年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

第一次大戦と福神漬

2022年03月01日 | 福神漬
第一次大戦の始まり。1914年6月28日、ボスニアの州都・サライェヴォを訪問中だったオーストリア帝位継承者夫妻が、セルビア人に暗殺されるサライェヴォ事件が起こった。 
 これからヨーロッパで二つの同盟国同士の戦争となり、日本はイギリスと手を結んでいたので参戦し、中国大陸や太平洋のドイツ領を攻撃占拠した。平穏になったアジアは戦場となった欧州向けの物資の補給地となり、空前の活況となり、宴会の席で紙幣を燃やして、灯明としたバブル景気だった。日本政府は欧州航路に向かう日本籍船舶に戦時海上保険制度を整備し、戦争被害を受けたら、日本国が補償するということになった。
 第一次大戦の終わり頃、苦境になったドイツは世界中で敵国の物資を積載している船舶を無差別で攻撃し始めた。この結果中立国だったアメリカが大戦に参加し、戦後に覇権国家となった。

 大正6年9月日本郵船の常陸丸はインド洋で行方不明となった。その捜索に日本は国を挙げて探した。その結果今のモルジブ諸島付近の島で酒悦の福神漬の木箱が発見された。そのほか多数の常陸丸のものと思われるものが発見され遭難が確認された。
神戸大学電子図書館新聞記事検索
常陸丸捜索顛末 : 昨日郵船会社本社に於て捜索船筑前丸副監督山脇武夫氏説明 : 印度洋捜索経過の発表 : 常陸丸の行方不明と保険問題   

 神戸大学の新聞記事検索で、(福神漬)と検索すると、日本郵船の常陸丸の記事が出てくる。そして記事の内容は戦時海上保険請求問題だった。
 福神漬がなぜ戦争時の保険問題となるかは当初は判らなかった。三菱グル-プの社史を読んでゆくうちに、東京海上火災保険の戦前の社史に詳しく書いてあった。今は東京海上火災保険は三菱グル-プだが第一次大戦後に不況となり、三菱海上保険と合併し、中立的な保険会社が三菱の資本が多くなった。これは日本郵船の発足時に似ている。海上保険の値引きがなかった東京海上が新興勢力の三井海上・三菱海上に顧客を取られ、落ち目になっていた。


 
常陸丸の捜索は日本郵船にとって重大な問題であった。インド洋の自然災害で遭難したら、日本政府からの戦時海上保険の対象外となってしまうので必死だった。大正7年に捜索隊がインド洋で酒悦の福神漬の木箱、明治屋の練乳箱などが見つかった。数日後にドイツから常陸丸の乗員乗客が捕虜となり、日本中が安心したが、常陸丸の富永船長がドイツに着く寸前に投身自殺したという。この件で最近出版された(船長論-引き継がれる海の精神-出版年2018年9月 逸見真著)で韓国のセゥオル号船長が乗客の救助指示前に逃亡した件を比較している。海事の船長は生き残って事件を報告する必要性があるという。




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