年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

板橋区郷土資料館へ行く みの早生大根の資料を求めて

2022年09月29日 | タクワン
ネットで調べて、都営三田線新高島平駅で降りて、案内板に従い板橋区美術館・郷土資料館へ行く。また後で気が付いたのだがネット情報は誤誘導でで、三田線の終点である西高島平駅の方が比較的わかりやすい。地図上では新高島平駅が最寄りだが高速道路と赤塚へ抜ける道が大回りをさせる。急がない散策でアップダウンの道を行き、練馬区美術館前をチラッと見て、国際興行のバス停で時刻表を見て、東武成増駅行きを確認したが30分に一回ほどのバス便で乘ることをあきらめた。成増駅は55年ほど前に米軍の基地(ワシントン・ハイツ)の中の学校を見学したことがあった。教室内に米国国旗があって違和感が今でも記憶に残る。どうやら世界でも教室に国旗があるのは米国だけのようだ。ニュ-ヨ-クへ行った時も町中に国旗があるのは米国人には違和感がないのだろう。日本では旗日以外は町中で国旗が見えない。
 板橋美術館を通り過ぎ、公園内では保育園児がいるだけで保母さんが安全確認をしている。すぐそばに池があって高齢者の男性が数名いて日よけの下で釣りをしていた。釣果を見ると目の下50センチを超えるフナかコイのようだ。池の隣に郷土資料館があってやはり30年近く前に訪問した時にあった大きな木樽が見当たらなかった。
 郷土資料館は無料で見学すると、やはり古代からの板橋区の土地の様子が展示してあった。チョット区の名前に疑問があったのだ。板橋という地名の電車の駅が多数ある。電車では上板橋・中板橋・下板橋・新板橋・本板橋・元板橋・板橋区役所前等の駅名がすぐに出る。バス停を入れればもっと多いかもしれない。板橋区民は位置関係を間違えないのだろうか。板橋は郷土資料館の解説では板の橋とあって普通の解釈と思っていたが古代のイタは崖地を意味していて、崖の端という意味もあるようだ。従って板橋区は崖の上の地域と氾濫する川の低地の混在する地域だった。そこで江戸市民の野菜等を供給する土物野菜が発達した。大根やニンジンの栽培が目立っていたようだ。特に大根は日本で発達し、今でも生産量が多いが米の消費量が減リ、タクワン漬等の漬物需要が減ってさらに農家の高齢化から重量のある大根の作付けが減った。そこで漬物業者が中国から生大根を安価に輸入し加工したためさらに大根栽培が減った。
 2001年の板橋区郷土資料館の本を500円で買い求め、みの早生大根の展示がないのを質問したら、学芸員が出てきて、板橋区史 資料編5巻民俗98ぺ-ジに記事があった。天保年間に志村の百姓巳之助が栽培した『みの早生大根』は肉質に水分が多く味も良く、耐暑性のある大根として知られた。お盆8月15日頃に種をまき、10月になると収穫が出来た。これが明治に入って旧暦が新暦に変わって、べったら市用大根として見直された。大根の収穫時期は板橋・練馬の農家の人たちは寝る間を惜しんで、生大根を収穫後、夜の気温の低いうちに大八車に積んで、巣鴨や神田の市場に早朝に届け、セリ後の金を得るまで寝ていて、帰りに肥料となる下肥を板橋まで積んで帰ったようだ。
 早生の大根が終わると漬物にも転用できる大根が始まり、農家で漬け込み作業が始まる。もうこの風景は文献にしか残っていない。
 板橋・練馬地域が鉄道網の整備で住宅街となり農家が減ってしまった。
 今の若い人は戦後の住宅難で板橋の人口が増え、練馬区が誕生したことを知らないようだ。板橋練馬は蔬菜の生産地であった。
コメント
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