浦賀奉行史 高橋恭一著より
享保5年より浦賀に船改めの番所を下田から移し、浦賀奉行の手で江戸に出入りする廻船の取り締まりすることになった。江戸に出入りする船を調べることで治安維持と経済の安定を図る目的の奉行となった。今だと税関の役目を果たしていたといえる。しかし18世紀になって外国船が我が国沿岸に頻繁に出没するに従い、江戸湾防備の役目を果たすべき地位の向上を図られた。さらに外国船応接の役目も加わり、黒船来航の交渉を幕府によって一任されようになった。戸田伊豆守と井田石見守がアメリカ大統領国書を日本の代表として受け取ることとなった。遠国奉行だった浦賀奉行が日本開国の重責を負わされたのである。
欧米列強によって中国が蹂躙されているという情報が入っていて、紛争になるような口実を与えないようにし、浦賀奉行二人に対して黒船を穏便に退去させることが幕府の方針であった。
久里浜での無言の応接によって日本の歴史から彼等の名前が消えた。
享保5年より浦賀に船改めの番所を下田から移し、浦賀奉行の手で江戸に出入りする廻船の取り締まりすることになった。江戸に出入りする船を調べることで治安維持と経済の安定を図る目的の奉行となった。今だと税関の役目を果たしていたといえる。しかし18世紀になって外国船が我が国沿岸に頻繁に出没するに従い、江戸湾防備の役目を果たすべき地位の向上を図られた。さらに外国船応接の役目も加わり、黒船来航の交渉を幕府によって一任されようになった。戸田伊豆守と井田石見守がアメリカ大統領国書を日本の代表として受け取ることとなった。遠国奉行だった浦賀奉行が日本開国の重責を負わされたのである。
欧米列強によって中国が蹂躙されているという情報が入っていて、紛争になるような口実を与えないようにし、浦賀奉行二人に対して黒船を穏便に退去させることが幕府の方針であった。
久里浜での無言の応接によって日本の歴史から彼等の名前が消えた。