年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

2020べったら市開催中止

2020年10月16日 | 宅老のグチ
10月19・20日は日本橋のべったら市が開催されるが、コロナで中止となった。それなりの人出と出店の多さは目立つので道路上でサラ-リ-マンたちが飲んでいる風景は東京では珍しい風景だった。
 この時期は一般のス-パ-でもべったら漬の特売企画があったがことしは残念企画となったようだ。
 江戸時代から明治の時はべったら市が年末商戦の始まりだった。今はフランスワインの新物解禁の日しか消えたようだ。過去の日本の解禁風習は殆ど報道されなくなり、異国の解禁が騒ぎとなる。日本の農業技術の発展は古い仕組みを破壊することから明治時代に進んだ。べったら市に使用される大根の品種改良は暦の改変で市の開催時期が一月ほど前になったため、寒くならないとよい大根が出来なかったのを種とか栽培方法の改良で明治末期には練馬の大根がブランド化した。アブラナ科の植物は交雑が激しいので油断すると変化する。
 何か解禁のあるイベントが望まれる。
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叔父のビルマ作戦行動

2020年10月15日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
NHKのドラマでビルマ・インパ-ル作戦の悲惨さを朝見た。父の弟は昭和19年11月から12月終わり頃、タイの基地からビルマに移動し、飛行50戦隊教育隊に参加し、ビルマの空で活躍していたと思いたいがたった数か月の実戦経験で歴戦の英国軍や米軍相手では援護しかできなかったと思われる。軍歴の内容解釈から、ビルマでは整備系の補助だったかもしれない。恩給計算から飛行機には乗っていなかった気がする。これも靖国神社の図書館で教えてもらうしかない。
 昭和19年12月にはレイテ戦で海軍の飛行機を多数特攻で失い、陸軍の飛行機が残った。昭和20年1月にビルマから日本に戻り、一式戦闘機隼に機種変更し、常陸にある基地で隼の習熟訓練を2か月していた。
 ビルマの首都ラング-ンは今ヤンゴンと名前が変わり、国際空港もヤンゴン国際空港と名前が変わったが叔父の滞在中はミンガラドン空港という名前だった。へホという地方空港も2012年11月に行った。今は観光地インレ-湖へ行く人たちの空港である。山の中の平地にあって特攻した叔父の航跡を知っていたらとてもミャンマ-の旅は心落ち着いていけなかっただろう。まだ2012年当時は叔父の軍歴は知らなかった。戦後75年経てば先の戦争の傷で心に秘かに隠していたことが記憶の檻から解放され、公になってきたようだ。ろくな装備がなく無理な作戦で連戦連勝の報道に騙され、必要のない死を強制されていたと今では思えるが当時はやむに已まれぬ大和魂と思わされていたようだ。特攻隊員の遺書はいつも家族の行く末を祈っている。
 叔父の遺書らしきものはまだ見つからない。何か幽霊なものが存在していて、記録と記憶を残せとあの世から指図されていると感じる。
 戦後75年過ぎれば歴史の世界に入りつつある。写真とかで記憶を戻すしかない。
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いつの間に大谷図書館検索システム稼働

2020年10月14日 | 福神漬
築地市場にいたとき、近所の大谷図書館へ時々福神漬の資料確認へ行っていた。酒悦のホ-ムぺ-ジで五代目菊五郎との交遊の意味を探っていた。昔は図書館カ-ドで検索し、貸し出し票の内容を記載し、本を出してもらうのだが今はネット検索で蔵書が解るようになったようだ。明治26年に上演された遠山桜天保日記と2008年末に再演された歌舞伎とは最後の段が省略されていたようだ。この確認で大谷図書館へ行って、脚本を見てみたい。
1980年12月の歌舞伎座の公演の脚本も大谷図書館にある。遠山桜江戸白浪という演目となっている。検索の内容から2008年の構成と似ている。さらに明治26年に上演時の劇評をした饗庭 篁村(あえば こうそん) の記録も確認しなければならないだろう。
 明治26年に上演した時、作者の竹柴其水(たけしば きすい) が色々と天保の老人たちを取材し劇を創作したと思われる。従って最近に公演した台本は当時の意味もなく、上演時間節約でカットした終幕のため、劇自体の内容を観客に理解させることを難しくしたと思われる。天保は遠くなった。
 この件をしつこく調べるのは嘉永3年10月末に南町奉行配下の与力同心たちによって高野長英が惨殺された。生け捕りが基本の江戸町奉行の方針が一応高野の自殺と歴史書ではなっているが、鶴見 俊輔 氏の評伝本・高野長英では惨殺されたとある。
 要は冤罪(蕃社の獄)で逮捕された高野が放火によって長期逃亡した罪をどう評価するかで南町奉行遠山 景元(金さん)筒井政憲(元南町奉行)の判決に不満を示した突発的な与力たちの行動と思われる。江戸町奉行与力同心のメンツを無くす、江戸市内潜伏は生きて解放されるかもしれないと思っていたのだろうか。
 江戸時代の放火は100%死罪だったのだろうか。遠島は無かったのだろうか。
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ものさし

2020年10月13日 | 宅老のグチ
今の日本の土地などの面積を坪で表示する慣習がある。さらにス-パ-などの店舗内の模様替えも基本は旧の尺単位を使われている例が普通である。これは什器が日本家屋の計測から来ていると思われる。商品の企画も30センチの所の争いとなる。
 築地にいたとき海外に日本食を輸出していたので、日本食貿易会社から提供された商品表示シ-ルを日本語表示の所に正確に張ることをすることになる。輸出する国の言語と取り扱う現地販売店の住所を入れたシ-ルである。もちろん貼る手間はもらうのだが何かのミスで納品期限ぎりぎりで届くこともあったあまり受注したくない仕事だった。それでも利幅が採れる仕事のエサと思い納得させていた。
 量が多くなれば英語圏なら印刷しても採算が取れるので、もっぱら回ってくる仕事はこだわりの商品が多い。
 暇にまかせて、裏面に貼るシ-ルの内容を確認していたら、アメリカなどはポンド表示でグラム表示では無い様だ。昔昭和30年頃のプロレスで選手紹介でxxxパウンドと言っていた。体重と思っていたが今でもキログラムと言っていないのを当時は不思議と思っていなかった。多分アメリカのレスラ―を日本人レスラ-が最初はやられても最後に勝つという演出に浸っていた。アメリカに敗戦した虚しさを街頭テレビのプロレスで憂さを晴らしていた。
 日本の計量はいまメ-トル法となっているが尺の基本の物差しは内田弥太郎が持っていた江戸時代のものが基準となり、国立科学博物館に所蔵されている。
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京成四ツ木駅 隊長小翼 キャプテン翼駅

2020年10月12日 | 宅老のグチ
半年ぶりの公共交通機関利用での外出。東四ツ木の木根川薬師へ行くことにした。京成押上駅から千葉へ向かって、高架線路となって川が見えると四ツ木駅に着く。ここはサッカ-漫画の駅だった。多言語でオリンピックの観光客を歓迎しているようだった。コロナで寂しい風景。駅を出て川沿いに南下し、広い道に出て東四ツ木地域センタ-で迷子となったことを申告し、付近の地図をもらう。結果としてもう少し直進すれば木根川薬師にすんなりついた。道案内の標識は少ないので参詣人は少ないと思える。この薬師は大正時代の荒川放水路のため、今の荒川底になった村から移転させられた。今の薬師から南東600mの川の中から移転したという。水害危険地域で薬師の本堂などが少し上げ底で高い。この東四ツ木地域は空襲の被害を受けていない気がする。狭い家並みはマンション林立の世界と異なり昔のと言っても昭和の家並みが続いている。帰りに荒川の鉄道鉄橋上から下を見ると水害を防ぐための犠牲となった住民の記憶と記録が薬師に残っている気がする。
 明治初めの物産調査で上木下川村〈カミキネガワムラ〉が唯一の刀豆の産地だった。この荒川の下にあった上木下村の住民は水害防止の公共工事で住民がばらばらとなり刀豆の産地としての記録と記憶が消えたようだ。
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BS朝日の福神漬の取材を受けて

2020年10月11日 | 福神漬
多分2週間後にBS朝日で福神漬関連の放映がある。漬物業界の新聞社から、最終確認の取材の電話が回ってきた。漬物業界では既に誰がこのブログを書いているか知れ渡っているが不要不急なコメントを増やさないため、仮名のまま続行中である。
 番組制作者から電話が来て、今までの取材内容を聞くと、どうやら2年前にNHKチコチャンに叱られる程度のレベルだった。これではNHKからパクリと言われてもおかしくないよと言った。日暮里の浄光寺にある福神漬顕彰碑には行ったようだが碑の裏面にある発起人の中の山田箕之助のことまで行っていない様だ。ほぼ1時間ほど福神漬の命名時の意味を知らせたが、混乱を増したようだ。
 時間がないので多分NHK程度の放送となると予想する。こちらが既に15年ほど調べていた話を5分程度にまとめることは無理だろうし、事実と文献確認だけでも時間の無理がある。
 なぜ著名な漬物の福神漬は明治の創製なのに難しいかと言えば、酒悦が代変わりがあって、今はインスタントラ-メンで知られている東洋水産の子会社となっていて明治期の資料が伝わっていない様だ。
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武士の商法からの救済商品 福神漬

2020年10月10日 | 福神漬
福神漬の商品開発の歴史を調べていると、明治の10年代の松方デフレ時代に下谷池之端付近の需要にあった商品を開発する意図があったように思われる。
 福神漬伝説の中で長野県飯田市出身の上野公園整備に活躍した田中芳男説は大正4年頃刊行された缶詰関係の本(大日本洋酒缶詰沿革史 )から出てくる。
この説は上野で開催された水産博覧会で見た缶詰に酒悦主人が構想を得て、上野の観光に来た人々に持ち帰る商品として開発した。そこで田中芳男等の水産関係の技師が命名したと書いてある。この説が大正12年頃まで一般には通説となっていたようだったが大正12年7月に行われた日本缶詰協会の缶詰品評会の席で鶯亭金升が命名に関する自説を発表した。
 田中博士の説は缶詰という産業を興すことが博覧会の目的で旧来の仕事の改革だけでは失業した武士の職場確保が必要だった。当時の輸入缶詰は欧米の食生活に合わせた食品で味的には日本人に馴染まない食品だった。そこで醤油で味付けた漬物を缶に入れ上野に来た観光客の持ち帰りの食品とした。塩分が強く、未熟な加工技術でも食品として成り立った。ただ缶に入れたため高価となり販売には苦労した。言い伝えでは明治の10年代から商品開発は始まっているという。しかし、当時としては最先端の食品容器に入れたため、高価となり販売には苦労したと思われる。そこで近所で繁盛している薬鋪守田宝丹の商品宣伝方法を見習い広告宣伝することを考えたようだ。評判の戯作者に商品名の命名を依頼し、広告文を考える。宣伝文では福神漬を食べると他のオカズがいらないので節約となるとうたわれていた。
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豊洲市場ネタ

2020年10月09日 | 宅老のグチ
築地市場が移転して、豊洲市場が開場して2年になる。その間の細かな事情を知らない外部のライタ-が様々な豊洲市場の欠陥を報道している。そしてその欠陥報道は最後まで移転反対していた水産仲卸の方が多いように思える。ライタ-の取材先は反対の声を拾う方が読者受けする報道会社の意向を受けて取材する。
 築地でも盛業している水産仲卸は築地市場内に多数の店舗を構え、さらに月島や中央区外に作業場や経理事務を持っていて、移転しようが築地にとどまろうがどちらでも良く、だだ豊洲の市場に対しての風評を心配していたようだ。
 漬物も北海道札幌でO-157の大腸菌汚染で納品した漬物により、高齢者が多数亡くなった。これは今でも単独のO-157事件での死者数の記録となって、まだ更新されていない。ハクサイの危険が報道され、北海道だけでなく全国のハクサイが暴落した。この件の状況は農林水産省からシバシバハクサイの売れ行きの問い合わせが入った。夏のハクサイは漬物需要しかない。風評被害は恐ろしい。今度のコロナでその怖さを興行・飲食業界は知ったと思われる。

 豊洲市場の問題点は様々な業界の意見と設計会社と東京都の情報交換が不十分だったと思われる。時間があったのにかかわらず移転反対だからといって新市場の設計に水産部の人たちが熱心でなかった。
 豊洲開場後に来た、生命保険のおばちゃんが言うには青果部は整然としていて、水産部は使いにくいという意見が多いという。その差は移転賛成の青果部は個々の細かな仲卸業者の意見を取りまとめていた気がする。水産部は個々の仲卸の必要な施設の意見を聞くことは無かったのではないのだろうか。仮にあってもマグロの設備と佃煮・カマボコなどの仲卸は設備思想が異なるから無理であろう。地方の水産仲卸と築地は規模が異なり前例が役に立たない。要は業者数が多くて、まとまらなかった。
 築地市場の経営状況を把握していたのは場内を顧客としていた生命保険のおばちゃんだろう。
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犬の寿命

2020年10月08日 | 宅老のグチ
日本の多くの家庭は戦後に医学が発達したため長い間葬儀というものが稀であることに慣れた。戦前は戦争が意識しないで死というものを考えさせられた。黒船が来て開国となり、蒸気船で世界中から免疫のない感染病が港から日本各地に感染が広まった。さらに医学が未発達のため、平均寿命が低く家族全滅ということもあった。戦前の極端に早い婚姻は子孫が絶えてしまうという共通の認識があって未婚ということは男女ともに一人前とはみなされなかったようだ。子供を多数産み、足りない親族に養子縁組をして家系を守る制度が残った。明治期の文献を見ていると、高等女学校を卒業することは売れ残りを意味していて、卒業証書より縁談が優先されていたようだ。学校内の父兄参観は嫁取りの品定めの場でもあったようだ。寿卒業は誉れでもあった。
 戦後、死者が減り、長寿となって葬儀も派手になった。今度のコロナで死というものを突然来て、骨となってしまうことを意識したようだ。戦地の死者と同じ感じがした。
 10月5日の日経夕刊で犬のコラムがあって、スイスでは犬の寿命を「神様の贈りもの」と言うことがある。英語の「Dog」(犬)を逆さまにする「God」(神)だ。十数年の犬の寿命は生きるということ死ということを考えさせ、ペットロスになっても再びロスを知りつつ犬を飼う。人間100年の寿命なら数回はペットロスを経験する。生き物の死は人生を考えさせる。
 
 犬は普通十数年の寿命なので、生後数か月後から死までを見ることになるが、飼い主の人生を仕事や家事だけでない生活を豊かなものにする。

命を(頂きます)と念じて、肉を食べる。ビ-ガンとかは魚も食べない様だ。様々な食生活が今日本にやってくる。

 夕方 スイスでの話でスイスって英語なのという疑問が出た。多分スイスで聞いた話と書き間違えたと思う。
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命の選択の月になりそうで

2020年10月07日 | 宅老のグチ
9月末の母の百歳を無事通過して、GOTO政策の実施を確認して旅行プランを考えていた。浅はかだった。土曜日、柴犬が態度不審で急遽動物病院に行ったら、手術しないと失明の恐れがあるという。犬の寿命からあと数年なので判断に迷う。土曜日に眼圧が80だったので医者の治療効果で日曜日に13まで下がった。通常は20以下で正常値に下がり、見た目では薬で何とかなりそうというが再発すれば眼圧で網膜が破壊され、失明となる。手術で眼圧を下げるのだがいつまで下がったままでいるかは神のみぞ知るという。
 夕方妹がやってきて、母が百歳になったので話があるという。昨年暮れ有明の癌研病院で抗がん剤ショックで30分ほど心肺停止だった。慣れた抗がん剤だったが二度と同一の抗がん剤は使えないという。代わりの抗がん剤投与が始まったが腫瘍マ-カ―の数値の低下がみられないので抗がん剤投与の中止を考えているという。これも母が百歳になるまでは死ねない、先に行けないという想いで頑張ったのだが区切りの日が来てつらい抗がん剤治療を断念する意向のようだ。この先どうなるか解らないが築地で同様な相談を受けたことがあって、有明は良心的な病院と思った。5年前に10年前のガンが再発し、千葉県の病院で見放され、ステ-ジ4で肝臓に4センチになったガンがあった。遺伝子解析で抗がん剤投与が始まり、一時は転移したガンが消えた。通常5年で過ぎれば治癒と言われるが再発ガンはそうでもない様だ。抗がん剤治療は医者による患者の貯金を引き出すこともあると感じていた。目標としていた母の百歳を区切りとしてガン治療をやめる様だ。ガン治療は患者に金銭で命を延ばすことを考えさせる。どこかで抗がん剤治療を打ち切らないといけない時がくる80まで動ければ合格かもしれない。

 母の百歳達成の虚脱感は想像もしていない所からやってきた。

追伸 普段は大人しい柴犬は動物病院へ行くと、周囲の犬たちの反応が感染し、凶暴になる。いつも診察時は妻と看護師で押さえつけて、眼圧を図る。手術も麻酔でしたようだ。結果がでて半分成功とのこと。今日も又眼圧を図りに行く。送り迎えも自動車送迎。人間の介護以上に世話がやける。

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築地市場消滅2周年 いち早く逃げるネズミは何処へ

2020年10月06日 | 宅老のグチ
良くことわざで沈没する船からいち早く逃げるのがネズミという。そう言えば干支の一番初めにネズミとなっているが足の遅い牛に載って遅刻しないように付いて行き、最後に飛び降りて一番になったと言う逸話もある。
 築地市場が10月6日に閉鎖されて今日で2周年になる。随分昔と言う感じがする。あれほど騒いでいた多数見かけていた太めのネズミは何処へ行ったのだろうか。豊洲へ移転後、封鎖された築地市場のバリケ-ドは高く、地面に食い込んでいてとても脱走して、銀座.築地場外市場へ行った気配は無い様だ。すると餓死しかないが目撃情報は無い様だ。民主党政権前の菅直人さんが新聞記者を引き連れて築地川を視察した。幅10Mくらいの水たまり。潮の満ち引きで流れはあるがネズミが浜離宮のネグラから通勤してもおかしくはない距離である。石垣の隙間は絶好の子育てで安全安心と思われる。
 引っ越し前に築地市場がみんな大掃除していたので危険を察知しいち早く逃亡したのだろうか。
 ミドリの狸の口車に騙され2年がたって、跡地には更地が残った。コロナで余裕資金が消えた東京都の財政は狸のドロンで売ってコロナ対策とするのだろうか。
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狼俠  本屋で売っていない本

2020年10月05日 | 宅老のグチ
狼俠  -芸能界最強の用心棒が明かす真実-笠岡 和雄著
この本をどこから検索してたどり着いたか忘れた。ただ図書館から連絡が来て、蔵書は見つからないので、他の図書館から借りてくるので時間がかかりますと言われた。万引きされたようだ。アマゾンの検索によると本屋で売っていないというコメントがあって詳細を見ると、何か騒動のある本らしい。記憶と辿ると最近の芸能人の自死の件で検索しているうちに出てきた本だ。コロナで古い興行世界が崩壊しつつある。不安だろう。
 メール連絡があって数日経って本が届く。読み始めると日本青年社という右翼団体の幹部が著者のようだ。この団体の街宣車は築地市場の隣にある朝日新聞の周りを騒音をまき散らしながらシバシバ徘徊し〈場内から見ると〉、後ろに警視庁の機動隊の車が付いていた記憶がある。もともと築地市場は歩行者の少ないところ(多いのは場外市場)で右翼の自慰行為と見ていた。韓国の慰安婦団体と同じで集金するには目立たないと意味がない。
 慣れない右翼街宣車が築地市場に一度午後に入ったこともある。さんざん築地の手鉤を持った人に睨まれて帰っていった。場内はクラクションさえ鳴らすことは睨まれる。まして電話を妨げる街宣は鉄の塊のフォ-クリフトには勝てない。
 それにしても右翼も左翼も年取った人が活動している。豊洲は閉鎖空間なので外の音は入ってこない。
 あの築地移転騒動は何だったのだろうか。今でも地下から汚染が出ているが豊洲の商材が汚染され危害を受けたという話はまだない。

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御犬様の病気により、goto旅行費削減へ

2020年10月04日 | 宅老のグチ
土曜日夕方の柴犬の散歩途中に急に散歩を嫌がり、抱きかかえて家に帰る。12Kほどあるので重い。家に帰ると犬の御主人の診断で急遽動物病院行き。医者の診断では早期発見だが眼圧が80になっているので間もなく失明するという。そのため緊急手術を月曜日に行うという。この結果ペットホテルの同伴旅行は消えた。コロナで自宅軟禁を耐えていられたのは忖度にない御犬様のおかげであると犬の御主人は言う。

 金は天下の周り物、蟄居では世間が回らない。コロナで現在日本人の2000人の死者か失業不安で自殺者が多数出るのとどちらが良いのだろうか。コロナは見方によるが高齢者の天からのリストラ菌で簡単には負けられない。あらゆる既存の制度が暇な時間で見直し作業となる。変わらないと次の十年以内に新規感染菌が中国から春節時期にやってくる。年が明けると2月の閑な時期の新規の感染菌不安か観光客の爆買いかの究極の選択騒動が待っている。
 自宅蟄居でコロナ菌は避けても、経済が回らなければいずれ年金(念菌)も削除され、外部に出る(働く)しかなくなる。人間は動物である。ゆえに動き回ることが体に良いことになっている。
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ゆりかもめ線 市場前駅

2020年10月03日 | 宅老のグチ
平成18年 2006年に新橋ー有明間のゆりかもめ線が豊洲まで延長開業した時、市場前駅が出来た。この駅名の後講釈は鉄道史を研究している人に解明されると思うが当時の気分として、東京都の築地移転を考えている人たちの意思表示と考えて方が良いだろう。築地ブランドを信奉している人たちは新しい移転先に新築地市場のように書いている人もあった。築地人は中央区で都落ちの気持ちが当時からあった。天下の築地から川向こうの江戸時代の災害処理の埋め立て地のイメ-ジがあったかもしれない。
江東区砂町は江戸時代のごみから生じる発酵熱で温室栽培をしていて、冬に夏野菜の茄子を食べるということが贅沢な夢だった。初夢の初茄子はおめでたい夢だった。勝鬨は明治の埋め立て地で大川(隅田川)の向こうで戦前中止となった東京オリンピック1940の会場予定地だった。
東京都の条例による市場名の付け方は地名優先である。従って神田にあった青果市場が大田区に移転した時も、新神田市場とはならなかった。千葉県浦安市の東京デズニ―ランド、成田市の東京国際空港は当初から無かった。さりとて市場が移転すると決まっていない段階で駅名を市場前としたのは危険な賭けだった。移転反対派への無言の圧力だったが、戦前の日本橋魚河岸の移転でも様々な些細の問題が表面化し、対処に時間がかかった。コロナがあと数年早かったら築地はまだ残っていたかもしれない。IRで賭博場計画もコロナで風前の計画となりそう。

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東証の事故で言論統制の新聞のよう

2020年10月02日 | 宅老のグチ
今朝の新聞の株式欄は数字が無く、戦時中のというより明治期の政府の検閲で生じた部分を白紙のまま発行した時代を思い出す。
 今日にも復旧する様だが失った信用は大きい。いつも思うのだが切り替えの恐怖症があるようだ。一時的な切り替えのバックアップ装置が無ければ正常に動いていたシステムをテストとは言え切り替えのリスクがあってたまにしかできない。まして不意打ちの故障は判断時間との競争である。事故は人手のないときにおきる。人手の多いときの事故は手筈が整っていて事故扱いにならず経験の積み重ねとはならない。一人二人で対処の訓練はいつも必要だ。
 築地市場内で瞬間停電が一回あった。業務の閑な午後で再起動処置で終わった。コンピュターの故障は関係ない部署を慌てさせる。
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