年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

浦賀の十日

2009年07月23日 | 福神漬
浦賀の十日
南浦書信 浦賀近世史研究会監修より
ペリー来航と浦賀奉行戸田伊豆守氏栄書簡集
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)から12日(7月17日)まで10日間はこの地でどのようなことが起こったのだろうか。
 弘化3年(1846年)アメリカ軍艦コロンバス号ヴィンセンス号2艦が清国政府との条約批准書交換の帰途、日本との通商条約締結の可能性の打診のため浦賀に現れた。コロンバス来航のあと老中阿部正弘は浦賀奉行を更迭し、5百石の戸田伊豆守を任命した。異例の抜擢であった。戸田は浦賀の与力中島清司・三郎助親子、与力香山栄左衛門、通辞堀達之助を指揮してこの難局にあたった。アメリカとの交渉は香山らが当たり戸田は幕府から視察に来た人達や応援の人達の応対に追われていた。その中で老中阿部正弘に国書を受け取る他ないと書状を送っていた様である。結局幕府は浦賀奉行に一任して久里浜でアメリカ大統領の国書を受け取るようになる。(日本の開国)

戸田はその先見力や発言の過激のため、周囲から疎まれ、ペリー再訪日の際、応接の場から外された。このような経緯から直ぐに戸田伊豆守は幕末史から消えて行った。戸田の三男を父に持つ鶯亭金升は彼の本や彼の経歴にも旗本長井家が出ているほうが多いが戸田氏栄から見ると金升は孫に当たる。

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