久里浜を歩く
京浜急行久里浜駅で降りて港に向う。ペリー記念館のあるペリー公園まで歩いてゆく約20分。巨大な記念碑設立・碑が倒された時や再建した経緯も記念館の中に掲示されていた。
記念館の入り口にこの地で国書を受け取った戸田伊豆守氏栄の大きな胸像が建っている。同様な胸像が内部にもあるのだが、彼の功績が評価されたとは思えない。彼等(戸田伊豆守と井田石見守)が日本を代表してアメリカ大統領の国書を受け取ったのだが浦賀奉行としては儀式においては完全に飾りであって、平穏無事に浦賀奉行として黒船を退去させることが優先されていた。
戸田伊豆守氏栄ら浦賀の在住していた与力等の提案や準備によって黒船来航後速やかに時代が動いて行った。大型船建造の解禁などは間もなく行われ、国産洋式軍艦(鳳凰丸)は1853(嘉永6)年9月に起工、嘉永7年5月10日に竣工、翌11日に試験航海を行いました。薩摩の洋式軍艦(昇平丸)は手探りで建造したので着工は鳳凰丸より早かったが竣工に時間がかかり日本で二番目の洋式軍艦といわれる。浦賀衆がたびたび来る異国船の構造を与力舟大工等によって偵察調査していたという。
横須賀市中央図書館郷土資料のところには戸田伊豆守の本は一冊しかないが中島三郎助ら浦賀衆の本は多い。黒船再来航以後、横浜に応接の場が行き、浦賀の街も寂れていったという。
福神漬の調査には関係ないことかもしれないが知らないことがまた増えた。
京浜急行久里浜駅で降りて港に向う。ペリー記念館のあるペリー公園まで歩いてゆく約20分。巨大な記念碑設立・碑が倒された時や再建した経緯も記念館の中に掲示されていた。
記念館の入り口にこの地で国書を受け取った戸田伊豆守氏栄の大きな胸像が建っている。同様な胸像が内部にもあるのだが、彼の功績が評価されたとは思えない。彼等(戸田伊豆守と井田石見守)が日本を代表してアメリカ大統領の国書を受け取ったのだが浦賀奉行としては儀式においては完全に飾りであって、平穏無事に浦賀奉行として黒船を退去させることが優先されていた。
戸田伊豆守氏栄ら浦賀の在住していた与力等の提案や準備によって黒船来航後速やかに時代が動いて行った。大型船建造の解禁などは間もなく行われ、国産洋式軍艦(鳳凰丸)は1853(嘉永6)年9月に起工、嘉永7年5月10日に竣工、翌11日に試験航海を行いました。薩摩の洋式軍艦(昇平丸)は手探りで建造したので着工は鳳凰丸より早かったが竣工に時間がかかり日本で二番目の洋式軍艦といわれる。浦賀衆がたびたび来る異国船の構造を与力舟大工等によって偵察調査していたという。
横須賀市中央図書館郷土資料のところには戸田伊豆守の本は一冊しかないが中島三郎助ら浦賀衆の本は多い。黒船再来航以後、横浜に応接の場が行き、浦賀の街も寂れていったという。
福神漬の調査には関係ないことかもしれないが知らないことがまた増えた。