後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「三陸の津波災害の歴史」

2025年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
三陸の津波災害の歴史をお送り致します。
貞観地震 869年7月13日
慶長三陸地震 1611年12月2日
明治三陸地震 1896年6月15日 死者 21,920人
昭和三陸地震 1933年3月3日 死者行方不明者 3,064人
チリ地震津波 1960年5月24日 死者行方不明者 142人
東日本地震 2011年3月11日
死者19,630人 行方不明者 2,569人 負傷者6,230人

慶長三陸地震 による津波は現在の三陸沿岸および北海道の太平洋沿岸に来襲し、仙台藩領内で死者1783人(伊達領内で死者5000人という『駿府記』の記録もある。)、南部藩・津軽藩の海岸でも「人馬死んだもの3000余」という記録が残されている。北海道でもアイヌを含め多数の死者が出たという(『福山秘府』『北海道史』)。 

写真は三陸海岸の浄土ヶ浜です。

「1960年のチリ地震津波による日本の災害写真」

2025年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
1960年5月23日4時11分(日本時間)、南米・チリ共和国でマグニチュード9.5という世界最大規模の地震が発生します。この地震により首都サンティアゴ・デ・チレ(Santiago de Chile)、をはじめ、チリ全土で死者1,743名、負傷者667名の大きな被害となります。
日本とチリは約17,500キロメートル離れていますが、津波は平均時速約777Kmのスピードで太平洋を渡ってきました。
日本の被害も写真をお送り致します。
写真の説明は下記にあります。
https://www.bo-sai.co.jp/chirijisintunami.html
1番目の写真は1960年(昭和35年)に岩手県大船渡港民家に乗り上げた漁船です。


「自分が見た東日本大震災の被害地の風景」

2025年03月12日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は東日本大震災から丁度14年目でした。大津波で22000人余の人名が失われた日でした。
私は仙台で生まれ育ったので東日本大震災の津波に襲われた仙台の近くの荒浜や菖蒲田浜へは何度も海水浴に行っていました。そして松島や野蒜海水浴場やその先の宮戸島にも足繁く行ったものです。
特に宮戸島には親しい家があったので何度も塩釜から船で行ったり野蒜水浴場を越して歩いて行きました。宮戸島は昔は島でしたが埋め立てて野蒜海岸から歩いて行けたのです。
そんな懐かしい思い出の場所が大津波でどうなってしまったのでしょうか。気がかりでした。そこで大津波から1年6ケ月経過した2012年の10月に現地に行ってみました。

今日は私の見た東日本大震災の被害地の東松島の写真をお送りいたします。
私は独りで朝早く仙台駅から仙石線の電車に乗り、高城町駅まで行きました。そこは松島駅の次の駅で、そこから先石巻までは線路がすっかり流されて何も無くなっていたのです。
復旧には全く手がついていなく完全復旧には5年以上かかるそうです。
高城町駅で降りると一台のタクシーしかいません。中年の親切そうな運転手さんがニコニコしています。そこで津波の被災地の様子が気がかりで来ましたと言うと、快くご案内しましょうと答えます。
車に乗り込んで、しばらく走る間にいろいろ聞きました。東松島市の東名(とうな)町に行きますと言います。自分の家のあった町だそうです。運転手さん自身の家も流されて何も無くなったと言います。幸運にも家族だけは生き延びたと言います。
そこで、私はその運転手さんの家のあった所へ案内して下さいと言いました。車は快調に数キロ走ります。津波の来なかった舗装道路です。
しかし東名駅に着くと、そこには幅の狭いホームが残っているだけです。
1番目の写真は津波に襲われプラットホームだけが残った東名駅です。
鉄の重い線路がすっかり津波で海中へ持って行かれたと言います。そして数年先には向こうの山の中に新しい線路を作るそうです。
この東名(とうな)駅は昔、野蒜海岸へよく海水浴に行ったので何度も通過した駅です。名前が「とうな」と遠方の海を連想させるのでよく憶えていました。
踏切らしいところを横切って、海側に出ると、そこは一面の荒れ地になっています。600人位の住民が住んでいて、260人が犠牲になったそうです。
2番目の写真は津波の猛威を示す家の写真です。
3番目の写真は運転手さんの家のあった場所です。門のあった所に彼が茫然と立っています。
彼の家の門の所から庭の方向を見ると庭さきは海です。
運転手さんは私と一緒に庭に入って行き、ここが玄関で、居間はここ、台所はここと説明しています。そして庭の奥には娘夫婦一家の家がありました。大きな庭木も沢山ありましたが、ご覧のように根こそぎ津波に持って行かれました。残った木々も海水で枯れているのです。
運転手さんへ出来たらお写真を出させて下さいと頼みました。よいですよと快く応じてくれたのが下の写真です。
4番目の写真は私を案内してくれた運転手さんとタクシーの写真です。彼は悲しそうな表情をしていました。
いろいろな話を聞きましたが、次に彼の家族の助かった理由を書きます。
大地震が起き、津波の来るまで1時間40分あったそうです。彼の家族全員は800mほど離れた石切り場のあった山の祠に逃げたそうです。山の上に逃げたのです。
5番目の写真は家族が逃げ登った石切り場のあった山の写真です。
津波が来た時、運転手さんは被害の無かった高城町駅近辺でタクシーの運転をしていました。東名地区は全滅だという噂がすぐに伝わりましたが道路が破壊されていて身動きがつきません。勿論、電話は不通です。家族も駄目かと諦めつつ、2日目に歩いてやっと自分の家のあった場所に着きました。
もう駄目だと思っていたところに通りかかった近所の人が、あの石切り場へ逃げて、全員無事だったと教えてくれたそうです。
この運転手さんは幸運でした。間もなく山沿いに新しく家を作ったそうです。もとの土地は怖くて二度と住めないそうです。その土地は政府が一坪9600円で買ってくれるという話だけはあるそうです。
6番目の写真は津波で亡くなった犠牲者へ供えた花の写真です。
運転手さんの話では、佐藤やえ さんというおばあさんがここで亡くなったそうです。津波が来るので近所の老人たちの避難を助けているうちに流されたのです。あれからもう1年7ケ月も経ちますが、毎日のように花が供えられているのです。佐藤やえ さんに助けられた人々が供えているようです。運転手さんが悲しそうに説明してくれます。
7番目の写真は道端に何事も無かったように咲いていたコスモスの花です。私は何故か救われたような気持になり写真を撮りました。

東京のマスコミは復興された元気な商店や意気盛んな漁師のことが何度も報道されています。しかし現地に行ってみると全く手がついていない土地が茫々と広がっているのです。
三陸海岸から福島まで広大な荒れ地が手つかずのまま、ひろがっているのです。ガレキの山もあちこちに異臭を放ちつつそのまま残っているのです。
それは心の凍るような光景です。大津波の猛威がいかに残酷なものかひしひしと肌に感じる光景です。しかしそんな中に心温まるものを見つけたのです。
8番目の写真は急遽作りなおした墓地です。
昔の墓石はすべて津波が海へ持ち去ってしまったそうです。残ったのはすっかり平になった墓地だけでした。この地区の生き残った住民がまず急いで新品の墓石を取り寄せて作ったのです。この地区で亡くなった260人の人々も先祖と一緒に新しい墓に葬られたのです。
急いで墓地を整備したのは、津波で非業の死を迎えた人々の鎮魂と供養のためだったのです。
普通、墓地はお寺の本堂の裏に広がっています。その本堂も海へ流されてしまったので墓地の前には広い空間になっているだけです。
運転手さんは生き残った住職さんの指導に従って、自分の家の墓はまだ作っていないそうです。そのわけは「墓よりもまず自分の生活を立てなおすのが先です。生活の立て直しをする前に墓を新しく作っても先祖様は喜ばないの
です」。これが住職さんの指導なのです。
新しい墓は家族に犠牲者のいる家の墓が大部分なそうです。そのことについては住職さんは何も言いません。毎週、避難先からやって来て墓地の前で読経して、帰って行くそうです。
この墓地の周りはすっかり何も無くなっていますが、家々の間に通っていた生活道路の跡だけが鮮明に残っています。

このように私は被害地を見ながら写真を撮って来ました。それにしても自宅が流されながらも元気に運転して私にいろいろ説明してくれた運転さんに感謝します。

昨日は東日本大震災の14年目でしたので自分が見た東日本大震災の被害地の風景をお送り致しました。

大津波で命を失った方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。
                    後藤和弘(藤山杜人)