年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

群盲象を評す

2012年12月21日 | 福神漬

福神漬のことを調べ始めて数年が経つ。当初の予定では1年か2年で調べつくされると思われていたが次々と現れてくる資料によって予定は未定となった。ゴールを設定しなければと思いつつ今日に至る。この原因はそれぞれの資料が『群盲評象』で福神漬に関して一部に現れたことが全体ではないこと今頃気がついた。
 もうそろそろエピソード毎に書いても全体に流れる福神漬というものを矛盾しないで書ける時期に来たようだ。福神漬に係る色々なエピソードは時代や地域が異なり、それぞれが相互に関係がないように思えるが実際はそれぞれが関係があってまるで「群盲象を評す』と同じように思えるようになった。
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ライターさんへの返信

2012年12月21日 | 築地市場にて
酒悦さんが福神漬を開発しようときっかけは上野戦争後立ち入りが禁止され荒廃した寛永寺一帯が上野公園として行楽地として復活する時期で明治10年代です。
全ての福神漬文献の始まりは大正12年7月に開催された日本缶詰協会の品評会から始まります。この時、東京毎日新聞記者鶯亭金升が師である梅亭金鵞が命名した時の話を缶詰協会の人に話し、缶詰時報2巻に掲載されています。命名の時期ははっきりとはしませんが第一回水産博覧会が明治16年3月に上野公園で開催されています。酒悦主人が上野で開催された水産博覧会で缶詰を見て、漬物を缶詰に入れようとこの時考えたと思われます。しかし缶詰に入れたため、高価となり(今の価格に換算すると1缶3千円程度)販売するにあたって様々な販売促進活動が必要となったのです。商品名を当時再発行された七編人の中の池之端の香煎とあったので著者梅亭金鵞に商品名の命名を依頼したのです。ただ江戸時代戯作者であったので単純に商品名を付けたとは思えません。この明治16年ころは自由民権運動が盛んな時で、福島事件の高等法院で裁判が行われていた時期でした。もしかすると福神は福島人-福人という意味を含んでいるかもしれません。このように考えると七福神と命名しなかったことも納得がいくと思います。すべてはペリー来航時に浦賀で応接した人たちの怨念が入っているように最近は思っています。高野長英が千葉の万歳村の花香家に逃亡先として紹介したのは内田弥太郎でした。この花香家にペリーの国書を受け取った戸田伊豆守氏栄5男鉄丸が養子となったのは内田の紹介と思われます。高野長英が惨殺されたとき、嘉永3年のことですが高野を匿った内田に疑いが出ました。この時庇ったのが戸田氏栄と思われます。当時、戸田氏栄は浦賀奉行で配下に下曽根金三郎と内田弥太郎がいました。蕃社の獄のリストにのっている人物です。下曽根は筒井伊賀守政憲の子供です。安政5年の頃幕臣長井家のひとり娘のところに戸田の3男が養子になりました。世話をしたのが筒井でした。この長井家に戊辰の混乱期に子供が生まれました。この子供が鶯亭金升です。花香家に養子となった鉄丸は花香恭次郎となり、自由民権運動福島事件被告人となり、有名となりました。彼は唯一東京士族で、美男で浮世絵にもなりました。この浮世絵を書いたのが最後の浮世絵師と言われる小林清親でした。小林清親は鶯亭金升の結婚の仲人となりました。仁科家の嫁さんでした。この縁者が昨年亡くなった岩井半四郎さんです。
 明治事物起源の著者石井研堂は福島県郡山市出身です。戊辰戦争での二本松付近の戦いに福島県の人々の複雑な思いがあります。彼が缶詰の始まりになぜ五稜郭の喜兵衛を書いたか不明ですが多分日暮里浄光寺の福神漬顕彰碑を見て書いたと思われます。一部に間違った事実があるため缶詰協会は日本の缶詰の始まりは北海道の開拓使となっているようです。この福神漬のトリビアを調べてゆくうちにほとんどが上野周辺の住人であることに驚きます。三菱の岩崎邸も池之端の隣にあります。
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