当時の人々の病と死にに対する恐れというモノを窺い知ることができる。

 伽藍の南にある南門で拝観料を支払い、中門をくぐると正面に金堂がある。うち広げられた扉から本尊の薬師三尊が一挙に肉眼で見渡せ、圧巻だが、残念ながら光線の都合で三尊を一挙に写すことはできない。そこで、一体ずつ写真に納めた後、堂内へと入る。(堂内では撮影禁止)

  
●月光菩薩(がっこうぼさつ)・315.3㎝、約3000kg●


●日光菩薩(にっこうぼさつ)・317.3㎝、約3000kg●


●薬師如来・254.7㎝、約12000kg(台座込みの重量)●

 現代に残る薬師寺は、移転した後の位置にあり、金堂内の薬師三尊も寺院の移転と共に移転したのか、移転した後に制作されたのかは定かではないそうだが、三尊が完成したと推測されている時期から10数年しか経ていないので、時代的には大差がないということだそうだ。
 柵こそあるものの、この薬師寺も国宝でありながら至近距離で見られることは嬉しい限りだったが、何よりも驚いたのが、本尊下の台座(国宝)に彫られた(鋳ぬかれた?)、シルクロード経由であろう、諸物だった。上段にあるギリシャ到来の葡萄唐草文様(ぶどうからくさもんよう)に始まって、その下にはペルシャ到来の蓮華文様(れんげもんよう)があり、4面の中央には、インドから伝わった力神(蕃人「ばんじん」)の裸像が彫られている。さらに最下段中央には、中国の四方四神=東の青龍(せいりゅう)、南の朱雀(しゅじゃく)、西の白虎(びゃっこ)、北の玄武(げんぶ)が刻られているのだ。現代人であっても、殆どの場合で写真や資料でしか得られない情報を、この時代の人々が知り得たということに驚きを感じた瞬間だった。

 続いて、金堂奥にある大講堂に入り、弥勒三尊像を拝観する。しかしながら、この三尊は何故か重要文化財とのこと。その違いは何処にあるのかは素人のボクには理解できなかったが、この三尊は何度か名前も変わっており、江戸時代には阿弥陀三尊として祀られていたそうであるし、制作年や制作場所を含めて謎が多いのだそうだ。そのせいか、心なしか金堂の薬師三尊とは扱いも違うように思えた。

 伽藍の東には東院堂があり、ここには聖観世音菩薩像(せいかんぜおんぼさつぞう)が祀られている。この像も薬師三尊と同時期の白鳳時代の制作ということで、作りは大変似通っているが、これまた国宝であるにも関わらず、至近距離で見ることができる。

●聖観世音菩薩像●


 薬師三尊にしても、聖観世音菩薩にしても、現代の我々は金メッキがはげ落ちて”枯れた銅の味わいが漂う”黒光りした状態で見るしかないのだが、往時の”金ピカ”であれば、どんな様子だったのかを想像しつつ、大寺院を造営するまでに皇后の病気平癒を願った天武天皇の愛と、その時代に生きた皆が恐れた病や死について思いを巡らせて薬師寺を後にした。
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20年ぶりの熊本城

2014-08-23 12:30:00 | 旅行
■城巡り■

 今から20年前後も昔の話。当時30歳前後だったボクは、日本史、それもベタだが、戦国期の群雄割拠の時代に興味を持ち、関連書籍を読み漁っていた。歴史小説も随分と読んだが、どちらかと言えば、ノンフィクションの方が好きで、そこから得た知識を基に様々な思いを巡らせる日が続いていた。
 本ばかりでなく、実際に行動し、見に行くことも怠らなかった。関ヶ原や川中島といった戦跡巡り、それに城巡りにもよく向かった。行った城を挙げると、大阪城、姫路城、彦根城、福知山城、岡山城、高知城、松山城、松江城、犬山城、名古屋城、岐阜城、松本城、そして熊本城。城跡では、安土城跡、竹田城跡あたりだ。
 ただし、訪問した城の中には張りぼての鉄筋コンクリート製、中には資料や考証を無視し、勝手な想像で造った”あるハズのない城”もあるので、ガッカリすることもあった。逆に、江戸期、もしくはそれ以上昔から残る”本物の城”に出会う喜びはひとしおだった。
 当時は今のようにゲームから広がった、ブームなんてモノはなく、全く整備がされていない城、特に城跡は荒れているところが殆どで、安土城なんかは伝羽柴秀吉邸前の大手?階段はまだ出土しておらず、獣道のような通路を上がった先に本丸跡に出るような状況だったから、昨今の状況には、それこそ隔世の感がある。

 そんな、歴史オジサンだった昔を振り返りつつ、今夏の九州旅行中、約20年ぶりに立ち寄ったのが、豊臣秀吉の重臣、加藤清正が縄張り行い、初代城主となった肥後の名城”熊本城”だった。

■熊本城の今■

 ”歴女”という言葉の出現に代表されるよう、昨今のブーム(といっても大ブームという程ではないようだが…。)のお陰か、ここ熊本城でも築城400年を記念し、本丸御殿の他、各櫓等の再構築や整備が行われている。
 まずは須戸口門(すどぐちもん)から場内に入る。

●須戸口門(すどぐちもん)●


 場内に入って、まず驚くのは城壁の高さと急峻さだ。公式パンフレットの説明によると、最初に入った加藤家によって築かれた石垣の外側に、後に入った細川家が更に石垣を増設した結果が現在の状態なのだそうだ。加藤家の下で竣工し、改易があって細川家が入るまでに20数年しか経っていないが、技術の進歩で、より急峻に石垣を積み上げることができるようになったのだそうだ。

●加藤期、細川期で違う二様の石垣●


 ご存じの方も多いとは思うが、織田信長が六角佐々木氏の観音寺城をヒントに、今の滋賀県下に暮らしていた穴太(あのう)衆を召し抱えて自身の安土城築城に”より高く、より急峻な石垣”を採り入れたのが、本格的な石垣城郭の最初とされている。
 余談だが、安土城以前には天守閣という意匠もなかったというから、織田信長の偉大さを今更ながら我々は思い知らされるが、その壮大な安土城を見た各国の武将達が”憧れの信長流”を盛んに採り入れた結果が、全国に”石垣城郭&天守閣スタイル”が広がった経緯なのだそうだ。

 少々、横道にそれたが、アナログな技術と伝承法しかなかった時代に、織田信長から50数年でこれだけの技術革新ができる日本人の実力を知り、我々の誇りを感じた瞬間だった。

●本丸御殿脇の高石垣●


●振り替えれば…●


 攻め込めば瞬殺されそうな回廊部を抜けると、近年の”売り”である、闇り(くらがり)通路をくぐることになる。

●闇り通路●


 この通路は、20年前の訪問時にはなかった部分で、石垣間をまたぐように渡された本丸御殿によってフタをされた状態になっており、昼間でも暗いためにこの名が付けられたようだ。
 そこを抜けると、本丸の中心部に出る。そして、そこにそびえるのが大小二つの天守だ。とは言っても、これは昭和35年に鉄筋コンクリートで外観復元しただけの天守で、本物は西南戦争で西郷さんの軍に囲まれる3日前に、謎の出火で焼失しているのだ。
 この手の天守閣は昭和6年竣工の大阪城を始めとして全国に多数存在するが、殆どが高度成長期に町のシンボルとして建てられたモノだ。しかし、その当時は「せめて外観だけでも…。」の思いだったのだろうが、今となってはこれはもったいないような気がする。現代であれば、資金、技術の面から考えても、往時の本物に近い状態を木造で再現することも可能だろうと思うし、特に熊本城の場合は写真や資料も多く残っているようだから、尚更可能性は高いようにも思える。しかし、一度建ってしまった状態からやり直すとなると、壊す手間を含めてかなり時間と費用が掛かるだろう。また、シンボルである天守が消えた期間をどうするのかが問題になってくるだろう。だから我慢するしかないのかも知れない。

●鉄筋コンクリート製の天守●


 味気ない天守内部の階段を登ると、城の全景が見渡せる。恐らく多数の櫓等が消失していることだろうが、基本的な景色は往時と変わらないだろう。そして、右下部にある宇土櫓(うとやぐら)を見下ろすことができる。
 その昔、加藤清正であり、豊臣政権下では現在で言うところの政敵のような存在だった熊本の近隣国であるところの宇土城主・小西行長(こにしゆきなが)が関ヶ原の戦いの後に滅んだ際に、宇土城の天守を移築させたという説が流布していたが、平成元年の調査で、始めからこの位置にあったことが判ったのだそうだ。

●宇土櫓●


 店主を降りて、一旦本丸広場に戻り、今度は本丸御殿へと向かう。一般に勘違いされることが多いが、天守は権力を示す象徴であり、籠城の際に城主が籠もり、指揮を執る場所であって、実際の生活空間は別であることの方が多い。そしてここ熊本城では、本丸御殿がそれに当たる。

●本丸御殿内の大御台所●


 今回の訪問で是非観ておきたかったのが、この本丸御殿内にある昭君の間(しょうくんのま)だった。

 
●昭君の間●


 この部屋は、関ヶ原の戦い以降の徳川の世になっても、幼少期より仕えた豊臣家の恩を忘れない加藤清正が、秀吉の忘れ形見である秀頼を迎え入れようとして創った部屋であることが説として残っている。この説では、描かれているのは中国の故事に出てくる王昭君(おうしょうくん)という、女性で、「将軍の間」になぞらえて名付けたとされている。

●昭君の間(天井絵)●


●王昭君像●


 本丸御殿を出た後は、創建時から残る重要文化財の源乃進櫓(げんのしんやぐら)、四間櫓(よんけんやぐら)十四間櫓(じゅうよんけんやぐら)、七間櫓(しちけんやぐら)、田子櫓(たごやぐら)を右手に見上げつつ須戸口門へと向かった。

●重要文化財の櫓群●



■今後も楽しみな熊本城■

 これまで数多くの城を訪問してきたが、この熊本城ほど実戦向きの城は見たことがない。その証拠に、西南戦争勃発時、ここを舞台に攻防戦が繰り広げられたが、250年以上前に加藤清正が築き、決して強いとは言えなかった官軍側の鎮台兵が守るこの城を、精強と言われた西郷軍側が陥とすことは叶わなかった。それをうけ、西郷隆盛は「官軍に負けたのではなく清正公(せいしょうこう=加藤清正)に負けた。」と語ったそうだ。
 この城はそんな加藤清正が描いた機能美と、後に入った、足利将軍家に仕え、教養、知識、茶道、全てを極めていたとされる藤孝(ふじたか=幽斉)、千利休の高弟だった忠興(ただおき)親子を祖に持つ細川家の美意識とが重なり合った、現存では規模、美しさではナンバーワンの城のように、ボクには思えた。

 熊本城復元整備事業計画は今後も往時の姿を取り戻すべく続いてゆくということだ。ボク自身も何年かの後、再々訪問をすこととしよう。
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冬の丹波路

2014-02-22 12:30:00 | 旅行
■丹波路へ■

 秋の紅葉シーズンの訪問で、その奥の深さを感じた丹波路。ボクの住む西宮市内からは1時間程の距離にあって、日帰り小旅行には丁度良い。そんな丹波路へ友人夫婦と共に向かった。

 同じ丹波路地方でも京都府内側にある、丹波ワインを訪問し、

●以前にも紹介した、丹波ワインのワイナリー●

 ワインを選んだ後は、兵庫県側に入り、柏原(かいばら)町へと向かう。

■鹿料理専門店■

 柏原町に向かったのは、鹿肉料理専門店の無鹿(むじか)さんで昼食をとるためだ。

●鹿肉料理専門店の無鹿●

 ここの”売り”は、もちろん丹波産の天然鹿肉を使用していることだが、野菜ソムリエの資格を持つオーナーシェフが創作する、四季それぞれの野菜を巧みに使った前菜類もすばらしい出来栄えだった。そして我々はそれらを築後約100年を経た町屋の中で味わうわけだが、その歴史が醸し出す独特の雰囲気が味わいに加わる。

●9品の前菜●

 ボク達全員が「お昼のコース」を頼んだのだが、この前菜にメインの鹿肉料理(2タイプの内、1つを選ぶ)とスープ、コーヒー、デザートまでが付いた基本の状態で¥1680。イメージからすると、もっと高くつくことを予想していただけに、驚きの価格設定だった。
 メインの鹿肉料理は、赤ワインソースを使った料理を選んだが、その味わいはクセがなく、柔らかく、牛とは全く違うあっさりとしつつも奥深い味わいはクセになる程のウマさだった。

●案内のパンフレット●


 オーナーシェフは、どうやらCWニコル氏に傾倒しているようで、サインや関連書籍がレジカウンターの周囲に並べられていた。その中にあって興味を惹いたのは「鹿肉食のすすめ」という本だった。帰宅後に、その内容について調べてみたのだが、ナチュラリストとしても名高い氏は、増え過ぎた鹿による農業被害や森の荒廃を訴え、積極的に食することを強く勧めているそうだ。それは、森に暮らし、森を知る立場からの発言であり、その意味では「陸の上から『非人道的だ!』と反捕鯨を叫ぶ、どこかの人」とは違う重みがその言葉にあると思った。(加えて言うなら、CWニコル氏は、日本の食文化・漁業文化・生活文化を守る必要性から、信頼できるデータに基づくのであれば、捕鯨については賛成の立場をとっている。)


■丹波焼・立杭焼■

 柏原町を後にして、一旦篠山城下に立ち寄った後は、そこから南西方向にある今田(こんだ)町へと向かう。ここは、焼き物の町だ。ここで生産される陶器は丹波焼(たんばやき)、立杭焼(たちくいやき)、あるいは丹波立杭焼と呼ばれ、瀬戸、常滑、信楽、備前、越前と並ぶ日本六古窯の一つとされている。
 発祥は平安末期から鎌倉時代とされているが、江戸初期に登り窯が導入されたことが今日の発展の礎となっているそうだ。
 現在では60軒近くの工房があるそうで、それぞれがそれぞれの作風で、日々生産している。ここで生産される陶器は目ん玉が飛び出すような高級品もあるが、主体は日常雑器のため、我々庶民が懐具合を気にせず購入できる陶器もギャラリーに多く並んでいる。

●ガイドマップ●

 当日は訪問した時間帯が夕刻となってしまったために時間が少なく、あらかじめガイドブックでピックアップした工房のみを廻った。
 まず最初は大雅窯(たいががま)という工房だった。

●大雅窯●

 ここには、色彩が豊富でモダンアートとの融合した作風というべきか、カラフルな器類が並んでいた。

 続いて向かったのが丹窓窯(たんそうがま)という工房で、ここは古くから英国の工房と人物の往来があり、それぞれの技法が影響し合って今に至るのだそうだ。特にスリップウェアーという技法が有名なのだそうだ。

●丹窓窯●

 そして最後に訪問したのが、丹波まるいち窯という工房だった。

●丹波まるいち窯●

 ここには、ド素人のボクにも解りやすい作品が多く、今回の訪問では一番お気に入りとなった工房だ。また、手頃な価格帯での展開も多く、その意味でも嬉しい限りだった。

●ギャラリー内●


 そして、妻と吟味し、購入したのは

●茶碗(丹窓窯)●


●小鉢(丹窓窯)●


●茶碗(丹波まるいち窯)●

 の、三点だった。

 今回は時間が足らず、数件しか訪問できなかったが、上述したように60軒近くもの工房がこの界隈には建ち並ぶため、一日掛けてもとても回り切れるモノではない。しかし、「ウマく考えた」と思うのが、この地区の東にある「立杭陶の郷(たちくいすえのさと)」という施設で、ここでは、丹波・立ち杭焼の歴史等が学べるうえ、「窯元横丁」という名の展示ブース群があって、そこには54軒もの工房が出展しているから、便利なことこの上ない。また、ここで予め好きな作風をセレクトしておいた後に効率良く工房を訪問するという方法もとれる。そして、次回はボクも、是非とも入館してから工房巡りに向かおうと思っている。


 かく語ってきたが、ボクに芸術的素養があるワケでもなく、元より陶器類に興味があったワケでもなかった。しかし、そんなボクでも見ているうちに楽しくなってくるし、「これで食ったら、飯がウマそう。」なんて思えてくるから不思議だ。
 自宅から近い距離でありながらも知らないことが多く、まだまだ奥の深い丹波路。次回の訪問が楽しみな今日この頃だ。
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初冬の丹波路

2013-12-14 12:30:00 | 旅行
■丹波路へ■

 今秋は、荒天で釣行やハイキングの予定がずれ込んだため、紅葉見物に行く機会が極端に減っていた。そんな中、ようやく巡ってきたタイミングを生かそうと、とにかく丹波路に走ってみることにした。しかし、紅葉期は既に終盤を迎えていることがネット情報で流れていたことが気に掛かっていたのだが…。

■岩瀧寺■

 紅葉のピークが過ぎていたとしても、寺域のレイアウトの面白さから、「見る物多し」と判断していた寺の一つが岩瀧寺(がんりゅうじ)という、兵庫県の丹波市(氷上町)の尼寺だった。
 岩瀧寺は弘仁年間(809~823)に、嵯峨天皇が弘法大師に命じて、七堂伽藍を建てさせたのが開創といわれているらしいが、天正時代の兵火によって資料がほとんど残っていないため、定かなことは判らないというこらしい。
 思えば丹波地方には”天正時代の兵火”で焼失した寺が多くある。勿論この時代は織田信長が天下統一を目指していた頃であり、その命を受けた方面軍司令官であるところの明智光秀が丹波平定に向けてこの地で激しい戦を繰り広げていた。寺院と言っても僧兵を抱え、実質”小城”として使用していた時期があったように、有事には砦として使えるので、いざ戦となれば、その地の支配者が抱える将兵が立て籠もることが多くなる。従って焼き払い等の苛烈な攻めが焼失の経緯なのだろう。しかし、その連続は守旧的な部分が性格にあったといわれる明智光秀にとって精神的に堪えるところがあったのだろうか?と思われ、それが後の謀反の原因の一部にあったのであろうと、勝手な想像をしている。

 
●岩瀧寺周辺の木々●

 訪問当日は紅葉のピークを過ぎいたことに加え、夕刻に近い時間帯だったせいか、駐車場に駐まる車もほとんど無く、閑散とした状態だった。
 まずは車を降り、右手方向にある参道を登って山門へと向かう。

●山門へ続く参道●

 この山門は大正天皇の即位を記念して創られたということで、大正門と呼ばれるそうだが、境内全体のイメージからすると、もっと古いようにも感じられる。

●本堂まわり●

 本堂には観音菩薩や愛染明王が祀られているそうだが、本尊は後述する別の場所にある。
 そして、境内に派手さはなく、ひっそりとした空気が流れている。

●残り物のモミジ●

 本堂脇を抜けると、四国八十八箇所の本尊が石仏化され、並べられているところに出る。これは、そこを回れば「八十八箇所を巡礼したのと同じ御利益が得られる」という意味で並べられているのだが、こういった発想は我が西宮市の神呪寺前にもある。ただし、神呪寺のモノは交通手段が不十分だった江戸期に作られたのに対して、ここのモノは新しく作られたようだから、少し意味合いが変わってしまうと思う。

●四国八十八箇所、それぞれの本尊●

 「ミニ四国八十八箇所巡り」を過ぎると、渓谷沿いの道へと変化する。ここで、ふとまわりの山々を見渡すと、岩肌が大きく見え、このあたりがいわゆる、岩山であることを知る。

●渓谷沿いを歩く●

 そして程なく独鈷の滝(どっこのたき)に到達する。この滝は落差20mもあるので、そこそこな壮観だ。

●独鈷の滝●

 独鈷の滝の横には一直線の石段があり、それを登り切ったところにあるのが、本尊の不動明王が祀られている拝殿だ。
 この不動明王は、弘法大師作と言われているが、その出来具合と、保存には適さない岩窟内に納められているという扱い具合の様子から想像するに「…」となってしまう。


●拝殿●


 岩瀧寺は古来から日本人の心に受け継がれている自然崇拝からくる「山を神聖視する山岳信仰」を支える要素、つまり、渓谷と森、岩窟や滝、そして岩肌が見え隠れする山容と言ったモノが揃い、ここに来ると日本人であれば、何だかピリッとする感覚を味わうことになると思う、そんな寺だった。


■高山寺■

 高山寺と書いて「こうさんじ」と読むらしい。前々回にこのブログで書いた京都高雄の高山寺とは関係はない。この寺は、平地を挟んで岩瀧寺と向かいあっている。だから移動にほとんど時間は掛からない。
 寺自体の創建は古く、天平宝寺元年(757年)ということらしいが、現在の境内は昭和30年代に移築されたモノだそうだ。しかし、そう聞かなくても”新しさ”を感じる部分が多く、実際に境内歩いてみれば、歴史の重みをあまり感じない。

●この寺の象徴である、楼門●

 
●楼門の天井部にある、龍の絵の新しい●

 しかし、新しいだけあって計算された部分もあって、楼門から本堂に続く通路脇には石灯籠が連なり、そこにはモミジが植えられており、紅葉期に”紅の参道”となるよう、レイアウトされている。

●参道から楼門を振り返る●

 しかし、当日はほとんどが散ってしまい、その面影すら感じることができなかった。
 唯一、本堂左側の斜面脇に紅葉する木々をようやく見つけ、しばしそこで盛期の姿を想像しつつ眺めているしかなかった。

●残り紅葉●


 そして気付けば、夕暮れが迫り、今年の紅葉鑑賞に幕が下りていた。
 
 丹波地方には紅葉の穴場が多く、京都の有名どころほどに混雑することが無いことが嬉しい。下調べの段階ではまだまだ沢山の寺院が候補に挙がっていて、その数から考えると、まだまだ行き尽くすには時間が掛かるようだ。来年、再来年と、紅葉期の楽しみが続きそうな丹波路だった。
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