年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

葛飾区木根川小学校の資料館の訪問

2022年09月08日 | 宅老のグチ
シルバ-パスを利用して、都営浅草線の本所吾妻橋駅で降り、金町行きの都バス停留所を探すと、結構浅草寄りにバス停はあった。バスは水戸街道を走り、昔のトラックで配送していた時を思い出す。四つ木橋を降りたところにバス停があって降りたが、見たところ浅草方面行きのバス停が反対側に見えないので探した。かなり金町寄りに戻りセブンイレブンの所にバス停があった。後から考えると10分はロスした。京成四つ木駅付近は踏切を無くす工事計画があって、割と踏切が少ない。大回りして四つ木駅へ向かいそれから慣れた木下川薬師へ向かう土手の通りへ行く。土手の上には高速道路があって、迷っても見逃んない。何か終戦直後の道がそのまま舗装されていて、調べてみると地価は安い様だ。考えようだがもう少し公園等があって、家から高速の入り口まで近いのであっという間に東北道、常磐道から千葉方面に行ける。
 午後一時過ぎに、木根川小学校を訪問した。授業中で実に静かだった。後で調べたら全校生徒が100名位で特に一年生は10名で、慌てて近隣の渋江小学校を調べても少なかった。何か統合の予感がするが、水戸街道があって、四つ木の駅前にタワ-マンションが2~3棟建てばあっという間に小学校は満杯になる。土手からスカイツリ―が見える。
 静かな学校で副校長の案内で資料室を空けてもらい見学する。今回の訪問の概要を話した。江戸東京博物館の出版物で『東京府志料』にみる明治初期の物産一覧(東京都江戸東京博物館調査報告書 第7集)で当時の東京市で刀豆の産地として唯一上木下川村があった。この本では今の地域が書かれていて長い間どこに位置するか不明だった。
 築地での仕事を終えてからやっと探す時間が出来たがそれでも墨田区の図書館では判らず、ようやく荒川放水路の建設で上下木下川の地域は大部分が川底となったと記録があった。それでも具体的な川底になった村の様子が東墨田会館で墨田区立木下川小学校の資料室で見つかった。中川が上下川村付近で蛇行していてそこを分断したので刀豆の産地としては上木下川村が該当する。さらに大正時代の本で南葛飾郡誌だ刀豆の産地状況が書いてあって、福神漬の需要で栽培面積が増えたようだ。木根川小学校の副校長の先生の話では今では付近には農地はない。多分震災後に移住してきて、さらに戦災で風景がかわってしまったようだ。
 資料館は地域の記憶で入り口付近に佐田 雅志(さだまさし)少年が中学時代に 3年住んでいた記録と色紙がある。後は70年ほどの小学校の記憶と記録となる。ここには刀豆の存在はなく、地域の記憶もなさそうだった。約一時間ほど見て徒歩で四つ木橋から都バスに乘って本所吾妻橋駅で降りた。道中はスカイツリ―の大きさを確認する行程だった。
 下肥の研究を見たことのある葛飾区の郷土と天文の博物館 へ行く必要があると思った。資料によると刀豆の栽培には下肥が必要のようだった。それに背丈が高いので水害には強い様だ。やはり葛飾区史では戦後のカスリ-ン台風の被害が甚大だったようだ。四つ木駅は海抜3m程だった。

コメント
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