日本缶詰史より
藤野缶詰所
明治11(1878)年7月に開拓使が始めた別海の缶詰工場を、 明治20年2月に藤野辰次郎に払い下げ、缶詰業を操業しました。これが藤野缶詰所です。缶詰の販売には苦労したようで、最初はフランス等へ輸出していましたが食中毒の問題で輸出が止まると、救いの手が現れた、海軍であった。海軍は当初は輸入の缶詰を使用していたが海外からの輸入の途絶を考えて国産缶詰を一部に使用することとなった。明治23年のことである。
この間藤野は日本各地に缶詰を売り込みに出たが東京でもあまり売れなかった。彼は海のない長野県に目をつけ鮭の缶詰を1缶5銭から6銭で販売した。後年信州で祝儀や不祝儀で缶詰の引き出物に使われる原因になったという。
この件は信州の人にはまだ確認していません。
藤野缶詰所
明治11(1878)年7月に開拓使が始めた別海の缶詰工場を、 明治20年2月に藤野辰次郎に払い下げ、缶詰業を操業しました。これが藤野缶詰所です。缶詰の販売には苦労したようで、最初はフランス等へ輸出していましたが食中毒の問題で輸出が止まると、救いの手が現れた、海軍であった。海軍は当初は輸入の缶詰を使用していたが海外からの輸入の途絶を考えて国産缶詰を一部に使用することとなった。明治23年のことである。
この間藤野は日本各地に缶詰を売り込みに出たが東京でもあまり売れなかった。彼は海のない長野県に目をつけ鮭の缶詰を1缶5銭から6銭で販売した。後年信州で祝儀や不祝儀で缶詰の引き出物に使われる原因になったという。
この件は信州の人にはまだ確認していません。