年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

まだ30年かもう30年か?

2009年07月16日 | キムチ
まだ30年かもう30年か?
築地市場の移転問題が考えられてかなりの年月が経っている。その前に日本橋魚河岸と京橋にあった大根河岸が築地に正式に移転したのは昭和10年2月11日のことで明治時代に政府の欧風化政策によって、東京の都市改造計画が作られたのが明治20年前後なので、日本橋・京橋の市場を築地に移転するのに約50年の歳月がかかっている。国・東京市の行政の思惑や生産者・土地を貸している人たちの思惑が何か所も移転候補地となっていった。最終的に関東大震災という天災と戒厳令(朝鮮人の暴動というデマを口実として魚河岸の出入り・再建を阻止した)によって他の土地に暫定的な市場をつくることとなった。このことはあまり日本橋魚河岸移転史には出てこない話である。つまり国・東京市は何が何でも日本橋に市場を再建することを考えていなかったことの証明である。
 日本におけるキムチ(朝鮮漬)の歴史にはこのことは避けて通れない。漬物は単なる嗜好品と分類される食品だが思想・宗教とか関係なく歴史の隠れた証人となる。
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朝日新聞が築地市場前に引っ越して来た頃

2009年07月15日 | 築地市場にて
昭和55年11月
朝日新聞が築地市場前に引っ越してもうじき30年となる。市場前の歩道のイチョウに夏蝉がうるさく鳴いている。梅雨が明けた象徴かも知れない。
 こんな話を新任の築地担当の人たちに話したら、昔話を話すこととなる。昭和55年以前築地市場でタクシーを止めようとすると苦労した。渋滞の激しい周囲の道路にはタクシーがつかまるが新大橋通りの築地4丁目交差点(晴海通りと交差)からは海岸通りの浜離宮前の交差点までタクシーが避けて走っていた。魚のにおいが付くという理由で乗車拒否すると魚河岸の人は何するか怖いので避けていたのである。今でも新橋からの築地市場への都バスは魚の臭いがする。朝日新聞が築地市場に引っ越しして来て遠距離の客が見込めるようになって、ようやくタクシーが捕まるようになった。
 朝日新聞の階段状になったところにある木々も30年の年月をわすれ、昔からあるように思えるが人工の土地なのである。やけに広い歩道は昔から人が多かったのでなく市場の人たちが歩道の上に駐車していたためである。最近交通取り締まりと築地の市場としての地盤沈下が歩道に駐車することができなくなった。
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浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄

2009年07月14日 | 福神漬
浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄
黒船来航時の浦賀奉行は戸田伊豆守氏栄だったが彼の三男が幕臣長井家に養子に迎えられた。その子が鶯亭金升なので戸田氏栄から見ると金升は孫となる。しかしどのような理由か経歴には長井家のことしか書いていないほうが多い。上野戦争を避けて長井家の知行地であった今の千葉県船橋で金升は生まれた。
 また戸田氏栄の5男が花香恭次郎で「福島自由新聞」創刊者の一人。福島事件に関係していて逮捕・投獄され明治23年に亡くなっている。

福神漬の歴史のキーマンとなる鶯亭金升に黒船が関係していたとは驚きである。
横須賀市久里浜にあるペルリ上陸記念碑のが終戦直前に倒され、戦後米軍が駐留すると倒した人たちが立て直したという。時代が変わる節目には節操のない行動がおこる。
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梅雨明けが近そうで

2009年07月13日 | 築地市場にて
電話の故障
梅雨時の決まりごとだが築地市場の電話が故障したらしい。老朽化した電話回線はどこが不通だかわからない。築地市場の休みの日は補修工事の車が多い。信じられないだろうが市場は江戸時代の風景が今でも見える。ADSL回線は不安定だし(雑音のため速度が出ない)光回線は市場内の書類作成が大変でなかなか進まない。
 電気の容量獲得に今でも苦労しているのは信じられないだろう。都が電気設備投資をしなければ金があっても冷蔵庫が作れない。

東京都は築地市場のお奉行です。価格の不正や衛生の監視を行って、江戸市民の健康を維持するべく働いています。
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にんべんの本 3

2009年07月12日 | 築地市場にて
にんべんの本 3
都市と産地の人間交流
にんべんの社史を読んでいたら、昔は生産者の人たちが都会にやってきて都市の消費需要を探るべく都会で働いて帰って行ったことを思い出した。今でも少しはあるのだが大学に行ったため時間が少ないか中途半端で戻ってしまう気がする。最近の食の事情の変化は過去の時代のスピードとは比べられない。昨年春は中国ギョーザの問題で国産指向が強かったが冬には安くてそこそこの品質があればどこでも良くなってしまった。
 こんな節操のない時代に短い交流で何が根本的な問題か発生しているのか解らないだろう。多すぎる情報は本質問題を隠してしまう。
 こんな問題を解決するには他のアイデアを盗むことになる。アイデアが盗みつくすと開発力が失われているので衰退するしかない。いいアイデアには多数の失敗の上にあって残るから、いきなり開発力がつくわけでもない。老舗の伝統は失敗の言い伝え相続かもしれない。
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にんべんの本 2

2009年07月11日 | 築地市場にて
にんべんの本 2
商人 ねじめ正一著は社史の『一筋の道』に沿って江戸時代のことを小説にしています。江戸商人・日本橋本を読みやすくした本だった。
10年前に出版した社史の最後に『食の事情は徐々に変化しています。日本では植物性水産性の食べ物から動物性の食物が伸びていますが欧米では逆に植物性水産性の食べ物が見直されている。醤油・豆腐が定着し日本食も拡大しつつあります。』大変な時代になってきました。カツオだしが世界に通用するには何か画期的なことをする必要があります。今日本酒業界が海外市場にゆっくりと進出して行ってます。
 漬物も『がり・甘酢生姜』が欧米の家庭に入って行きつつあります。日本という食のマーケットの中では人口という基本的な消費者の減少は食品老舗も伝統的な産業も工夫しなければジリ貧になるだろう。
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にんべんの本

2009年07月10日 | 築地市場にて
にんべんの本
日本橋にある「ニンベン」の本3冊を連続して読んだ。
一冊目「男に生まれて 江戸鰹節商い始末」 荒俣 宏著
二冊目「商人」                   ねじめ正一著
三冊目 一筋の道               株式会社 にんべん著

今鉄砲漬を販売させていただいている「ちば醤油」との関係が社史の中で書いてありました。
それぞれの本は内容が異なり、社史は会社の歴史で荒俣氏の本は幕末時代の苦労を小説風に味付けて風味をダシていたし、ねじめ氏の本は江戸商人の変遷史風にカビを何度つけて風味を出していたような気がする。社史からみると小栗上野介との関係が読み取れないのは割愛されたか小説の世界だったのでしょうか。小栗と三野村の関係はよく知られていますが日本橋商人(三井)との関係で小説に入れたのでしょうか。江戸の商人は特に日本橋の商人の相続は娘婿を迎えるほうが繁盛したようです。
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鶯亭金升終焉の地

2009年07月09日 | 福神漬
大田区調布千鳥町649番地
旧住所表示で今は久が原になっているところで鶯亭金升は亡くなった。この地は東急電鉄池上線千鳥町駅から直ぐのところにあるビジネスホテル『寒月』の隣に当たる。戦後住所表示が変って戦前の旧住所を知る人は少なくなり、不動産の土地台帳にその残骸が残っている。
戦争前に慶応大学の野球部のグランドが調布千鳥町のところにあって池上線の駅名も『慶大グランド前』という名前であった(大正15年)。実際は目蒲線武蔵新田駅のほうがグランドに近かったが、経営上の都合か野球部の部室の建物が武蔵新田駅より近いという理由で駅名が慶大グランド前となったという。慶応大学がグランドを日吉に移転すると、池上線の駅を移動し現在の位置にある『千鳥町』駅となっている(昭和11年)。
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あえば こうそん

2009年07月08日 | 福神漬
饗庭篁村(あえば こうそん、安政2年~ 大正11年)は、明治時代の小説家で演劇評論家。根岸派の中心人物。明治19年に京橋南伝馬町から下谷根岸に転居する。明治24年頃大久保に引っ越すまで根岸に住んでいた(この根岸の家に同じく根岸党の幸堂得知が引き続いて住む)。饗庭篁村のところに当時の文化人が集まったので根岸党と呼ばれていた。饗庭は酒を飲むだけで肴はあまり重きをおかない人だったという。山田清作(竹のや主人饗庭篁村)
 森田思軒が福神漬を酒のつまみとして食べていたころの話だから饗庭篁村も福神漬で酒を飲んでいたかも知れない。ただ食通ではなかったので食に関する文は少ない。
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日本缶詰史 第一巻

2009年07月07日 | 福神漬
日本缶詰史 第一巻
明治15年頃
北海道開拓使の缶詰製造工場の製品出荷価格は一缶23銭から25銭だったので売りたくとも売れる価格でなかったという。開拓使の工場の役目は缶詰産業の開発と技術教育が目的だったためである。
 明治23年頃から海軍が缶詰を買い入れるようになった。日清戦争後、軍用の牛肉缶詰40匁入り缶詰が1缶2厘で払い下げ販売したので人気となり、2~3年のうちに4銭~5銭に値上がりしたという。軍用缶詰の戦争後における格安払い下げは食文化・食生活を変化させる。
 福神漬の缶詰の普及も牛肉缶詰と同じ道筋をたどるのだが,日清戦争のときの資料は少ない。大倉喜八郎の大倉組の献納福神漬はタル入りで納められた。

明治15年頃
北海道開拓使の缶詰製造工場の製品出荷価格は一缶23銭から25銭だったので売りたくとも売れる価格でなかったという。開拓使の工場の役目は缶詰産業の開発と技術教育が目的だったためである。
 明治23年頃から海軍が国産の缶詰を買い入れるようになった。日清戦争後、軍用の牛肉缶詰40匁入り缶詰が1缶2厘で払い下げ販売したので人気となり、2~3年のうちに4銭~5銭に値上がりしたという。軍用缶詰の戦争後における格安払い下げは食文化・食生活を変化させる。
 福神漬の缶詰の普及も牛肉缶詰と同じ道筋をたどるのだが,日清戦争のときの資料は少ない。日清戦争後大倉喜八郎の大倉組の献納福神漬はタル入りで納められた。
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大石清之助

2009年07月06日 | 宅老のグチ
大逆事件で処刑された紀州新宮の大石清之助は鶯亭金升の運座の一員であった。明治30年頃から團團珍聞に投書をしていた。その中の一句「校書とはどんな本かと生徒聞き」團團珍聞1142号
日清戦争後物価が上昇しているときの句。
「米の値に太き吐息つきながら細き煙りもたたぬ貧民」
後に社会主義者となってゆく前の話である。鶯亭金升の周りの人々が明治という時代に迷わされて通過してゆく。
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村田保

2009年07月05日 | 福神漬
村田保
人物辞典によると
明治大正期の官僚・政治家
大日本水産会創設時の副総裁。大日本塩業協会会長。貴族院議員(勅撰)勲一等。
わが国水産会の功労者。
天保13年(1843)生まれ、大正14年(1925)死去。肥前唐津出身。
早くから新政府に出仕、司法官僚となる。明治4年英国留学、法律学を学ぶ。法律に関する著書がある。明治23年勅撰議員となる。水産学を志し、明治15年大日本水産会を創立、明治21年水産伝習所(今の東京海洋大学)創立することに尽力する。明治29年日本塩業協会を設立、会長に就任する。大日本水産会の幹事であったとき軍用として魚肉缶詰の採用を軍当局に勧告し、その結果として牛肉以外に軍需として魚肉を使用する缶詰を採用することとなった。日本の缶詰の発達したのは水産缶詰からで戦前は輸出品でもあった。 明治27年11月27日農商務省水産局、大日本水産会、大日本農会の連合主催として全国の缶詰業者の大会を開き大日本缶詰業連合会が発足、村田保が会長に就任した。
 また大正12年に缶詰協会の会合に鶯亭金升が参加していた頃、缶詰協会は日本和洋酒缶詰協会から分離する時期でもあった。

 道灌山の浄光寺にある『福神漬発明者野田清右衛門』と刻まれた表彰碑は村田保氏の揮毫によるものだった。福神漬の碑の建立者連名は当時の缶詰業界の人達だった。
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日本缶詰史より

2009年07月04日 | 福神漬
日本缶詰史より
藤野缶詰所
明治11(1878)年7月に開拓使が始めた別海の缶詰工場を、 明治20年2月に藤野辰次郎に払い下げ、缶詰業を操業しました。これが藤野缶詰所です。缶詰の販売には苦労したようで、最初はフランス等へ輸出していましたが食中毒の問題で輸出が止まると、救いの手が現れた、海軍であった。海軍は当初は輸入の缶詰を使用していたが海外からの輸入の途絶を考えて国産缶詰を一部に使用することとなった。明治23年のことである。
 この間藤野は日本各地に缶詰を売り込みに出たが東京でもあまり売れなかった。彼は海のない長野県に目をつけ鮭の缶詰を1缶5銭から6銭で販売した。後年信州で祝儀や不祝儀で缶詰の引き出物に使われる原因になったという。
 この件は信州の人にはまだ確認していません。
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明治44年12月

2009年07月03日 | 福神漬
明治44年12月
浄光寺 東京都荒川区西日暮里3-4-3
JR西日暮里駅の隣の高台は道灌山といわれた台地で、東が開けていて諏訪神社境内からの眺望が良い。福神漬の碑が明治時代に日本和洋酒缶詰新聞社風戸弥太郎社長ほかによって、野田清右衛門氏(福神漬発明の人)を賞賛して建立したものである。漬物問屋組合の東京漬物歴史探訪の一行が浄光寺を訪ねた時、寺の説明によると、野田清右衛門氏は福神漬の技法あるいは商いを、のれんわけという形で酒悦にゆずり、この世を去った。その後酒悦が年に一度ほど墓参を続けていたが、近年経営者が変わってからは(今は東洋水産)、係累も途絶えた。
 福神漬の祖ということについて異論のある人もあるようだが、少なくとも明治末期にこのように大きい顕彰碑を建ててもらうほどの業績のあった人だった。このことが漬物業界に長い間忘れ去られた原因は酒悦の福神漬が缶詰入りであったためである。同じ食品業界でも細かく分類してゆくうちに漬物業界から忘れ去られれたのである。
 今でも福神漬の缶詰はあるが一般には酒悦・国分(日本橋漬)の2種類しか手に入らない。あと防衛省規格の福神漬缶詰がある。
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貧すると

2009年07月02日 | 宅老のグチ
貧すると
この不景気を打破するべき新製品の開発のアイデアを求められているがお勧めできない。仮に画期的な商品があっても他社が直ぐに類似の品質の劣る商品によって駆逐される。POSデータ頼りの商品構成で店舗のある地域の年齢構成所得事情も考慮に入れず、本部の管理の都合で方針を押し付ける。下部は下部で工夫しても自由にならないから逆らっても無駄だと時間つぶし。店舗の管理者もリストラがあるから本部のいいなり。
今は販売情報が漏れないように新製品はテスト販売の時期かもしれない。市場の経営情報誌によると6月だけでも築地の水産仲卸が3軒が店じまいしたという。このペースで月平均2軒の店舗閉鎖が続くと来年末には水産仲卸が700軒の大台を割るのではないのだろうか。移転がなければ築地市場内の店舗移動があるから水産仲卸は大変だ。この辺の築地市場の事情は他の人達にはわからないだろう。

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