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都月満夫の短編小説集2

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都月満夫の短編小説集

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「桜の花が咲いた夜」
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「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

夜鷹蕎麦(よたかそば)について考える

2009-11-23 14:48:08 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

ヨタカとはどんななのでしょう。

Yotaka2  夏鳥で九州以北に飛来する。巣はつくらず、直接地面に産卵する。抱卵、育雛期は昼間でも活動するが、普段は夜間に活動して、飛びながら昆虫類を捕る。翼は細長く、ゆっくりはばたき速く飛ぶ。木の枝にとまる時は枝に平行にとまる。道路わきから急に飛び出して驚くことがある。見た目の悪い鳥の代表とされる。

夜鷹は夜間に路傍で客を引き売春した私娼江戸語で、京都辻君大坂では惣嫁Photo (そうか)と呼んだ。夜そば売りが、いつごろから夜鷹そばと呼ばれるようになったかは明らかでない。

しかし、宝暦三年(1753年)写本の越智久為著『反古染(ほうぐぞめ)』に、「元文(173641年)のころより夜鷹蕎麦切、其後手打蕎麦切大平盛り、宝暦の頃風鈴蕎麦切品々出る」とあり、元文よりも古いことは確かである。

夜鷹そばの由来については諸説まちまちである。『守貞漫稿( もりさだまんこう )著者・喜田川守貞(きたがわ もりさだ)成立年 天保八年(1837年)‐嘉永六年(1853年)。江戸時代の風俗、事物を説明した一種の百科事典』五編には、夜鷹そばは夜鷹(夜に路傍で売春した私娼の江戸語)がもっぱら夜売りそばを食べたからだ、と書いてある。

また、夜鷹には「二十四文」の異名があって24文が相場だったが、最下等の夜鷹一〇文で買えたことから「十文」と称し、それから転じて10文売りの夜そばを夜鷹そばといったとの説もある。

これに対し、落語家の三遊亭円朝は『月謡荻江一節(つきにうたうおぎえのひとふし) -荻江露友伝』のなかで、「夜鷹そばは夜鷹が食うからではない。お鷹匠の拳(こぶし)の冷えるのに手焙(てあぶ)りを供するため、享保年間(171636年)往来に出て手当てを致し、其簾(そのかど)を以て蕎麦屋甚兵衛という者が願って出て、お許しになったので夜鷹そばというがナ。夜お鷹匠の手を焙るお鷹そばというのだ」と語り、「お鷹そば」が転訛して夜鷹そばになったという説である。

Photo_7 貞享三年(1686年)刊、西鶴作『好色一代女』巻六、夜発(やほつ)の付声のくだりに、「定(さだ)まりの、十文にて各別のほり出しあり」、「上中下なしに十文に極まりしものなれば、よい程がそれぞれの身のそんなり」などと、器量のよしあしに関係なく、花代は10文が決まりだとある。したがって夜鷹そばの呼称は、享保年間よりさらに遡るようだ。

              

Photo_4風鈴そば」は宝暦(175164年)頃に江戸の街にあらわれた屋台そば。風鈴そばの特徴は屋台に風鈴を下げるだけでなく加薬物(薬味)を加え、きれいな容器を使って、それまでの「夜鷹そば」にあきたりない客層を狙ったことであろう。

その後、夜鷹そばも風鈴を下げるようになり、両者の区別がつかなくなってしまった。

なお、風鈴そばが売り声をあげなかったのは、当時夏の風鈴売りや秋の虫売りが、その物の音ズバリで売り歩くのを見習ったものだが、寛政(17891801年)頃には声を出して触れ売るようになった。

Photo_5 夜間に廓外から商いに来る「風鈴そば」のことを吉原言葉で、おかぐら(御神楽)といった。また、御神楽の獅子(四四)の洒落から、一六文のことをいう。

こうしてみると、江戸時代も初期の頃から江戸の庶民、特に力仕事を専門とした労働者たちに蕎麦が好まれていたことがわかる。その理由には一杯67文と安くて庶民が食べるのに手軽だったこと、それに加えて、江戸にやって来た労働者たちの地元が蕎麦の産地で食べ馴れていたことなどがあげられそうだ。

2_2 当初 蕎麦切りは、うどんや焼き餅などと一諸に菓子屋で売られていたが、浅草や材木町など労働者が集まる町に独立した専門店が出来、次第に江戸中に広がって行った事になる。

しかも、それらの店では押し売り掛け値なしで一杯67文の「けんどんうどん」や「けんどん飯」も売っていたが、食べ慣れた蕎麦の方に人気があったため蕎麦が主流になったのだろう。

そのため蕎麦切りは庶民の食べ物で、当時は武士や大店の商人には下品な食べ物と考えられていた。

昔々物語」には寛文4年(1664年)に「けんどん蕎麦切り」というものが出来て下々の者はこれを買って食べたが、貴人には食べる者がないという記述がある。 しかし、蕎麦は江戸の庶民に定着していった。時代劇に出てくる様な振り売りや辻売りの蕎麦売りがいつ頃に生まれたのかははっきりしない

だが、寛文元(1661)年10月に町奉行から次ぎの触書きが出されているから、この当時にはPhoto_2 すでにかなりの数の蕎麦の振り売りもいたものと思われる。

「一、 町中茶屋ならびに煮売りの者昼の内ばかり商売いたし、暮六(くれむつ)より堅く商売しまじきそうろうこと。

一、 町中にて夜中火鉢に火を入れ ならびにあんとうを灯し、煮売り持ち歩きそうろう者、向後、堅く売らせまじきそうろう。」

江戸の町には大火が多く、ちょっと前の明暦の大火では江戸の大半が消失したばかり。幕府も火の使用に対しては神経質になっていたのだろう、火の使用に対してはこのあともたびたび禁令が出されている。 しかし、実際に捕まった振り売りや辻売りの煮売り屋や蕎麦屋などなかったようだ。

その後の貞享(1686)年の触書には、特に 蕎麦切りの商売を指名している。

「一 うどん、蕎麦切りそのほか何によらず、火を持ち歩き商売しそうろう儀、一切 無用にすべくそうろう。居ながらの煮売り焼き売りはくるしからずそうろう。然れども火の元 随分念を入れ申すべくそうろう。 もし相背き、火を持ち歩き商売しそうろうは、当人は申しおよばず、家主まで急度(きっと)申しつくべきものなり。」

天和2年(1682年)にも江戸の大半を焼失する大火があったため、それが落ちついたところでこの触書きが出されたのだろう。

火を持ち歩く商売の代表がうどんや蕎麦切りというほど、夜鷹蕎麦と呼ばれた。 夜に振り売りして歩く数が多かったのかもしれない。

Photo_3Photo_6 店を持っての商売はいいが、火を持ち歩いた商売をする本人だけでなく家主にも仕置きがあるというからかなり厳しい内容だ。 この時にも捕らえられた者は居なかったようで、あくまで注意を促すのが触書きの目的だったのかも知れない。

その蕎麦の振り売り(夜に売り歩く夜鷹蕎麦)にも担ぐ荷によって種類があった。 市松模様の屋根のある屋台を担いで売り歩いた蕎麦売りがもっともポピュラ-なスタイルで荷台に風鈴を23個吊るしてチリンチリンと音で知らせたので風鈴蕎麦うりと呼ばれていた。 

ずっと歩きながら売る者と決まった辻に店を出して辻売りとがあるのは、現在の夜鳴きそば(自動車を屋台にしたラ-メン店)と同じだ。また、荷箱や籠にどんぶりや火鉢、蕎麦、汁、湯通しする水などを入れて担いだ振り売りもいた。それから蕎麦売りも簡単な行灯を備え、そこに二八(16文)や二六(12文)と蕎麦の値段を書いて売り歩いた。もちろん籠を担いだ蕎麦売りは風鈴蕎麦売りより安かったという。

守貞漫稿」は夜啼き蕎麦について概略こう書いている。

江戸は蕎麦を専らとして、うどんは兼として売っている程度だ。京坂では担ぎ売りを夜啼きうどんと言っているが、江戸では夜鷹蕎麦と呼んでいる。夜鷹は街娼の呼び名で、この蕎麦をよく食べるからこんな名がついた。江戸の夜鷹蕎麦売りの屋台には必ず風鈴が吊るしてある。京坂も天保以降風鈴は京都、大阪、江戸とも、うどんや蕎麦は一椀16文・・・」

江戸時代の初期の蕎麦の値段は盛り切りで一杯67が普通だった。それが江戸中期に8~12文。その後、もり、かけとも16文となり、この時代が長く続いた。 そのため夜鷹蕎麦の行灯にある二八は蕎麦の値段と思われるがちだが、本来は蕎麦とつなぎの割合の82を現したものだ

しかも、わかりやすい洒落で、二八(16文)二六(12文)と蕎麦の値段がわりの看板にしたのだ。

また、幕末に政情の不安で物価が上昇し一杯20文、24文と蕎麦も値上がりすると、看板の二八の文字も消えていったという。

したっけ。

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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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