年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

鶯亭金升日記の謎解き

2022年09月21日 | 福神漬
台風で家から出れないので、まだ未完成の原稿を手直しする。

 福神漬の伝聞の逸話を検証すと事実と異なることが多く、それの解釈でまた時間がかかる。小林清親の娘である「小林哥津」さんの本が都立中央図書館にある。 
清親考
小林 哥津著 -- 素面の会 -- 1975
鶯亭金升が仁科家の令嬢と結婚した時の仲人が小林清親だった。彼が結婚後の住まいとしたのは池之端御前と言われた福地桜痴(源一郎)の所有の家で、今の横山大観記念館の位置となっている。福地の経営する東京日日新聞が経営不振となって隣地に住んでいた日本郵船重役浅田正文によって、火除け地として買収された。浅田正文が明治末に死去した後、大正の地券(土地所有)の記録では横山秀麿となった。この件で大観記念館の人に聞くと、びっくりしたようで、福神漬の歴史を調べていると話すとまた驚いていた。学芸員の話だと南面の庭のところが福地桜痴の地所で茶室があったという。
小林 哥津さんの本によると、団団珍聞へ清親を紹介したのは鶯亭金升だという。このことを小林清親の研究書にはほとんど言及されていない。冷静に考えて14歳の少年がはるかに年上の清親の就職あっせんしたとは思えないからだろう。まだ文献は見つけていないが、日本の政治小説の初期に活躍した戸田欽堂の影響があったと思われる。鶯亭金升の父は明治維新後に静岡へ行かず、江戸から東京になった地で生活していた。明治の新橋横浜間の鉄道事業が始まると七等の鉄道寮の役人になった。ただ鉄道が明治5年に開業したのち翌6年に死去した。
 鶯亭金升の三代キシャの家系の意味がなかなか分からなかったが、騎射・汽車と新聞記者ということで、騎射とは御先手弓組の事で長井五右衛門昌純は火付盗賊改の職をかなり長期間勤めていた。池波正太郎の長谷川平蔵の小説
『鬼平犯科帳』が出るまで、戦前は火付盗賊改の職が嫌われていた。鶯亭金升日記は金升の日記の抜粋だが長井五右衛門の話は殆どなく、親族の中ではあまり語りたくない先祖の仕事のようだった。それほど『鬼平犯科帳』が出るまで評判の悪い治安維持の役所だった。ゆすったり冤罪があったりしていた。
 この金升日記はどうも編纂者の感想で後々公開されても良いように日記が書かれ、切り抜き等があるようだ。従って金升にとって不都合なことは触れても内容があっさりしている。自由民権運動福島事件の被告人花香恭次郎の死去の日記もあっさりしている。ぺり―来航時に米国国書を受け取った祖父戸田伊豆守氏栄のことは多く日記に出ているが父昌言が面倒を見た花香恭次郎は少ない。金升が6歳ころに父が死去したため、花香恭次郎は花香家と横浜の高島嘉右衛門の世話を受けたと推測される。高島嘉右衛門の姉は大垣戸田家の側室で戸田欣堂を生んだ。幕末の金銀の交換レ-トの差益を狙った嘉右衛門が幕府に見つかり捕縛された時、戸田家からやむなく離縁されたようだ。
この辺りは小説家の書くところで、火付盗賊改の職を経験している家人は今の留置場のマナ-を知っていて、高島嘉右衛門が石川島に収容されていた時便宜を払っていたと推測できる。地獄の沙汰も金次第という言葉がある。これは牢獄の中で生きるにはお金が必要ということを意味している。今と違って明治の初めの西洋式監獄が出来るまで不衛生で判決前の時に病気で獄死するものが多かった。
 金升日記に出てくる正月の年始回りで行く戸田家とはどの家なのだろうか。2022年10月は鉄道開業150年となる。金升の父は鉄道寮に勤めていて開業時に母と共に見ていたようだ。


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