年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

ルビコン岬

2009年07月28日 | 福神漬
ルビコン岬
今の横須賀市走水と千葉県富津岬を結ぶ線を幕末江戸湾防衛のラインとしていた。ペリー等はこの線をローマの故事にたとえて、ルビコン岬と名づけ、ここを平和に超えて通商を結ぶ作戦を立てていた。
 日本側も浦賀衆の人たちと.幕府幹部の危機意識の差が表れていた。現場を預かる戸田氏栄は予算不足で台場の建設も遅れたし、ペリーの黒船以前に浦賀に来たアメリカの軍艦の大砲の数より、江戸湾を守っている大砲の数が少なく、威力も弱かったことを知っていた。この事実を浦賀与力から知らされていた戸田は異国船を武力で打ち払うことは不可能であったことを知っていた。黒船来航時、戸田は浦賀に集まった見物人の対応に苦慮したと思われる。ヤジ馬の暴走を抑え、戦争の口実を与えないで速やかに退去させることに成功した。
 武力を背景として開国をせまる人と平穏に退去させようとする人の駆け引きが浦賀衆に委任された。前例のない黒船来航を無事終わらせた。
 浦賀衆は鎌倉時代北条時宗が竜の口で蒙古の使者を切り捨てて国論を統一した前例を避けたのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする