団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖

都月満夫の短編小説集2

「羆霧(くまぎり)」
「容姿端麗」
「加奈子」
「知らない女」

都月満夫の短編小説集

「キヨシの帰省」
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

2009.11.21自宅庭霜柱

2009-11-21 14:50:58 | 写真

20091121_003 20091121_001 20091121_004 20091121_005

霜柱の上に、小さな緑を見つけました。植物の生命力に脱帽です。

ガンバレ・・・。

したっけ。

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廓の遊女の避妊について考える

2009-11-21 10:50:02 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

遊女の世界では、妊娠することがとされていました。

Photo_4遊女自身が絶頂に達すると妊娠しやすい、といわれていたことから、プロ精神に欠けるということでしょうか。当時は絶頂を迎えると妊娠しやすいと言われていたため「男に負けた」的な捉え方をしていたようです。

避妊の基本は、やはり洗浄でした。Photo_5

遊女用の浴室や便所には、必ず洗浄用の場所があったようです。

服用するものとして、「朔日丸(ついたちがん)」というものがありました。

これは一般にも服用されていた薬で、毎月朔日(ついたち)に服用すれば妊娠しないというものでした。長屋の総後架(そうこうか:共同便所)などに広告が貼られている絵が残っています。他にも生理不順にも効くと言われた避妊薬「天女丸」と言うのも人気があったようです。Photo_2

二月二日、臍下に灸をすえると妊娠しないという言い伝えがあり、廓ではこの日こぞって灸をすえたようです。

甲形(かぶとがた)今で言うコンドームですね。(水牛の角・鼈甲・革などで作った亀頭サック)、革製サック(外来)等と、詰め紙という女性が使用する、現代のペッサリーに近いものがありました。いずれも効果は期待できず気休めみたいなものだったようです。

甲形は笑い道具、つまり現代の大人のおもちゃとしての用途もありました。また、詰め紙というのは、御簾紙という薄い紙を丸め、つばで湿らせて挿入したもののようです。これは生理中、現代のタンポンのような用途でも使われました。 Photo

農村部などでは日常的に間引きが行われていたように、当時中絶に対してはそれほど否定的な状況ではなかったようです。

よほど売れっ子の高級遊女であれば出産も可能でしたが、妊娠した遊女のほとんどは中絶せざるを得ませんでした

また、遊女の産んだ子供は、女の子であれば禿(かむろ)として遊女屋で育てることもありましたが、たいていは養子に出されたようです。当時江戸には中条流というPhoto_3 堕胎専門のような医者がいて、妊娠した遊女はその医者によって堕胎させられました。ひどい場合には、遣り手が強引に堕胎させる場合もあったようです。

当然ダメージを負った女性の中には性病や容姿の悪さなどで追いやられた遊女達と一緒に羅生門河岸という最下級の場所に送られたとか。

江戸時代=昔=封建社会という背景も助長して「女性がとても虐げられている」というイメージが強いですが、実は吉原は江戸市中でも最も女性が強かった地域でもあるのです。

特に花魁ともなると容姿はもちろん最高級の教育を受けた教養の高い女性であり、「源氏物語は、全部読んでありんす」という、飛び抜けて優れた能力のある女性だったのです。今で言う、高学歴・高資格といったところでしょうか。

花魁はそれぞれの廓屋の看板であり、身分の高い武家階級や大金持ちの大店の主人を相手にするにふさわしい女性であったのです。

Photo_6 おまけにこれだけの才女ですから、誰でも床入りできるような「安い女じゃない」のです。なんと花魁が気に入らなかったら床入りを拒否することができたのです。

「いくら玉代積んでも、あちきはお前さんみたいな下衆(げす)なものとは、お断りで~ありんす。」とか言ったのでしょうか。

それだけに花魁目的で廓屋に通う男達は身だしなみに気を使いセンス良く知的におしゃれして花魁に気に入られようと必死だったのです。事実一生処女のまま生涯を閉じた花魁もいたということです。

したっけ。

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「とおりゃんせ」について考える

2009-11-20 14:57:50 | 童歌

とおりゃんせとおりゃんせ Photo_9

ここはどこ細道じゃ

天神様の細道じゃ

ちょっととおしてくだしゃんせ

ご用のないものとおしゃせぬ

この子の七つのお祝いに

お札をおさめにまいります

行きはよいよい帰りは怖い

怖いながらもとおりゃんせとおりゃん せ

Photo_10 江戸時代の川越の三芳野天神(郭町(くるわまち)、三芳野神社)が発祥地。

三芳野神社は、川越城の築城前からあったそうで、それを太田道灌父子が城を築くとき、敷地に取り込んだ

神社横の細道が歌の舞台になり、川越城内の子女の間で歌われていたものが城下に流れ、武士や僧侶、町人たちによって江戸へ運ばれ、やがて全国へ広まって行った。

三芳野神社の天神さまにお詣りをするときは、(城内になっても、お詣りの人は絶えなかった)、行くときはいいが、帰るときは携帯品を何度も城の警護のものに調べられたので、「帰りはこわい」となった。

これが正しければ、全然怖いお話ではありません。

Photo_12 が、この唄の歌詞の由来は色々あるのです。その一説が「子殺し」なのです。Photo_11 Photo_7

貧乏な農家では、増えすぎた子供に困っていました。そこで口減らしに子供を捨てに行くという唄、と言われています。

飢餓でひもじい思いで死ぬのなら、いっそう親の手で殺してしまおうとする親の子殺しの歌。神社には天神様がおり、迷うことなく天国に導いてくれる。最後の「行き」は「逝き」で、「帰り」は「甦り(黄泉帰り)の意味

また江戸時代に関所を通る時には「手形」が必要でした。お札は「手形」のことと言われています。

手形を持たないものは関所を通れないのですが、親が危篤という場合、頼み込んで通してもらいました。

が、帰りは手形がないので帰れないということで「行きはよいよい帰りは怖い」と唄われたとも。

その他諸説あり。Photo_14

1. 天神様に七五三のお参りに行くときの歌。関所を通る時の通関の厳しさを歌った歌とも言われる。貧しい農村では、七つのお祝いしか行われなかったようです

2. 7歳になった子供をお札と一緒に天神様に連れて行く人身御供の歌。天神様の領域には生贄である子供しか入れず、用の無い大人は入れなかった。だから、行きはよいよい帰りは怖い(行きはあっても、子供には帰りは無い)

3. 「細道」が「産道」で、「ご用」が「生きる意志」、「行き」が「産まれる」、「帰り」が「死ぬ」とい意味で、母親の腹から産まれる時の歌。 Photo_8Photo_13

4. また「水子」のことを唄っているとも言われています。

5. 「行きはよいよい 帰りはこわい=帰りは疲れる、しんどい(方言:北海道ではそういいます。)

したっけ。

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「ずいずいずっころばし」って何なのかについて考える―R15―

2009-11-19 12:37:34 | 童歌

ずいずいずっころばし 胡麻味噌ズイZuizui2

茶壺に追われて トッピンシャン

抜けたらドンドコショ

俵のねずみが米来ってチュウ

チュウ チュウ チュウ

おとさんがよんでも

おかさんがよんでも

行っこなーしよ

井戸のまわりで お茶わんかいたのだあれ

鬼決めや、指遊びに使われる。「お茶壺道中」についての唄だと言われているほか、「不純異性交遊」を表す戯歌とも言われている。

-その1

このわらべ歌は、江戸時代の茶壷道中(行列)を歌ったものだそうです。Photo

毎年、新茶の季節になると、将軍が飲むお茶を宇治まで受け取りに行く行列が、東海道を下ってきます。

そして、新茶を積み込んだのち、東海道、中仙道を江戸へ帰っていったのです。

Zuizui この茶壷は、「お茶壷様」と呼ばれ、籠に乗せられました。

その前後左右には、馬50頭とともに役人400人が付くという大層なものだったようです。

茶壷行列が通るとき、東海道の宿場町には、「家からゴミや煙を出してはならない!」などの、細かいお触れ出されていました。

農民や町人は、「下にいぃ、下にぃ」の声が聞こえると、土下座をして行列が通りすぎるのを待ちました。

子どもたちは、家から出るのを禁じられていました。Photo_2

そこで、「お茶壷様が来たら、戸をピシャンとしめ、ごま味噌でもなめてじっとしていよう。

お茶壷様が通りぬけたら、どんどこしょと、戸を開けて外で遊ぼうよ」と歌われたのが、この歌です。

大名たちも、道の途中で「お茶壷様」に出会うと、籠から降りて出迎えなければなりませんでした。

Photo_4 井戸の周りでお茶碗欠いたのだあれは、茶碗を欠いた小僧が井戸に身を投げたという、子供たちへの戒めだそうです。

この制度は、3代将軍家光が作り、その後、江戸時代の終わりまで続いたそうです。Photo_3

ところで、この茶壷は、信楽焼きだったのです。そのため、「信楽焼きの茶壷に入れたお茶は、長い間湿らずに良い香りが失われない」と有名になり、各大名からの注文が殺到したそうです。

また、信楽焼きの茶壷は、一般の家庭でも好んで使われるようになりました。

ごまみそ=ごますり接待のこと

トッピンシャン=家の戸を閉める音

抜けたら=通り抜けたら

ドンドコショ=安心して大騒ぎ

ねずみ=米を食べている役人の例え

―その2

まず ずいずいの「ずい」は、「どんどん~する」という意。

続いてのずっころばしすッ転ばしと言う意味です。

“ごま味噌と言うのは 昔、ごまや味噌はご馳走だった訳でつまり、ご馳走=女性と取るのだそうです。

よって此処までは 女性をすッ転ばしてと言う意味です。Photo_5

Photo_6 “茶壷に追われて これの茶壷男性の性器をさすのだそうです。男性に追われて性交されたということです。

次のとっぴんしゃんは 性交時の擬音です。

“抜けたがどんどこしょは、一回終わってお抜きになっても もっともっとドンドンしようとなります。

Photo_7 “俵の鼠 これはが鼠算と言われる程に繁殖力が強くつまりは精力絶倫を意味します。

そして次の米食ってチュウ飯を食ったらまた性交するというのです。

“チュウチュウチュウは何度でもするという意味です。

“おっ父さんが呼んでもおっ母さんが呼んでも行きっこ無~し~よ こんな良い事している時に誰に呼ばれても行きませんよ!

“井戸の 井戸はおいどの事で、おいどとはお尻です。Photo_8 Photo_9

“まわりでは回してと解釈します。

“お茶碗欠いたこれはお茶に関する業界の隠語で「主茶碗」は正妻を指します。この場合は彼女でしょう。

“お茶碗欠いたお茶碗替えたで妻(彼女)以外の女性に替えたという意味だそうです。「替え茶碗」も隠語でのことだそうです。

という「不純異性交遊」の戯れ歌だとしたら、なんともエロティックな内容です。

したっけ。

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電車内で睡眠中の隣の人の頭が自分の肩に。どうしますか?

2009-11-18 15:35:03 | トラ場(ブログ人投票箱)

こらーっ!またこんな質問して・・・!!これじゃ答えられないべさ!!!隣の人はどんな人なんだよーっ!!!!

いつも言ってるべさ。爺さんなのか、オヤジなのか、若い男なのか・・・。婆さんなのか、オバさんなのか、若い娘なのか・・・。で、答えも違ってくるんでないかい。

若い女性がオヤジに寄りかかられたら困るんでないかい。イケメンだったら嬉しいけどって、こっちがシチュエーション考えてどうすんだよ。

オレは男だから女性だったらそのままにしておくかな。女性終わった女は駄目だよ。それと暑苦しい女性と息の臭い女性は駄目だな。男は子供以外厳禁だよ。

ほら、どっちに投票すんだよ

オレは楽観主義者だから、若いキレイな女性ってことで「そのままにしておく」にしとくよ。

今度は、ハンカクサイ質問するんでないよ

したっけ。

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「はないちもんめ」について考える

2009-11-18 11:23:01 | 童歌

子供の頃だれでも一度は遊んだことがある「はないちもんめ」。本当は子供が歌うような内容ではなかったようです。

ジャンケンの後・・Photo_2

勝)勝って嬉しいはないちもんめ (ジャンケンに勝って【先攻側で】嬉しい)

負)負けて悔しいはないちもんめ (ジャンケンに負けて【後攻側で】悔しい)

勝)隣のおばさんちょいと来ておくれ

負)鬼が恐くて行かれませんよ

勝)お布団かぶってちょいと来ておくれ

負)お布団ボロボロ行かれませんよ

勝)お釜かぶってちょいと来ておくれ

負)お釜底抜け行かれませんよ

勝)あの子が欲しい

負)あの子じゃ分からん! (代名詞ではく名前で呼べ!)

勝)その子が欲しい

負)その子じゃ分からん! (代名詞ではく名前で呼べ!)

勝)相談しよう

負)そうしよう

買って嬉しい花一匁 (子供が安く買えた。嬉しいねぇ)

負けて悔しい花一匁 (わが子が値切られてしまって悔しい)

隣のおばさんちょいと来ておくれ

鬼が恐くて行かれませんよ (子買いが恐くて外に出られないんです)

お布団かぶってちょいと来ておくれ

お布団ボロボロ行かれませんよ

お釜かぶってちょいと来ておくれ

お釜底抜け行かれませんよ

あの子が欲しい (あの子を売ってくれ)

あの子じゃ負からん! (あの子はいなくなると困る。だから負けられない)

その子が欲しい (それならばその子を売ってくれ)

その子じゃ負からん! (その子もいなくなると困る。だから負けられない)

相談しよう

そうしよう

という子買い(口減らし)の意味であるとする説。Photo

 「聞いて極楽、見て地獄」とは、こうして騙されて売られた女の心情なのです。

花いちもんめ(花一匁)

Photo_3 花を一(花を買うときの単位)を買う際に、値段をまけて悲しい売り手側と、安く買ってうれしい買い手側の様子が歌われているとされる。

つまり「買って嬉しい」とは、女郎を買うと云う意味で、はないちもんめ=花一匁は当時の重さの単位で、花一匁分程度の金額で女郎を買えて嬉しい、ということです。

そして、買われた側は、花一匁相当に値段を負けさせられて悔しい、とつながるわけです。

また、昔の色町で芸者を買う際の値段交渉で,買ってうれしい花一匁、まけて(値切られて)くやしい花一匁」(花一匁花一輪=1人の芸者を指す)

「花一匁」ですが、匁(もんめ,3.75g)は重さの単位です。昔,花の売買は重さ基準で行われていました。

花は芸者ですから、芸者の価格交渉とする説。

すると歌の最後の「あの子が欲しい あの子じゃ分からん」は女郎の品定めなのでしょうか。あるいは、人身売買でしょうか。

遊郭があった江戸時代~明治時代は今とは比べ物にならないくらいの格差社会で、生活の為に子供を売り飛ばすということは良く行われていたとされています。

Photo_4貧乏な家の子供(または女の子)が口減らしの為に、人買いに一匁(もんめ)で買われ、人買い同士が「勝った(買った)」「負けた(マケた)」と囃し立てる悲しい歌としての一説もあります。この人買いを、「女衒(ぜげん)」と言います。

花一匁とは花代(玉代、線香代)が一匁だということ。遊女を買う際の品定め、あるいは、男仲間同士が遊女を取り合う戯歌と考えるのが自然である。江戸時代、吉原などは高額であったが、岡場所などでは一匁あるいは百文前後(現在の数千円)が相場であった。

 このような残酷な事柄が童歌となった背景には、貧しい農民が多かった時代には、口減らしが日常のことだったからでしょうか。何も知らずに唄う子供たちがいっそう悲しく写ります。

五円硬貨。重さ1Photo_5

記号:mom

系:尺貫法

質量

SI3.75 ?

定義:(1/1000)

したっけ。

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「かごめかごめ・・・」は足抜けの唄?について考える

2009-11-17 13:21:53 | 童歌

Photo_13 Photo(あし)を入れるとはある場所、ある世界に入ることをいいます。通常の場合好ましくない世界のことを言います。

(あし)を抜く「好ましくない関係を打ち切る。不本意な環境から抜け出すことをいいます。吉原では足抜けといいます。

足抜けの許されない吉原。吉原の大門を遊女たちは年期が明けるか身請けされるか、死人になるか。それ以外にはくぐることはできない。だから想いあった身請けする金のない男女は必死で足抜けを行いました。

しかし、逃げても亡八(忘八)が追ってきます。足抜けは決して許されないのです。Photo

亡八(忘八)とは仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌という、人として目指すべき八つの徳を完全に捨て去った無頼の別称。主に遊郭内で働く人たちに対し使われた言葉です。

Photo_15 死んでゆくのが地獄なら 生きていたとてまた地獄・・・Photo_12

足抜けに失敗して折檻死した女郎も多数いたといわれます。

「病気などで死んだ遊女は、吉原遊廓の場合、投込み寺と呼ばれた浄閑寺に、「~~売女」という戒名で、文字通り投込まれた」という説もある。しかし、それを裏付ける資料は古文書にはPhoto_2 一切なく、「~~売女」の戒名は、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発」「足抜け」「廓内での密通」「阿片喫引」など吉原の掟を破った者に限られていることが、最近の研究で明らかになっているそうです。

起請文とは江戸時代、男女間の愛情の変わらないことを互いに誓い合って書いた文書。遊Photo_4女が客に誠意を示す手管として用いた。起請。起請誓紙。

この場合、素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。人間として葬ると後に祟るので、犬や猫なみに扱って畜生道に落とすという迷信によったとものとされている。な  お、浄閑寺のホームページによると、浄閑寺が 投げ込み寺と呼ばれるようになったのは安政の大地震1855年)で大量の遊女が死亡した際にこの寺に投げ込んで葬ったことによるJoukanjiとされています。Photo_3Photo_14

多くの遊女は年季奉公という形で働かされていた。一定の年限を働くか、遊女を購った金額を返却できれば解放され、新吉原成立から天保年間(文政の後、弘化の前。1830年から1843年までの期間を指す)までは、年季を明ける率は、常に8割を超えた。しかし、一部の遊女は生涯を遊廓で終えた。年を重ね、遊女としての仕事が難しくなった者は「やり手」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。そのシステムが、吉原を単なる売春窟に堕さず、世界で例を見ない、独特の文化を生んだのです。

「かごめかごめ」の唄については色々な説が有ります。有力なのが、遊郭に売られた遊女の足抜け(脱走)について歌われているという説です。

Photo_5

かごめ かごめ かごのなかのとりは

いついつ でやる

よあけのばんに

つるとかめが すべった

うしろのしょうめん だあれ

かごめ」を漢字で書くと「籠女」で、かごに閉じこめられた女(遊郭にいる遊女)のことだというのです。

その1

Photo_8 Photo_9  「籠の中の鳥はいついつ出やる」は、いつ年季が明けて遊郭を出られるPhoto_16

この歌に限らず、民間に伝わる童謡の解釈は様々あって、どれが正しいとは一概に言えないのだそうです。歌い継がれる中で、歌詞が変わっていく唄も多いそうですし。

その2

Photo_10 Photo_11 女郎さんが、流産してしまった時に、その供養の為に唄った歌だとか・・・

「かごめ」とは「籠女」、妊娠をしている女性である

かごのなかのとりは、いついつでやる」というのは、お腹にいる赤ちゃんがいつ出てくるのだろうということ

夜明けの晩に」、夜明けなのに晩とは・・・?つまり「この世ではない世界

鶴と亀が滑った」というのは、おめでたいこと(その象徴として鶴と亀)が滑った。つまり流産したということだそうです・・・

後ろの正面だあれ

後ろに水子の霊がいるよ・・・

Photo_6 鬼になった子が、目隠しをして、唄が終わったときに後ろにいる子が誰なのかを当てる遊びです。これは、当たるまで延々と続けられます。何か恐ろしい気がしませんか。

それにしても童唄は子供の歌なのに、悲しい事にまつわるものが多いですね。

したっけ。

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「指切りげんまん」について考える

2009-11-16 12:56:50 | 童歌

Photo_3 子供の頃「指きりげんまん、嘘吐いたら、針千本飲~ます。指切った。」と歌いながら約束したことがあるでしょう。

子供同士が、お互いの小指を絡ませて指きりをしているのは無邪気な光景です。Photo_2

ゆびきり(指切り)とは、日本において、約束のしるしにお互いの小指を絡ませあうことをいう。「ゆびきりげんまん」ともいう。

しかし、本当の指切りはそのような無邪気なものではありません。本来指きりとは、江戸時代の遊女が客に愛情の不変を誓う証として、Photo 小指の第一関節から先を切って、桐の箱にいれて思う相手に渡したことに由来する。これにはかなりの激痛が伴うため、それほど愛しているということを意味し、貰う客も、遊女の思いに応えるくらいの気構えが必要だった。相当の覚悟がなければ「指きり」はできないということです。Photo_6

いくら思いつめた遊女たちでも、自分で自分の指は切れないので、他の人に切って貰ったという。血止めの薬や包帯などを用意し、それから切ったというが、そのほとんどが気を失ったといわれています。

しかし、次第に実際に指を切る遊女は少なくなり、偽者の指が出回ったらしい。そして、この「指きり」が形式的なものになり、一般にも広まり、約束を必ず守る意味へと変化した。

2 Photo_5

Photo_4   「げんまん」は「拳万」と書き、約束を破った時は握りこぶしで1万回殴る制裁の意味で、「指きり」だけでは物足りず、後から付け足されたものである。「針千本飲~ます」は更に付け足されたものである。

「ゆびきりげんまん」とは、本当は怖い約束の儀式であり、思いつめた遊女の悲しい心の裏に呪いさえ秘められていたのです。

したっけ。

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「太鼓持ち」って何かについて考える

2009-11-15 15:18:41 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

江戸時代には男芸者と女芸者とがあった。江戸時代には京都や大坂で芸者といえば男性1 である幇間や太鼓持ちを指し、芸妓が女性であったが、明治になると芸者が男性を指すことはなくなり、以降は大阪でも女性を芸者というようになった。

太鼓持ちは何故、艶っぽいお話や芸をする訳とはとは何なのでしょう。艶っぽい話とは、いわゆる下ネタを婉曲に話すことです。

日本は農業国でしたから、冬を越す食糧確保がもっとも重要でした。

その食糧とは稲です。稲の花が咲き雄蕊の花粉を雌蕊が受粉する事で米が実り、冬を越す食料を確保できます。動物では雄と牝が交尾する事で増え、次世代につながって行きます。それらが又我々の生活の安定をもたらし子孫の繁栄にも成ります。

艶っぽい行為(性交)は幸福に繋がっているのです。婀娜っぽい女性に目Photo_6 移りすることは不幸に繋がっていきます。種をまくのは自分の畑だけにしておきましょう。

 Photo_7 農家では、農作業が一段落した休みの日は、辛い農作業から開放され、羽目を外して地域の皆で喜びあいます。一緒に美味しいものを食べ、お酒を飲み、楽しく過して明日からの仕事の英気を養うのです。これが宴会の始まりであり、宴会の宴席の時にだけ艶っぽい話(下ネタ)や芸で楽しむ事を許されたのだそうです。

そして、下ネタを婉曲に話し、下品なものから艶っぽい話にし、その優れた者が専門職の太鼓持ち芸として伝承されて来たのです。

 芸者よりも古くから存在する太鼓持ち(正式名称は幇間/ほうかん)芸は、永年に渡り培Photo_8 われて来た日本の文化や行事を基本として、歴史や文化を比喩して楽しいお遊び芸になったのです。時代とともに芸は磨かれて、お客様の対応をして、お客様が主役となり、仕事を忘れて楽しんで頂ける様に、お客様に遊びを目立たない様に指南し補助する役が太鼓持ち業なのです。

本来「太鼓持ち」は通称でして、正式名称は「幇間(ほうかん)といいます。「幇(ほう)」と「間Photo_9 (かん)」の二つの言葉から成り立っていて、「幇(ほう)」は日本語では助けると言う意味があり、「間(かん)」は人と人の間、則ち人間関係を表す意味を含んでおり、その二つの言葉が合体して出来た言葉で、人間関係を助けるとの意味になります。

  では何故「幇間(ほうかん)」が、日本語では太鼓を持つ人と言う意味の「太鼓持ち」と言われる様になったのでしょうか。

一つ目は、武士で最初に日本を統一した豊臣秀吉(とよとみひでよし:15361598)が、1585Photo_2年に天皇様から関白(かんぱく)の位を頂いたのを養子の秀次(ひでつぐ)1591年に譲り、太閤(たいこう)秀吉となりました。お側衆(おそばしゅう)が太閤様のご機嫌が悪いとご機嫌伺いをして いました。豊臣秀吉の伽衆(将軍・大名のそばにいて話し相手や書物の講釈などをした人)を務めたと言われる曽呂利新左衛門(本業は鞘(さや)師。鞘に刀が「そろり」と合ったのでこの異名があるという。生没年未詳。)を祖とすると伝えられています。

ご機嫌良くするのを日本語では「相手を持ち上げる」とも言いますので、太閤様のご機嫌を良くする意味の「太閤様を持ち上げる」を縮めて「太閤持ち上げ」「太鼓持ち」となったという説。これは、曽呂利新左エ門の存在自体が疑わしく、後付の感が免れません。

  二つ目は、1678年に書かれた日本全国の色里案内書「色道大鏡(しきどうおおかがみ)」にPhoto_3 文献では始めて太鼓持ちの説明が有ります。日本では多いに遊ぶ事を「ドンチャン騒ぎ」とも言います、日本語では太鼓の音は「ドン」と鉦の音は「チャン」と表現し、「鉦」は「お金」と同じ発音なのでお金を出して遊ぶ人がお客様で、お金は無く「太鼓」を持って「ドンドン」と面白く騒ぐので「太鼓持ち」と言われる様になったという説。実際はお座敷で太鼓は叩きません。

 三つ目は、日本は古来稲作中心の農作業は大変な重労働で、春には水田の中を一列に並んPhoto_4 で腰を屈めて早乙女が苗を植える「田植え」を行ないます。これは生命を生み出す女性の仕事でした。辛い労働を少しでも和らげ調子良く作業がはかどる様にと、男達が太鼓を打ち鳴らし、唄を唄い舞う「田楽(でんがく)」から、お賑やかに囃し立てる人を「太鼓持ち」と言われる様になったという説。しかし、これは屋外であり、田植え、田楽は神事であったことから違うと思います。

四つ目は、太鼓演奏の名人が太鼓を演奏しやすい様に持つお弟子さんが居て、常に師匠かPhoto_5 ら演奏の時には持つ様に指名されたので、他のお弟子達は嫉妬して彼は師匠の太鼓を持つだけの人間だから「太鼓持ち」だと言われ、師匠を気分良く満足させので「太鼓持ち」となったという説。ここら辺りが意外と単純で正解のような気がします。

 他にも諸説色々有って面白いのですが、これといった決め手になるような説はありません。「太鼓持ち」は「芸者さんを持ち上げる」裏方さんだったからではないでしょうか。目立たないことこそ「太鼓持ち」の真骨頂だったのです。

幇間は別名「太鼓持ち(たいこもち)」、「男芸者」などと言い、また敬意を持って「太夫衆」と呼ばれる人もいました。

Photo 家康の孫・三代将軍家光は大久保彦左衛門(1560-1639)を自分の伽衆に加え、祖父家康公の話や戦国の世の苦労話などを進んで聞きました。

曽呂利新左衛門は「落語家」の祖であり、大久保彦左衛門が 「太鼓持ち」の祖であるという説もあります。

 「太鼓持ち」と言う言葉は現在ではほとんど使われなくなってしまいました。現在では人間関係を良くして雰囲気を盛り上げる人と言う意味では無く、上司の意見に反論もせずただ従い、御無理御もっともとヘラヘラ付いて行く人を蔑んで「太鼓持ちの様だ」とバカにした時に使われる事があります。

上っ面だけを見て、中身を見ない言い方で、これでは 「太鼓持ち」も浮かばれないと思います。

現在では 「太鼓持ち」という職業の方はいないのかもしれません。宴会になると、やけに張り切る「太鼓持ち」らしき人は何処の会社にも一人や二人いますけれど・・・。

したっけ。

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11月の雨2

2009-11-15 13:38:35 | ポエム・短歌

今日も朝から雨が降り出した

今日は温かい雨

それでもやっぱり11月の雨

冬の足音が少し遠のいた

昨日上った冬への階段今日は何段下りたかな

三暖四寒を繰り返し

ある日突然冬が来る

目覚めるとそこら一面冬になる

11月の雨は冬へのブレーキ

*

したっけ。

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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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