年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

〇〇珍聞の表紙 小林清親

2022年09月10日 | 福神漬
前田愛著作集  第4巻 幻景の明治 前田 愛著1989年12月 筑摩書房
328頁 川柳と団団珍聞
明治10年に創刊された全国各地の小学生の作文投書を競う「穎才新誌」という少年向けの投書 雑誌が週に一万部、同じく同年に創刊された週刊滑稽風刺雑誌団団珍聞も週1万部発行していた。当時の木版印刷技術を超えた活版印刷の出来で、表紙の上部に馬と鹿、中央の円の中に異人が3人描かれ、一人は箒大の筆を持ち、もう一人は耳をそばだて、さらに一人は双眼鏡で見ている。報道の自由を表している。(団団)の雑誌名は悪名高い報道規制に対抗して〇〇という伏字を余儀なくされたジャ-ナリストの皮肉な抵抗だった。前田愛氏はこの絵の作者が小林清親と著書に書かれているが、明治10年の小林清親は団団珍聞には参加していなく、後に洋画家となった本多錦四郎(岡山県出身)と思われる。
 この読者が主体となった団団珍聞という雑誌は江戸時代からの文化で、編集者は巻頭の茶説と数枚のマンガだけで残りの欄は投書家に開放され、雑録は投書家の表現の見せ所だった。これは江戸時代からの軽文学の伝統が雑誌という新しいメディアに触発されたという。団珍の編集者と雑録の投書家は事件が起きると驚くべき速さで風刺を盛り込んだ投書を読者に伝えていた。風刺が効きすぎ政府の弾圧が強化されると、ごく仲間内にしかすぐに判らない謎的要素が強くなっていった。今だと女子高生の会話のように他人が聞いても仲間内しか判らないようにしていた。
 小林清親の娘である「小林哥津」(こばやしかつ)さんの本では小林清親を団団珍聞へ紹介したのは鶯亭金升というがこのことについて小林清親の研究者はほぼ全員と言ってよいくらい言及していない。明治23年に鶯亭金升は小林清親の仲人で仁科家の令嬢と結婚した。鶯亭金升は明治元年1868年生まれで、清親は1847年(弘化4年)で金升と21歳の年齢差があって、小林哥津さんの証言を真実とすると14歳の少年が35歳の清親の仕事の世話をしたことになって、とても美術評論家には信じられないと思っているのだろう。
 しかし、福神漬を調べてゆくうちに嘘ではないように思えてきた。明治6年に鶯亭金升の父が工部寮鉄道寮の7等の役人だった時死去した。明治5年秋の新橋横浜間の開業時に汽車を眺めていたという。慶應3年に目付となっていて、幕府崩壊後何らかの縁故で工部省鉄道寮に勤めた。この縁故就職は手ずるは何かというと高島嘉右衛門だと思われる。高島嘉右衛門の姉は大垣戸田家に行儀見習いと出仕して、藩主の子供を身ごもった。この子が戸田欣堂で自由民権家として知られている。嘉右衛門が幕府の法律違反の金銀の差益に手を出し、石川島に留置された。石川島で手助けしたのが大垣藩から離縁された嘉右衛門の姉で、さらに火付盗賊改の職の経験のある御先手弓組の長井家の支援もあったと思われる。旗本長井家に養子に行ったのがペリ―来航時に浦賀で米国国書を受け取った戸田伊豆守氏栄で鶯亭金升の父は氏栄の息子だった。浦賀で戸田氏栄の支援で大垣藩は野次馬整理の仕事をしていた。その時に黒船を見ていたので比較的に武備整備が出来ていて、鳥羽伏見の戦いの後、新政府軍が大垣で長期滞在となり、後にこのことから、岩倉具視の娘(三女極子)が戸田家に嫁いだ。明治20年の伊藤博文の首相官邸の仮装舞踏会のヒロインとなる女性である。

 明治6年に父を亡くした鶯亭金升の母子を助けたのが戸田欣堂と思われる。鶯亭金升は根岸の服部 波山(はっとり はざん、文政10年(1827年)‐明治27年 )の家塾で団団珍聞をマネして壁新聞を作り、14歳ころから投書家となった。この関係から小林清親が原胤昭との関係が見えてくる。つまり前後関係と大垣戸田家とから14歳の少年が35歳の清親の団団珍聞の風刺画家として就職斡旋しても不思議ではない。
 このあたりになると小説家の想像の範囲となる。


コメント
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