年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

つくばの実験植物園へ

2022年09月15日 | 宅老のグチ
前から気になっていた筑波実験植物園に行った。ネットで調べたら以前には刀豆の画像があった。今はないと思うがつくばイクスプレスに乘ったことがないので行ってみた。
 大江戸線新御徒町駅で乗り換えたのだが直結の駅で改札の駅員に乗り換え方法を聞いた。まずシルバ-パスを改札に通し、それからスイカをタッチすると通過できるという。不思議な感覚だった。帰りは終点まで行ったので通過方法は判らない。つくば駅までは1000円を超える。駅前で迷い、交番で実験植物園の場所を聞く。最初の警察官のおすすめはバスかタクシ―のように感じたが歩いてゆくと言ったのであきれた感じで教えてくれた。事前調査で45分ほどかかりそうだった。三番目の信号のある交差点を左折し、20分ほど歩く。つくば市は都市計画があって出来た都市で整然とした車道で広い。それだから3番目と言っても遠い。途中セブンイレブンで飲み物を買って熱中症予防をしたが、飲み干した容器を捨てる自販機が少ない。車移動が多いのだろう。
 つくば実験植物園について320円支払い入る。感じとしては有料公園と思う。温室のバナナが一番人気という。他の人気の植物も見慣れたもが多い。ヒョウタンを久しぶりに見た。園内で絶滅危惧の植物がいま日本国内の25%ほどあるという。これらの保存と現状維持を図っているようだ。今でも多くの医薬品の研究は植物由来がまだあるようだ。園内を見て、入り口で係の人にバス停の場所と時間を聞く。15分強の時間があったので植物園前の吉野家で牛丼を生姜たっぷりで食べる。426円。
 関東バスでつくば駅に行く。歩いて45分が10分弱で駅に着く。この頃電車に長時間座っていなかったので尻が痛くなった。
 
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フェ-トン号事件から始まる福神漬の歴史4

2022年09月13日 | 福神漬

 多くの幕末関連の本は明治初めの函館戦争後で殆んど言ってよいくらい消えている。大政奉還後に鳥羽伏見の戦いがあって戊辰の戦乱が続くのだが庶民の生活には何があったのか知ろうとすると文献の量も少ない。当時の庶民といっても記録を残すことの出来る人たちの研究がまだ少ないようだ。

 浦賀の町にあった塩商人と浦賀与力たちの開国後の浦賀の様子はどうだったのだろうか。この辺を理解しないと戊辰戦争の最後の戦闘で浦賀でペリ-の船に最初に乗り込んだ中島三郎助と千葉行徳の漬物商人がなぜ函館で同じ日に戦死したかの解明が進まない。開国後長崎のほかに通商を行う港が横浜・神戸・函館・新潟と徐々に増える従い、浦賀の重要性が減っていったと思われる。町を活性化する活動が塩を扱う商人たちで中で行われていた。同時期の長崎も同様な悩みもあったようだ。明治期の東京で活躍した人で長崎から東京へ移った人に福神漬の歴史に出てくる人が多い。何故なのだろうか。地方の行政官(町与力)と言う現場を仕切る人たちが激変した情勢からいかに町を活性化するということは今でも行われている。江戸幕府から任命された長崎奉行は平和な時期で長崎貿易が縮小時期にかなり苦労したようだ。経済が縮小する時期に税収(上納金)上げようとすると無理がある。長崎奉行戸田出雲守氏孟はかなり無理な行政を長崎で行ったため在任中に死去した。多くの悪評判が文献として今に伝わり長崎本には市民に評判が悪い長崎奉行と書かれている。当然その子孫(戸田伊豆守氏栄・長井越前守昌言・鶯亭金升)は先祖を語ることは少なく不思議だった記憶がある。

 木村直樹著 長崎奉行の歴史から

福神漬の歴史で文献に今でも残るのは1804年に突然長崎にオランダ船という偽旗を掲げて、入港し長崎奉行が慌てたフェ-トン号事件がある。長崎奉行は不始末の責任を取って自決した。警備を届け出もなく縮小していた肥前藩も処罰を免れなかった。イギリス船が長崎に来た理由は、ヨーロッパのフランスとの戦争の余波だった。そのことから、日本史がアジア史の世界から世界史の世界に入った事件だった。フランスのナポレオンは軍隊用の長期保存でき持ち運びできる食品開発を求め。懸賞を出していた。これが缶詰の始まりとなっている。実際に缶詰が普及したのはイギリスで完成したのはアメリカとなっている。国土の広いアメリカでは多くの激安缶詰食品がアメリカの量販店で陳列されている。
 福神漬の文献で缶詰協会の日本缶詰史ではコラム扱いとなっているがそれなりの存在感がある。なぜか不思議な想いがあって、今は神田に移転してしまったが有楽町前にあった時缶詰協会を訪問し、色々な資料を頂いた。


 

 

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薬事法に触れそうで刀豆の薬効

2022年09月13日 | 福神漬
福神漬に入っている刀豆の薬効は今から15年ほど前はネットに出ていなくて、調べるのを断念していた。先日台東区の図書館のリファレンスで原色牧野和漢薬草大図鑑というのを教えてもらい薬効を確認した。
 ネットで今出ている効能を書くと次のようなものがあるが、本当に効能があるかは判断できない。
 一番気になるのは口臭を減らすナタマメ歯磨きで、普通の歯磨きの倍以上の価格だった。
次によく新聞の通販広告で「なたまめ茶」には、なた豆特有の成分のほかにも多くの成分が含まれており、 その中でも、赤なた豆にはポリフェノールが多く含まれているとされています。 なた豆に多く含まれているのは「タンニン」で、殺菌効果や高い抗酸化作用があり、血中コレステロールを低下させたり、高血圧・動脈硬化・脳梗塞の予防といった健康効果や、活性酸素の除去(酸化予防)といったエイジングケア効果も期待できます。
 ただこの様な刀豆の薬効は本草書には見当たらなかった。今の薬効はナタマメの成分分析から導きだされている気がしている。ちなみに牧野の本では薬理は未詳とある。体内を温め腎を益するなどの効能がある。
咽喉(いんこう)頭結核、腰痛を直すと言われる。その他の効能もあるが刀豆の通販宣伝には見当たらない。

 中国の明の時代に書かれ、日本でも江戸時代に出版された漢方の教科書「本草綱目」の中でなた豆が「腎を益し、元を補う」と紹介されています。腎臓にも良いと刀豆茶の宣伝もあります。中国来た漢方薬は何らかの経験知識からの言い伝えで来ていてどんどん薬効が解明されてきています。
なた豆と腎臓. なた豆は歯槽膿漏や蓄膿症などの「膿取り効果」も宣伝文にあります。
 上記の様々な刀豆の薬効は福神漬の宣伝文にはないのです。酒悦主人が明治の10年頃に上野の地域が戦争で荒廃したところから、観光で上野寛永寺の復活するに従い、増える観光客への食品開発をした様です。最初は3種類の野菜の漬物で作って、後に上野公園内で開催された水産博覧会で見た缶詰に開発した漬物を入れ、持ち帰りの出来るようにしました。しかし当時はお茶を保管する茶筒職人が手作りして缶を作っていて(日本製缶協会のHP)、缶も高価だったようです。そのため販売価格が高価すぎて中々売れなかったようです。そこで当時の池之端の老舗薬屋の守田『宝丹(寶丹)』 の宣伝を参考にしました。又は相談したかもしれません。
 活版印刷の普及と学校制度で読者人口が増え、江戸時代の戯作本が木版から活版印刷で出てきました。木版から大量に出版できる活版印刷で江戸時代の戯作本の出版ブ-ムがありました。梅亭金駕の(妙珍竹林七偏人)もその中の一冊でした。その本で池之端の香煎茶屋での話があります。江戸時代には酒袋・酒好.酒悦と3軒あったが明治まで残ったのが香煎茶屋が酒悦でした。
 そこで酒悦主人が文京区白山上に住んでいた梅亭金駕に新商品の命名を依頼したところ、三種の野菜を七種にし、江戸時代からの谷中の七福神詣でから(福神漬)と命名したと、目撃者の鶯亭金升が大正12年7月の日本缶詰協会(缶詰時報2巻)に語っています。それまでの福神漬命名説は大日本水産界の人と田中芳男の命名説が有力だったようです。従って福神漬の商品としての完成時期は明治18年頃と推測されます。

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南葛飾郡誌より ナタマメ

2022年09月12日 | 福神漬
こく‐しゅく【穀菽】
〘名〙 穀類と豆類。
一般社団法人日本雑穀協会のHPでは定義があって
雑穀の定義
古くからの類型で穀物は、主穀、雑穀、菽穀、擬穀に分けられ、主穀は主食作物であるイネ、コムギ、トウモロコシを指し、雑穀はイネ科作物のうち、小さい穎果をつけるヒエ、アワ、キビなどの総称です。菽穀はマメ類、擬穀はソバ、アマランサス、キノア等であり、主穀と雑穀が現在、穀物(cereal)として広く知られています。雑穀は時代背景や主食の変化につれ、捉えられ方も変わってきており、日本雑穀協会では、これら農学的な狭義の雑穀の定義を尊重しつつ、雑穀と呼ぶ作物の対象範囲を拡げ「主食以外に日本人が利用している穀物の総称」としています。
さて南葛飾郡誌の畑作の社会的考察(357ぺ-ジ)穀菽類、蔬菜類、花卉類の三種がある。穀菽類の記述は大麦から始まり14種の作付け面積が書かれている。刀豆は面積の一番少ない畑の作物のようだ。

 赤刀豆の種子は今でも販売されているので広い敷地があったら栽培してみたい。ジャックと豆の木の童話があるように油断するとかなりの高さまで伸びるようだ。また鹿児島(薩摩)の言い伝えでは刀豆を旅立ちの時の持たせるという。なた豆は上のほうから実り始め、だんだん茎のほうに帰ってくることから、無事に帰れるようにとの願いを 込め旅立ちの時に刀豆をわたすという。薩摩藩の小松帯刀の名前の帯刀とは別の読み方で太刀はき・辞書では帯刀のことを刀豆の別名というのもある。
刀豆は鹿児島県で栽培される物には50cmから70cmにもなるものがあって。刀や青龍刀のように見えます。-

 ここまで刀豆のことを調べてみるとやはり福神漬に酒悦主人が最初に入れた要因は薬効としてのモノより、形と名前の要因の方が意識される。つまり福神漬の刀豆には口臭除去等の薬効は皆無だろうし、言及している漬物業者もない。ナタマメの画像を見ると本当に刀の形に似ている。英語でも刀のマメ(SWORD BEENS)となっている。
SWORD BEENSをグーグルにコピペチェックすると、英語圏でも刀豆の画像が出るが福神漬のことは無さそうである。


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Google アラート - 鶯亭金升

2022年09月11日 | 宅老のグチ
Google アラート -という機能があって、人名等を登録して、記事が出たらメールが来る。北海道の読売新聞地域版で鶯亭金升の名前が出た。どうやら記事の内容では幕末から昭和初期にかけて活動した石狩の俳句結社「石狩尚古社」の選者を、児童文学者の 巌谷小波や、戯作者の 鶯亭金升(1868~1954年)ら当時の著名な文化人が複数で務めていたことが分かった。石橋思案の名前もあった。記事では金升を戯作者と書いているが、戯作の作品で評価できるものがないと感じる。どちらかというと新聞雑誌の俳句等の選者と当時は思われていたのではないか。落語、作詩もしている。都都逸などもある。
 この人は福神漬を命名したのは大正12年の大震災前、日本缶詰協会の会合の席で梅亭金駕と証言した人である。
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〇〇珍聞の表紙 小林清親

2022年09月10日 | 福神漬
前田愛著作集  第4巻 幻景の明治 前田 愛著1989年12月 筑摩書房
328頁 川柳と団団珍聞
明治10年に創刊された全国各地の小学生の作文投書を競う「穎才新誌」という少年向けの投書 雑誌が週に一万部、同じく同年に創刊された週刊滑稽風刺雑誌団団珍聞も週1万部発行していた。当時の木版印刷技術を超えた活版印刷の出来で、表紙の上部に馬と鹿、中央の円の中に異人が3人描かれ、一人は箒大の筆を持ち、もう一人は耳をそばだて、さらに一人は双眼鏡で見ている。報道の自由を表している。(団団)の雑誌名は悪名高い報道規制に対抗して〇〇という伏字を余儀なくされたジャ-ナリストの皮肉な抵抗だった。前田愛氏はこの絵の作者が小林清親と著書に書かれているが、明治10年の小林清親は団団珍聞には参加していなく、後に洋画家となった本多錦四郎(岡山県出身)と思われる。
 この読者が主体となった団団珍聞という雑誌は江戸時代からの文化で、編集者は巻頭の茶説と数枚のマンガだけで残りの欄は投書家に開放され、雑録は投書家の表現の見せ所だった。これは江戸時代からの軽文学の伝統が雑誌という新しいメディアに触発されたという。団珍の編集者と雑録の投書家は事件が起きると驚くべき速さで風刺を盛り込んだ投書を読者に伝えていた。風刺が効きすぎ政府の弾圧が強化されると、ごく仲間内にしかすぐに判らない謎的要素が強くなっていった。今だと女子高生の会話のように他人が聞いても仲間内しか判らないようにしていた。
 小林清親の娘である「小林哥津」(こばやしかつ)さんの本では小林清親を団団珍聞へ紹介したのは鶯亭金升というがこのことについて小林清親の研究者はほぼ全員と言ってよいくらい言及していない。明治23年に鶯亭金升は小林清親の仲人で仁科家の令嬢と結婚した。鶯亭金升は明治元年1868年生まれで、清親は1847年(弘化4年)で金升と21歳の年齢差があって、小林哥津さんの証言を真実とすると14歳の少年が35歳の清親の仕事の世話をしたことになって、とても美術評論家には信じられないと思っているのだろう。
 しかし、福神漬を調べてゆくうちに嘘ではないように思えてきた。明治6年に鶯亭金升の父が工部寮鉄道寮の7等の役人だった時死去した。明治5年秋の新橋横浜間の開業時に汽車を眺めていたという。慶應3年に目付となっていて、幕府崩壊後何らかの縁故で工部省鉄道寮に勤めた。この縁故就職は手ずるは何かというと高島嘉右衛門だと思われる。高島嘉右衛門の姉は大垣戸田家に行儀見習いと出仕して、藩主の子供を身ごもった。この子が戸田欣堂で自由民権家として知られている。嘉右衛門が幕府の法律違反の金銀の差益に手を出し、石川島に留置された。石川島で手助けしたのが大垣藩から離縁された嘉右衛門の姉で、さらに火付盗賊改の職の経験のある御先手弓組の長井家の支援もあったと思われる。旗本長井家に養子に行ったのがペリ―来航時に浦賀で米国国書を受け取った戸田伊豆守氏栄で鶯亭金升の父は氏栄の息子だった。浦賀で戸田氏栄の支援で大垣藩は野次馬整理の仕事をしていた。その時に黒船を見ていたので比較的に武備整備が出来ていて、鳥羽伏見の戦いの後、新政府軍が大垣で長期滞在となり、後にこのことから、岩倉具視の娘(三女極子)が戸田家に嫁いだ。明治20年の伊藤博文の首相官邸の仮装舞踏会のヒロインとなる女性である。

 明治6年に父を亡くした鶯亭金升の母子を助けたのが戸田欣堂と思われる。鶯亭金升は根岸の服部 波山(はっとり はざん、文政10年(1827年)‐明治27年 )の家塾で団団珍聞をマネして壁新聞を作り、14歳ころから投書家となった。この関係から小林清親が原胤昭との関係が見えてくる。つまり前後関係と大垣戸田家とから14歳の少年が35歳の清親の団団珍聞の風刺画家として就職斡旋しても不思議ではない。
 このあたりになると小説家の想像の範囲となる。


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京ひな人形のふすまの下張り

2022年09月09日 | 宅老のグチ
一時転居で家が狭くなり、断捨離ということで、妻が嫁いだ時持ってきたひな人形を処分することになり、もったいないと意見が出て、ひな人形だけ残し、東京でいうひな壇を処分することになった。言い伝えでは京都の丸屋というところの制作で明治年間の製造のようだ。はっきりした年代は箱の外のカバ-となっている取引の記録の処分の用紙が使われていて、明治とわかる。由来は知らないが明治末期の不況で手形の連帯保証人となり没落したという。そこで助けてもらった商人から婚礼の持参のひな人形を頂いたようだ。
 さて処分するにあたって区の基準の大きさにひな壇(御所風)を解体したところ、明治の12年9月27日から10月4日までの滋賀県コレラ患者数の記録が書かれた紙が金屏風の下張りとして張られていた。思わず処分を忘れ読みふける。滋賀県の記録では前週よりの持越し患者が26人で今週の新規患者が13名という。ほぼこの時期の通達記録が下張りとして使われているので人形の御所風の館の製造地は滋賀県内と思われる。年代から明治12年以後だろう。別の所から明治15年の紙もあった。昔は紙が貴重品でさらに今よりリサイクルの精神があってすぐにゴミとならないことを実感する。
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葛飾区木根川小学校の資料館の訪問

2022年09月08日 | 宅老のグチ
シルバ-パスを利用して、都営浅草線の本所吾妻橋駅で降り、金町行きの都バス停留所を探すと、結構浅草寄りにバス停はあった。バスは水戸街道を走り、昔のトラックで配送していた時を思い出す。四つ木橋を降りたところにバス停があって降りたが、見たところ浅草方面行きのバス停が反対側に見えないので探した。かなり金町寄りに戻りセブンイレブンの所にバス停があった。後から考えると10分はロスした。京成四つ木駅付近は踏切を無くす工事計画があって、割と踏切が少ない。大回りして四つ木駅へ向かいそれから慣れた木下川薬師へ向かう土手の通りへ行く。土手の上には高速道路があって、迷っても見逃んない。何か終戦直後の道がそのまま舗装されていて、調べてみると地価は安い様だ。考えようだがもう少し公園等があって、家から高速の入り口まで近いのであっという間に東北道、常磐道から千葉方面に行ける。
 午後一時過ぎに、木根川小学校を訪問した。授業中で実に静かだった。後で調べたら全校生徒が100名位で特に一年生は10名で、慌てて近隣の渋江小学校を調べても少なかった。何か統合の予感がするが、水戸街道があって、四つ木の駅前にタワ-マンションが2~3棟建てばあっという間に小学校は満杯になる。土手からスカイツリ―が見える。
 静かな学校で副校長の案内で資料室を空けてもらい見学する。今回の訪問の概要を話した。江戸東京博物館の出版物で『東京府志料』にみる明治初期の物産一覧(東京都江戸東京博物館調査報告書 第7集)で当時の東京市で刀豆の産地として唯一上木下川村があった。この本では今の地域が書かれていて長い間どこに位置するか不明だった。
 築地での仕事を終えてからやっと探す時間が出来たがそれでも墨田区の図書館では判らず、ようやく荒川放水路の建設で上下木下川の地域は大部分が川底となったと記録があった。それでも具体的な川底になった村の様子が東墨田会館で墨田区立木下川小学校の資料室で見つかった。中川が上下川村付近で蛇行していてそこを分断したので刀豆の産地としては上木下川村が該当する。さらに大正時代の本で南葛飾郡誌だ刀豆の産地状況が書いてあって、福神漬の需要で栽培面積が増えたようだ。木根川小学校の副校長の先生の話では今では付近には農地はない。多分震災後に移住してきて、さらに戦災で風景がかわってしまったようだ。
 資料館は地域の記憶で入り口付近に佐田 雅志(さだまさし)少年が中学時代に 3年住んでいた記録と色紙がある。後は70年ほどの小学校の記憶と記録となる。ここには刀豆の存在はなく、地域の記憶もなさそうだった。約一時間ほど見て徒歩で四つ木橋から都バスに乘って本所吾妻橋駅で降りた。道中はスカイツリ―の大きさを確認する行程だった。
 下肥の研究を見たことのある葛飾区の郷土と天文の博物館 へ行く必要があると思った。資料によると刀豆の栽培には下肥が必要のようだった。それに背丈が高いので水害には強い様だ。やはり葛飾区史では戦後のカスリ-ン台風の被害が甚大だったようだ。四つ木駅は海抜3m程だった。

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予定で思うこと

2022年09月07日 | 宅老のグチ
カレンダ-に先々の予定が書いてある。転居前は車があって、予定のない日に車で出かけることもあった。真っ青な空があった時、車に乗って富士山を見に行った時もあった。
 今は車と離れ、病院送迎の時しか車を使用しない。表向きは公共交通機関で感染したくないということで病院内の感染は運というしかない。予定のない日で雨の日は引きこもりの言い訳で本とネットで時間をつぶす。外に出たがる老柴犬の対応が難しくうっかりすると粗相をしてしまう。降雨の異動デ―タを見ながら外に出る。
 予定のない日に予定を入れる。行きたいところを数か所以上リストにしておく。それでも休館とかあってがっかりすることもコロナ下では多かった。高齢だと外出先のところで体長不良になることもあるが今はスマホで連絡が付くので問題は少ない。タダ耳が遠くなって受信の音が聞こえない。

予定のない日に行き先を決め、そこから体の具合に合わせて歩いて帰る。10kMくらい歩いたこともあった。その晩はよく眠れた。疲れは安価な眠り薬となる。いつもの知った道を帰ると通勤と同じでコ-スを変え、工事現場の案内板などを見て寄り道をする。点から線、そして面の位置関係が解かり、さらに坂等の上下関係が解かってくる。
 東京の今は付近の建物の改修や解体現場が多く見える。高くなりすぎた東京中心部から見ると割安と思うのかそれとも建設物価の先高観があるのだろうか。今日の円相場が1ドル142円を超した。政府はまだ物価が2%強と言っているが小麦・ガソリン等を抑えていていて、自給できるコメの需要を抑えている。すでに安価な牛丼等のコメはいつの間に国産米となっている。チョットの間に世間の風景は変わる。
 高齢者の物価対応策は節約しかなく、過去の慣習も変わるしかない。コロナで面会制限があってリモ-トが慣れれば地元の特養だけでなく地方の方も選択肢となる。朝は幼稚園の送迎バスとデイサ-ビスのバスが近所を走る。そして昼は病院の送迎バスが走る。犬猫病院も駐車場付きの方が便利である。
 

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図書館カ-ドの行方不明と更新手続き

2022年09月06日 | 宅老のグチ
台東区の図書館カ-ドが引っ越しで行方不明となった。江東区などは郷土資料室に入室するには持ち物をロッカ-に入れて、鉛筆とノ-トだけ持って入室するとなっている。係の人に要件を言って目的の文献を探し出してもらう仕組みとなっている。郷土資料は一冊しかない物が多く、さらに紙が劣化しているので扱いが大変と思う。
 台東区は郷土資料室が二階にあって今のところ最新の郷土資料室と思う。中央区は今年の秋に京橋図書館が移転するので不便になるがプランを見ると上層階に郷土資料室があって、もし開架なら今まで見過ごした本が見つかるかもしれない。ここはいつも江戸から戦前の日本橋、京橋地域の霊安室と思っていて、築地の京橋図書館は土佐藩の中屋敷跡で坂本竜馬などがいたかもしれない。隣の築地警察は蟹工船の作者が惨殺されたところでもある。その警察と図書館の間から築地の新喜楽という料亭に出勤する芸者と出会ったこともある。行きに出会い、新喜楽の裏口から入るところを見かけた。人力車を使っていなかった。
 建物的には江東区の清澄庭園の隣の深川図書館が好きだが今は改修中で入れない。どこの図書館でも郷土資料の所は図書分類から離れたものがあって面白い。
さて今日は確認のため「東京府志料」にみる明治初期の物産一覧という本を借り出すため図書館へ行く。たった一行だけですぐ返す予定。上下木下川村というのだがどうやら実際は上木下川村と下木下川村だったようだが江戸東京博物館の刊行本で見た時は上下木下村となっていた記憶がある。
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台風11号で思う

2022年09月05日 | 宅老のグチ
記憶の印象では過去の台風は沖縄と台湾が壁となって、壁を通過したのちに衰弱して日本の九州に来る印象があった。もちろん沖縄と台湾を避けて九州四国に上陸した台風もあったが被害は大きかった。こんどの2022年11号台風は迷走し沖縄で反転し、今の予想では朝鮮半島を通過しそうだ。今年の朝鮮半島は中国と同様に雨が少なかったり、急に多雨になって災害が頻発していると感じる。
 日本より冬の訪れが少し早い朝鮮半島はこの時期に災害があると冬野菜への影響が多大で食文化を変える事にもなりそうだ。特に今年はウクライナのことから燃料価格が高騰しているのでハウス栽培の対処が難しいと思う。
 農業を軽視すると非常時に慌てる。日本もまだ食の安定を保っているが来年の春はハウス栽培の野菜が激減するか高騰するしかない。真冬に夏野菜の代表のキュウリとナスを普通に食べる生活が終わり高級食となる日も間もないと思う。
 

 
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特養 木下川吾亦紅 元の木下川小学校の跡地に建つ

2022年09月04日 | 宅老のグチ
八広へ行くことになった。京成線は都営浅草線の続きで、シルバ-パスで行けば降車する時に、追加の乗り越し料金を改札口に控えている駅員に支払えば済む。しかしそれでは通勤と同じで高齢者の時間たっぷりを持て余す。目的地は東墨田会館で京成線八広駅から歩いて8分、都バスの上23路線が上野松坂屋が起点でJR平井駅が終点のバスがある。浅草で乘ることにしたが、乗車場所が判らず、結局三菱ufj銀行浅草支店前が乗り場と見つけ乘る。乗り場まで15分以上も雷門前を探した。人力車の数が多すぎ。まだ異国人の観光客も少ないと感じる。ちょっと待って都バスに乘ってゆくと、浅草線本所吾妻橋駅の方がバス停は近い。地下から出たところがバス停だった。
 押上を過ぎるとバスはどんどん狭い道に行く。なにか小さな家が多く駅から離れると戸建ての家や10m以下のマンションだけのようだ。
 東墨田会館にバス停があって降りると、裏側に着いたようで回り込む途中に海抜マイナス1mという墨田区の掲示があった。ここは堤防が壊れると中々水が引かないところと実感する。
 東墨田会館は産業・教育資料室が2階にあって、係の人に声をかけ入室する。誰もいない。後でもらったパンフレットではそれでも年間2500名程度が訪問しているようだ。ここは今は八広小学校に統合された旧木下川小学校の記憶の記録場所で、さらに木下川の皮革産業の興亡史を展示している。今は豚の皮の処理量では日本国内のトップ地域のようだが、皮革産業は人権問題の発生所でもある。

 中の展示でようやく、江戸東京博物館の編纂で明治の初めに東京市の産物調査で唯一上下木下川村が福神漬に入っている刀豆の産地の村だった。しかしどう調べても上下木下川村は見当たらなかった。この展示室に荒川放水路と上下木下川の関係が解かる地図があった。上木下村は今の東四つ木の方にあって、その地域の標識は木根川となっていて、荒川をまたぐ橋は木根川橋となっている。
 下木下川村は今の墨田区の方で東墨田会館付近である。特別養護老人ホーム 木下川吾亦紅(きねがわわれもこう)は木下川小学校の跡地に建てられたようだ。これから少子の時代に統廃合になった小学校中学校の跡地は高齢者施設の設置場所となることを実感する。もともと区有地なので特養の要望の多い地域はある程度の面積(300坪以上)が必要な土地は少ない。

 東墨田の地域はイメ―ジとして差別の感があって、歩いてゆく途中に皮革の貿易会社の倉庫の前の歩道に、『ここは特別工業地域です。多少の騒音や臭気はご承知ください。油脂・皮革関連企業協議会』掲示してあった。事情を知らない新住民が地域にクレ-ムを入れたこともあったようだ。従って借家の賃料も安いと思われる。
たくさんの工程を経て皮から革になってカバンや靴や財布となる。豚の皮は毛穴があって通気性が良い。柔らかく手袋や衣類にも使われる。捨てないリサイクルの精神が残っていると感じる。
 目からウロコが一枚取れた気がする。今風だとコンタクトレンズだろうか。革製品を愛用している人たちには知っておいて損はない。


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暁斎画談の出版時期

2022年09月03日 | 福神漬
千代田図書館で暁斎画談を読んでいた時、出版時期は明治20年6月28日に出版願いを出し、同年7月6日版権許可が出た様だ。明治の頃の出版許可はどのような慣習か調べなければいけないが少なくとも6月までは広告がないという事が解った。これで当時の本の広告が掲載されている新聞を見れば時期がはっきりすると思われる。明治期の新聞広告は出版物と薬の広告が多かった。文字を読めるという事と新聞購読する財力が必要だった。
 明治20年4月20日明治政府の伊藤博文首相官邸で仮装舞踏会が開かれた。この舞踏会は井上薫が指導した条約改正をもくろむ欧化政策のクライマックスでもあった。
 首相官邸での夜会風景は4月22日の諸新聞で報道されることとなった。この夜会の風景は小林清親の(首相官邸舞踏会)の銅版画でよく引用されている。
 4月26日から明治天皇の歌舞伎を観覧したことも知られている。
この時期に「東京日日」「絵入自由」「絵入朝野」「やまと」新聞に政府高官のスキャンダル記事が出てきた。
 これらの記事は日時も正確でなく、さらに風聞と断りを入れつつ、読者が首相官邸仮装舞踏会を想像できるようにし、さらに好色と知られていた伊藤博文と容易に結びつく書き方をしていた。また首相官邸から裸足で辻待ちの人力車の行き先を調べ、逃げた女性を暗示した書き方だった。(出典・幻影の明治・前田愛著・三島通庸と鹿鳴館)
 5月になって「今日新聞」「絵入自由」「めざまし新聞」伊藤博文からレイプされそうになった女性が華族の子女で示談が拒否されたと書き込み、即時に発行停止となった。さらに前田愛は発行停止にならなかった「東京日日」「やまと」「絵入朝野」新聞の処分不均衡を詳しく解明している。それは警視庁の密偵の報告書にあって、絵入自由の記者が密偵の詰め所漏らしたことをそれぞれの新聞が話を大きくした。(当時も今の記者クラブのような組織があったようだ)
 事件の概要を故意にぼかしたり、ゆがめたり、それとなく暗示するする記事の書き方は言論を弾圧する「讒謗律」「新聞紙条例」などで言論を弾圧されていた記者たちの抵抗策だった。
 5月4日戸田伯爵(戸田極子の夫)が急に出世し、6月4日にはオ-ストリア駐在赴任した。新聞停止処分の3紙は戸田伯爵が出世した辞令発表の後だという。
 この時期は伊藤のスキャンダルの報道と暁斎画談の出版時期どのような関係があるか気になる。戯作者の梅亭金駕と狩野派絵師だった河鍋暁斎の間に何か風刺を入れていないか気になる。多くの河鍋暁斎研究家は梅亭金駕のことは無視しているように見える。








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岩崎灌園から葛飾区立木根川小学校へ

2022年09月02日 | 福神漬
福神漬に入っている刀豆を調べてゆくうちに、刀豆の薬としての効能を知りたくなり、日本に中国から渡来したのが江戸時代の初めの頃だと文献に記載されている。この時期に明代の李時珍(1518-1593年)が26年の歳月をかけ、700余の古典を調べ、自らの調査も合わせて1900種の薬物について記述した52巻から成る本草書(薬物学の大著「本草綱目」)が日本に入ってきたので何か関係がありそうでしらべていた。つまり江戸時代の初めには何らかの薬効があったとおもわれていた。
 福神漬には作られた言い伝えがあるがどれも根拠がありそうになっている。それでその根拠と思われたのがどこから来ていると調べてゆくうちに「本草綱目」にたどり着いたが刀豆の効能は不明だった。

園芸の達人本草学者・岩崎灌園(ワサキ カンエン)平野 恵著2017年7月


岩崎灌園は江戸時代後期の本草学者で写真のような植物絵で知られている。江戸周辺の薬草の史料は殆どなく、岩崎の武江産物誌しかない。これは江戸市民の花暦(種々の美しい花が咲く時節を四季の順に並べたもの。一種の観光案内) も兼ねている本草書でもある。そこに刀豆が記載され、江東地域で広く栽培されていた。
 明治に入って東京市は市中の産物調査を行った。そこで上下木下村で刀豆が記載されていた。東京市では唯一の記録である。
そこで上下木下村の今はどこに該当するか調べると墨田区の押上付近となっているが、これを曳舟図書館で調べると該当する地域が見当たらなかった。木下と検索すると東京都の治水関係の所から木下は(きね)と読むらしい。キネガワと入力するとヒットする。一番出てくるのがさだまさしのキネガワ橋という歌だった。どうやら歌詞の内容からさだまさし少年の暮らした世界だった。
(作詩・作曲) さだまさし さんが中学3年間暮らした地、ゆかり、の楽曲のようだ。
 なんという脱線調査なのだろう。ユーチュ-ブで歌を聴く。

 さらに調べてゆくと京成四つ木駅付近の荒川放水路の建設で上下木下川村は川底になったようで、いわゆる地域の継承ということで墨田区の方に比較的多く記録が残されている。さらに調べると木根川小学校というのがあって、その記録の資料館があるようだ。行ってみたいがコロナの流行中でいまいち免疫のない小学校に行くことをワクチン接種も少ないだろうしためらう。かといってもう先のない人生で骨折すれば寝たきりとなる年でもある。
 追加 墨田区の統合され消えた木下川小学校。葛飾区の今もある木根川小学校。
 
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引っ越しの次へ

2022年09月01日 | 宅老のグチ
9月に入って、引っ越しのの残務整理の目途も付き、ようやくコロナ下の街へ出かけようという気分になった。10月からのシルバ-パスもすでに届いている。今までのバス停が転居で変わるので下見というかコ-ス確認で浅草へ行ってみようと思う。ここは都バスの集結地で池袋から下町へ行くには便利だ。都営の電車は新宿には多くゆくが池袋は近所を通る都電荒川線しかなく、バスを使わない時あるいたこともあった。
 震災以上にある災害で台風がいま来ている。まだ迷走中で今のところ沖縄で方向が定まるようで少し心配でもある。秋ダイコンの作付けも仮に被害があっても種のまき直しはかのうである。
 今日は雨模様で自宅謹慎となりそうだ。かあちゃん取扱説明書  いとうみく作2013年でも読んで頭をほぐしたい。9月1日は小中の子供の自殺の多い日で、どうやらこの本を宿題の課題で読ませる先生がいるようだ。結構古い本なのに小学生男子の目線で母親を分析している。
   
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