年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

刀豆 農業全書

2019年12月15日 | 福神漬
刀豆 農業全書 宮崎安貞 岩波書店
 なた豆を刀豆と名付くことは、剣 の形に似ている所以からきている。3月初めに植え、灰で覆い、古いむしろ其の外何でもこの類のくさったもので覆っておくべし。
 又種へよう、冬より穴掘り、肥え土を入れて置き、春になって一粒ずつ芽を下にして植え、少し土をかけ、灰にて覆い、土は多くかけず、その上に古い草履の類,何でも軽きもので覆い置き、五七日の後は取り去ってよい。芽立ち出でて根葉少し生ずるを見て、糞水をそそぎ、つる長くなるを待って竹を立て、これにまとわせ、又垣をゆひかきはゝするもよし。風にうごかぬ様に強くすべし。動けば多くは実ならず、これまた肥え地に糞を多くもちゆれば、過分に実なるものなり。ただし垣に種を得るにはその間を近く植えるべからず。
 どうやら農業全書では刀豆の用途・効能は記述されていない。
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船長論 逸見真著

2019年12月14日 | 宅老のグチ
約100年前に日本郵船の常陸丸船長富永清蔵 が責任を取って、自殺した。第一次大戦末期日本から欧州に向けて運行中、当時の敵対国ドイツ艦船に遭遇し、常陸丸に装備してある大砲の覆いを外した行為が戦闘準備とみなされ、砲撃され数名の船客船員が即死した。常陸丸はドイツ軍に荷物を奪われ、生きていた人は別の船に乗りドイツへ向かった。残された常陸丸はインド洋で爆破沈没させられた。
 その遭難事実の確認のため、日本政府は捜索隊を送り、途中の島で明治屋の練乳とか酒悦の福神漬の木箱を発見した。この報道が日本に入って数日後、常陸丸の乗員乗客の生存報道が日本に入った。しかし次の報道で船長の富永清蔵 が砲撃を避けれなかった責任を遺書を残して自決した。
 船長論の著者によると基本は船長は沈没時、死ぬことはないという。円高による運航費の高騰で日本人船長が激減しているという。少ない船員で大型化し、さらに沈没すると海洋汚染の責任が加わる。航行中は家族と離れるがこの部分を見越した給与は感じられない。
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NHKヒストリア特攻の疑問

2019年12月13日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
NHK
ヒストリア特攻という番組の演出への疑問。特攻志願についてだが自由主義者
上原良司が特攻隊員を志願したのは遺書から強制志願という演出だった。
 上原良司は学徒出陣で軍隊に入った。昭和18年11月だった。その後陸軍特別操縦見習士官の2期生に応募し、飛行訓練を受けた。当時この見習士官は学鷲と言われた特攻する意思のある飛行兵士を養成する制度だった。この応募は自由意志で私の叔父は実母に無断で特別操縦見習士官1期生に応募し、合格してしまった。下士官から始まった軍隊生活は比較的日本軍の理不尽ないじめが少なかった。早く飛行機の操縦部品となるように教育訓練していたようだ。
 私の父は昭和20年2月に召集となったが、年齢が35歳過ぎていて横須賀で海軍のトラックの整備運転をした。入隊して古参兵のいじめが酷かったが横須賀へ特攻のお別れを告げるため少尉となっていた若い叔父(父の弟20歳)が面会するといじめが消えたという。旧陸軍で常態化していた新兵いじめから逃れるため特攻が予定されていた特操2期生に応募したと思われる。飛行訓練を受ければ特攻志願は当然と思われる。
 私の親族でごく最近まで他人に特攻の遺族ということを話さなかったのは同時に出撃した少年兵に叔父が命令したかどうかが知らないためであった。さらに特攻で米軍に死者も出ていて戦争とはいえ相手の実名がわかる時代となった。生き残った米軍兵士の親族の軍隊仲間の交流でもトラウマがあったようだ。特攻は日本だけでドイツ軍は当たる寸前に脱出するのが基本だったようだ。
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NHKヒストリア特攻に押されて

2019年12月12日 | 宅老のグチ
昨日12月11日NHKヒストリア特攻に押されて、厚生労働省へ出す書類を急遽用意することとなった。来週から年末の雑事の日程が厳しく、今日済ますこととなる。個人情報の開示は厳しくなって、費用も掛かるが来年は終戦75年となるので何とか間に合わせたい。生き残っている人も記憶があるのは80代以上となってあいまいな部分も増えた。少し焦る。
 新しい叔父の情報で埼玉師範学校を卒業し、一時学校の先生をしていたという。昭和18年10月の陸軍特別操縦見習士官に合格するかどうかの空白の時間を先生をしていたのだろうか。この試験問題は土浦市の予科練の資料館で見たが結構難しい。英語と数学が難しそうだった。海軍は十数倍の競争率で陸軍は数倍の競争率で特攻志願していたようだ。
 特攻で志願して入隊したので他の人と違って最後はためらいはなかったと思うが同じ日に飛び立った少年非行兵は叔父が命令したかを知ることにためらいがある。
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米軍の暗号解読・武蔵野ふるさと歴史館展示

2019年12月11日 | 宅老のグチ

武蔵野市のふるさと歴史館のチラシを見て訪問しました。叔父が中島飛行機の制作した戦闘機(隼)に搭乗して気にしていました。B29による中島飛行機の工場だった武蔵野市へは割と早く空爆があった。その記録がアメリカの公文書館にあって、今回の展示は米軍資料による暗号解読によって当時の日本の様子がどれほど知られていたかを知る。

 この解読は江戸時代のオランダ医学書を苦心して解体新書を翻訳した経緯に似ている。翻訳自体は簡単だが暗号と軍隊用語・日本の漢字による地名などがあって、国籍の異なる人々によって少しずつ進んだ様子がわかる。今後全体がわかるまで時間がかかりそう。手書きの文書もあるようでこの解読が今後の課題となりそう。

 記録の残るアメリカと記録を残さない日本との差が目立つ。多くの失敗から新しい技術が生まれる。

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HIDEの墓もうでの帰りに当時の記憶を

2019年12月10日 | 宅老のグチ

HIDEの死去した平成10年5月の築地市場の記憶をたどると既にネット検索では築地市場カレンダ-が出てこない。(桜を見る会)と同じように検索の期限が切れているのだろうか。

 単なる1998年のカレンダ-だと5月3日が日曜日である。当時は市場も日本全国不況でこの年には大きな銀行が破綻している。そのような時期なので築地市場の5月の連休は3日4日の連休で5月5日は開市だと思う。HIDEは5月2日に急死しているので葬儀の手配は連休と会場の都合で急遽築地本願寺になったと思われる。このことはファンなら周知のことだが市場人は連休の手配で外部のことは気にしてはいなかったようだ。5月7日の本葬の記憶が無かったが確か青果門は開いていて、出入りする市場関連の車の通路分はHIDEの霊きゅう車を見送るため歩道に並んだ喪服の行列も通路は空いていたと記憶している。

 この1998年は少し前に青島幸雄都知事が湾岸地域で開催予定だった都市博覧会中止の混乱中だった。この後石原知事となり、築地市場の再建工事が中断している状況から移転という方針に変え物事が進み始めた。

 今から思うと平成の大不況で社会体制の外に表現を求めた若い人たちの苦悩があったかもしれない。特に体制に乗れない人(学歴がないとか女性とか)その共感が今でも三浦霊園に多くの生花がささげられていると思う。世紀末で次代への不安感があった。翌年になると2000年問題で少しは景気が動いたが、不動産特にゴルフ会員権の暴落は漬物業者を痛めた。

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HIDEの築地本願寺の葬儀は20年経っても記憶に残る。

2019年12月09日 | 宅老のグチ

昨日、やっとHIDEの墓を訪問した。築地市場の仕事で40年以上の生活で記憶に残ろのがHIDEの葬儀だった。築地場外市場は築地本願寺の門前市だった。今でも寺が場外市場に残っていて、激しい土地買い占めの阻止している。宗教法人は相続税の重圧から逃れるので今でも細かい土地所有で今後も残るだろう。外国人観光客の激増で築地周辺の変化が激しい。少し前といっても東京オリンピック招致が決まるまで築地はマンション開発が盛んだった。オリンピック招致が決まり、外国人観光客が築地市場へ来るようになり、時差ボケ対策で早朝から築地に観光客がやってきた。さらに忙しい築地ではテレビが来ても野次馬となって報道を邪魔するのが観光客だけだった。

 この様な芸能人に対して気に留めないところでもXJAPANのHIDEの葬儀は今でも記憶に残っている。ラーメン屋井上の火事、勝新太郎の葬儀(11000)地下鉄サリン事件、場内での刃物事件、度々の火事と復旧、究極は移転のゴタゴタと築地と豊洲を生かすということにあっさりと騙されたこと等がすぐに思い出させる。これからもゴタゴタは続くが離れたので混乱を楽しみたい。築地の問題は政治・宗教とか信念とかの衝突が比較的少なく赤の他人と話しやすい。

 HIDEの墓でファンと不自然に会話した。何が年寄りと共通したのだろうか。顔も歌詞も音楽も知らない人が三浦霊園で会話した。

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HIDEの墓へ

2019年12月08日 | 宅老のグチ

12月13日はXJapanのHIDEの誕生日で何となく天が良いので三浦霊園に行ってきました。もちろん彼が死去した時、歌どころか顔も知らない築地人でした。今日墓地内の店舗の人に場所を聞いて訪問しました。墓所には死去時中学か高校生くらいと思われる女性ファンが一人しゃがんでメモを書いていました。私の同伴者にヒデが亡くなったのが5月2日だが築地本願寺での葬儀が5月4日かとつぶやくとファンの女性が5月7日ですと答えがきた。その女性に私は5月7日にその葬儀を築地市場で見ていましたと言った。

 ついでにHIDEのファンのファンであるとその人に言っておきました。あの日5月7日は朝から多くのファンでその行列の情報が刻々と築地市場の人に入ってきました。最後のところは築地本願寺から晴海通りを回り勝鬨橋から下に降り佃大橋までつながったようです。葬儀が終わって着色した髪の人たちが留まっていたところのごみを清掃し帰ったようです。出棺で火葬場に行くとき本願寺から高速道路の汐留まで多くの喪服ファンで歩道が埋まっていました。築地本願寺の葬儀は多いがここまでのはHI)DEが最高でした。特にファンの態度は最高です。今日訪問して花が多く、遺族のお願いの通りに今でもファンが行動していることにまた驚きます。

 不埒な行為だとHIDEが怒ったようで車がパンクし、帰途車の販売店で4本のタイヤ交換となりました。ヒデの怨念かも。

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鶴見総持寺で

2019年12月07日 | 宅老のグチ

鶴見総持寺の山門脇の高台に第一次大戦の時、戦争に巻き込まれ沈没等の被害を受けた日本商船があった。この慰霊碑が総持寺にあったのを知って15年ほど前訪問した。それ以来の訪問で慰霊碑が動いていた。巨大な慰霊碑が東日本震災の慰霊の観音像で動されたようだ。観音像の隣に自由党の慰霊碑があった。明治の10年代の政府弾圧によって多くの死者を自由党は出してしまった。このことは今でも真相は分かっていない。子孫たちは今でも語ることは少なく歴史の闇のママが多いと感じる。

 総持寺の総受付で(総持寺百年)という本を紹介してもらった。この本を読むため横浜市鶴見図書館へ行き、郷土資料のところで読みふけった。郵船関係の慰霊碑はかなりあるようだ。

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長井五右衛門昌純の死亡日

2019年12月06日 | 福神漬

浦賀奉行の戸田伊豆守氏栄の3男が嘉永6年(1853)3月27日に幕府の記録に登場してくる。浦賀にペリ-が来る少し前のことであった。鶯亭金升 日記で当時西丸留守居の筒井政憲の斡旋で途絶えようとしていた長井家に養子となった。最初はペリ-来航時に深く交際し世話したと思っていたが、後の経緯を見ていると何か別の深い経緯があると予想していたが下記の資料でだれも追及することもなく今に至る。

 

大日本近世史料 柳営補任(りゅうえいぶにん)第二巻 内容紹介

江戸幕府の全時代にわたる役人の補任を集大成.職名別に人名をあげ,その任免,昇進,異動を明記する.幕臣根岸 衛奮(ねぎし もりいさむ)の編修により安政5年(1858)に成った本書は,幕府諸役人の人事に関する最も信頼できる史料である。
この様な信頼できる文献に長井五右衛門昌純は下記のような記録がある。
文政8年12月24日御先手加役より
天保9年10月24日  卒
文献上この時死亡したと思った。この後の長井家の記録が少ない。
 火付盗賊改の職だった長井五右衛門昌純は南町奉行筒井伊賀守として同時期江戸市中の治安維持業務を行っていた。
 
 江戸東京博物館図書室で(江戸刑事人名事典・火付盗賊改)釣洋一著の長井五右衛門昌純の項目を見ていたら、死去日が柳営補任の資料と異なっていた。一年くらいの誤差はあってもおかしくはないが安政3年7月13日(84歳)で死去し、四谷栄林寺に墓がある。長井家の墓は明治に本立寺に移転。釣氏は新選組の研究者で五反田本立寺にある長井家の過去帳から史料を得たのだろうか。本立寺の住職中島さんは新選組で函館で活躍した中島登氏の子孫である。
 もし安政年間に死去していたら、同じ二番町で隠居生活をしていた筒井政憲は安政6年6月8日(1859年7月7日)、死去。享年82歳。講談師松林伯円とも知り合いだったかもしれない。泥棒伯円は文化文政の時期の話が元になっている。
 御仕置例類集 続類集3 682
文政七年申年御渡
 町奉行 筒井伊賀守
 小普請河内山宗春忰河内山三之助外39名悪事いたし候一件
 

 

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小田原城の隣の報徳二宮神社で

2019年12月05日 | 宅老のグチ

晴天で富士山がよく見えるということで小田原へ行った。小田原まで下道で行ったが10時過ぎには着いた。小田原城内は犬付き散歩が良いようだ。城の外の相模国報徳二宮神社へ行き、境内の中にある飲食店が犬付きで食事ができる。その間に場内の小田原図書館の郷土資料室で小田原の梅の資料を探す。中の人から数冊出してもらいメモする。帰ってから都立中央図書館で読めると確認。あと気が付いたのは昔東海道線で冷凍ミカンを売っていた。これは小田原が発祥らしい。東京の市場では小田原産のミカンは見かけないが地産地消なのだろうか。帰りに風祭のカマボコやと大雄山へ行く。水曜日ということで透いていた。ただ報徳博物館が休みだった。

 昼の食事はきんじろうカフェで尊徳の呉汁(550円)。大豆を水に浸し柔らくして、すりつぶした汁を(ご(豆汁・豆油))と言い、語を入れた味噌汁なので(ご汁)と呼ばれた。今は熊本の郷土料理と紹介されることが多いが昔から伝わる料理という。食べた感じでは粗食ということ。たんぱく質が大豆からとれるので健康食だろう。きんjろうカフェは犬と一緒に食事ができる。残念なのは犬をつなぐ金具がなかったこと。

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江戸東京博物館7階図書館で

2019年12月04日 | 宅老のグチ

深川江戸資料館を出て、紅葉の清澄庭園脇の深川図書館へ行く。ここには江東区の郷土資料があるが入りにくい。何か目的の資料がないと入れそうにもない。糠関係の肥料の歴史か米の流通を調べるとき必要かもしれない。

 大江戸線清澄白河から両国駅へ行く。周りは工事だらけ。江戸東京博物館内は3回ほど入っているがここは元江東青果市場の跡地で度々漬物を納品していたことを思い出す。戦後の両国は千葉方面の始発駅であった面影が東京の交通の変化で時間が止まった駅という記憶が残る。

 エレベ-タ-で7階まで行く。このにある図書館は眺めがよく、開業時はレストランが3軒あったが今は1軒のみとなっていた7階から見える風景は掲示の案内によると江戸城天守閣の高さという。高層の建物が千代田と違って少ないので遠くまで見ることができる。

 江戸語辞典を探したが普通の図書館と同じだった。今日の収穫は釣洋一氏の火付改の( 江戸刑事人名事典)だった。

 

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江東区深川江戸資料館で

2019年12月03日 | 宅老のグチ

12月8日、まで深川江戸資料館で(判じ絵)の展覧会がある。ちょっと気になっていたので見に行く。ここには数回訪問しているのでボランテァの人に確認すると変わっていないという。例によって午前中は高齢者団体でにぎわっていた。9割は老女。大江戸線白川清澄白河駅下車のため無料。江戸資料館は400円。

 さて前回には気がつかなかったのだが天保の深川佐賀町を再現しているという。八百屋で大根、ニンジン、レンコン、ハス、クワイ、サトイモ等があって沢庵が二樽、卵(当時は高級品)こんにゃくがあった。築地の市場で青果部に卵の卸売り会社があった。豊洲にも移転した。卵が青果にあるのは築地ということでなく江戸時代からの慣習で青果部にあるのだろう。

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忘れた誕生日

2019年12月02日 | 宅老のグチ

仕事を辞めて、まだ4か月なのだがやることの速さで戸惑いがある。自分の健康と周囲の人たちの健康とのバランスでやることの速さの調節がまだ不安定。

 政治の世界も激動だが消える身の残り時間の想定がまだ決まらない。一日の進みが早い。年を取るとこうも早いのだろうか。行くところの約束は多い。ただ月曜日は休みが多い。

 近時のニュ-スで政府が検討している(医療制度改革で、75歳以上の受診時の窓口負担を「原則1割」から「原則2割」に引き上げた場合、公費や保険料でまかなう医療給付費を年約8千億円減らせると厚生労働省が試算していることがわかった。医療費を抑える効果があるが、75歳以上は収入が減るのに受診増などで窓口負担額が増える傾向が現状でもみられるし、財政状況で高齢者の年金の65歳から受け取りしない人たちも増える見込みは少ないだろう。)とあるがTVのコメントをする人や製作者は収入が多い人たちなので高齢者の危機感が感じられない。

 人口の年齢別の推移をみていると今の日本では生まれた時から男性が女性より多い。0歳は男の子が51.3%で女の子が48.8%となっているが移民等の年齢構成を無視して、57歳から58歳で男女が同数となる。その上の年齢では70歳では男47.7%女52.3%80歳では男42.7%女57.3%となり、90歳では男29.0%100歳以上では男15%となり、女性が圧倒的に多い。年金生活女性は夫の年金が夫の死亡で激減することを知っている。女性の長生きは男性が死去したのち、さらに少ない年金で過ごす。漬物は高齢者の食べ物で比較的安いが特売日の売れ行きが良い。100円の漬物をさらに安くなって購入する行動は老女のささやかな抵抗だろう。

 シルバ-パスを利用している人も女性の団体が目立つ。この長期健康女性は集まると節約と介護の問題、そして気晴らしで動いているようだ。この分析が収入があって、介護の話が具体的でない人によって政策や報道がなされているので結果として景気浮揚に繋がらない。墨田区の図書館で不審者が子供に声をかけることに注意とあった。犬付きと高齢女性は安心のようだ。一人歩きの老男性も昔なら咎めない少女の頭をなでる行動も痴漢扱いされるかもしれない。ビデオ録画が町中についているので道路痴漢もありそうだ。少女に道を聞いてもビデオでは痴漢か誘拐未遂となりそうだ。

 今浅草へ連日のように行っているがホームレスの人の小屋が激減していることを感じる。今年の台風で河川敷にいた人たちの被害が少なかったのは行政の努力もあるが景気が良く、仕事があったためで、スマホを持っているのだろうかピザの配達が河川敷の家に行っていたという話もある。アルミの空き缶回収の人も減って、少ない回収者が満載のアルミ缶を積んでいる。競争が減ったようだ。

 

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関東大震災の慰霊

2019年12月01日 | 宅老のグチ

関東大震災で最大の死者が出た所へ行ってきました。前は何回も通っていても入る気にはならず今日に至る。あの9月1日に日本海を台風が通過したいたことを今日知った。もし東京直撃の台風だったら違った被災となっただろう。火災被害者が減り、建物倒壊の加速があったかもしれない。当時の文献があるようだから漬物が終わったら調べてみたい。

 日本橋の被災で魚河岸の人たちが狭い川を船で逃げようとしていた絵があった。魚河岸の戒厳令による封鎖はいつごろから始まったのだろうか。

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