年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

フェ-トン号事件から始まる福神漬の歴史4

2022年09月13日 | 福神漬

 多くの幕末関連の本は明治初めの函館戦争後で殆んど言ってよいくらい消えている。大政奉還後に鳥羽伏見の戦いがあって戊辰の戦乱が続くのだが庶民の生活には何があったのか知ろうとすると文献の量も少ない。当時の庶民といっても記録を残すことの出来る人たちの研究がまだ少ないようだ。

 浦賀の町にあった塩商人と浦賀与力たちの開国後の浦賀の様子はどうだったのだろうか。この辺を理解しないと戊辰戦争の最後の戦闘で浦賀でペリ-の船に最初に乗り込んだ中島三郎助と千葉行徳の漬物商人がなぜ函館で同じ日に戦死したかの解明が進まない。開国後長崎のほかに通商を行う港が横浜・神戸・函館・新潟と徐々に増える従い、浦賀の重要性が減っていったと思われる。町を活性化する活動が塩を扱う商人たちで中で行われていた。同時期の長崎も同様な悩みもあったようだ。明治期の東京で活躍した人で長崎から東京へ移った人に福神漬の歴史に出てくる人が多い。何故なのだろうか。地方の行政官(町与力)と言う現場を仕切る人たちが激変した情勢からいかに町を活性化するということは今でも行われている。江戸幕府から任命された長崎奉行は平和な時期で長崎貿易が縮小時期にかなり苦労したようだ。経済が縮小する時期に税収(上納金)上げようとすると無理がある。長崎奉行戸田出雲守氏孟はかなり無理な行政を長崎で行ったため在任中に死去した。多くの悪評判が文献として今に伝わり長崎本には市民に評判が悪い長崎奉行と書かれている。当然その子孫(戸田伊豆守氏栄・長井越前守昌言・鶯亭金升)は先祖を語ることは少なく不思議だった記憶がある。

 木村直樹著 長崎奉行の歴史から

福神漬の歴史で文献に今でも残るのは1804年に突然長崎にオランダ船という偽旗を掲げて、入港し長崎奉行が慌てたフェ-トン号事件がある。長崎奉行は不始末の責任を取って自決した。警備を届け出もなく縮小していた肥前藩も処罰を免れなかった。イギリス船が長崎に来た理由は、ヨーロッパのフランスとの戦争の余波だった。そのことから、日本史がアジア史の世界から世界史の世界に入った事件だった。フランスのナポレオンは軍隊用の長期保存でき持ち運びできる食品開発を求め。懸賞を出していた。これが缶詰の始まりとなっている。実際に缶詰が普及したのはイギリスで完成したのはアメリカとなっている。国土の広いアメリカでは多くの激安缶詰食品がアメリカの量販店で陳列されている。
 福神漬の文献で缶詰協会の日本缶詰史ではコラム扱いとなっているがそれなりの存在感がある。なぜか不思議な想いがあって、今は神田に移転してしまったが有楽町前にあった時缶詰協会を訪問し、色々な資料を頂いた。


 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

薬事法に触れそうで刀豆の薬効

2022年09月13日 | 福神漬
福神漬に入っている刀豆の薬効は今から15年ほど前はネットに出ていなくて、調べるのを断念していた。先日台東区の図書館のリファレンスで原色牧野和漢薬草大図鑑というのを教えてもらい薬効を確認した。
 ネットで今出ている効能を書くと次のようなものがあるが、本当に効能があるかは判断できない。
 一番気になるのは口臭を減らすナタマメ歯磨きで、普通の歯磨きの倍以上の価格だった。
次によく新聞の通販広告で「なたまめ茶」には、なた豆特有の成分のほかにも多くの成分が含まれており、 その中でも、赤なた豆にはポリフェノールが多く含まれているとされています。 なた豆に多く含まれているのは「タンニン」で、殺菌効果や高い抗酸化作用があり、血中コレステロールを低下させたり、高血圧・動脈硬化・脳梗塞の予防といった健康効果や、活性酸素の除去(酸化予防)といったエイジングケア効果も期待できます。
 ただこの様な刀豆の薬効は本草書には見当たらなかった。今の薬効はナタマメの成分分析から導きだされている気がしている。ちなみに牧野の本では薬理は未詳とある。体内を温め腎を益するなどの効能がある。
咽喉(いんこう)頭結核、腰痛を直すと言われる。その他の効能もあるが刀豆の通販宣伝には見当たらない。

 中国の明の時代に書かれ、日本でも江戸時代に出版された漢方の教科書「本草綱目」の中でなた豆が「腎を益し、元を補う」と紹介されています。腎臓にも良いと刀豆茶の宣伝もあります。中国来た漢方薬は何らかの経験知識からの言い伝えで来ていてどんどん薬効が解明されてきています。
なた豆と腎臓. なた豆は歯槽膿漏や蓄膿症などの「膿取り効果」も宣伝文にあります。
 上記の様々な刀豆の薬効は福神漬の宣伝文にはないのです。酒悦主人が明治の10年頃に上野の地域が戦争で荒廃したところから、観光で上野寛永寺の復活するに従い、増える観光客への食品開発をした様です。最初は3種類の野菜の漬物で作って、後に上野公園内で開催された水産博覧会で見た缶詰に開発した漬物を入れ、持ち帰りの出来るようにしました。しかし当時はお茶を保管する茶筒職人が手作りして缶を作っていて(日本製缶協会のHP)、缶も高価だったようです。そのため販売価格が高価すぎて中々売れなかったようです。そこで当時の池之端の老舗薬屋の守田『宝丹(寶丹)』 の宣伝を参考にしました。又は相談したかもしれません。
 活版印刷の普及と学校制度で読者人口が増え、江戸時代の戯作本が木版から活版印刷で出てきました。木版から大量に出版できる活版印刷で江戸時代の戯作本の出版ブ-ムがありました。梅亭金駕の(妙珍竹林七偏人)もその中の一冊でした。その本で池之端の香煎茶屋での話があります。江戸時代には酒袋・酒好.酒悦と3軒あったが明治まで残ったのが香煎茶屋が酒悦でした。
 そこで酒悦主人が文京区白山上に住んでいた梅亭金駕に新商品の命名を依頼したところ、三種の野菜を七種にし、江戸時代からの谷中の七福神詣でから(福神漬)と命名したと、目撃者の鶯亭金升が大正12年7月の日本缶詰協会(缶詰時報2巻)に語っています。それまでの福神漬命名説は大日本水産界の人と田中芳男の命名説が有力だったようです。従って福神漬の商品としての完成時期は明治18年頃と推測されます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする