荻原先生の歌です。
現代短歌最前線(上巻)のなかの、作者自選の200首の最初の歌です。
この歌は使われているコトバに難解なものはありません。
街という虚しき楽器、という比喩も、理解不能ではありません。
踏み鳴らす、という続くコトバが歌の流れをつくっています。
しかし、歌から受ける感じは奇妙なものです。
虚しき、というコトバが引き出す感覚でしょうか。
先生の歌の違和感は、どこからくるのでしょうか?
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200首の歌のあとの解説は、次のような書き出しです。
自分がまるでアンドロイドみたいだと思うことがよくある。
アンドロイドといっても機械のように正確になにかができるわけでもなく、
人間が持つ愚かな欲望だけはしっかり備わっていて、
どこがどうだと説明するのはむずかしいのだけれど、
いかにも人間らしく生きていることが妙に嘘くさく感じられるのだ。
十代の頃から、稀にこの嘘くささを感じることもあったが
二十代でかなりあからさまに噴出し、
三十代、それも後半になってその頻度が増えた。
たとえば、お腹がすいた、おいしいものを食べたい、
気の合う人と一緒に食べたい、という素直な欲望が
どこからか湧くのと同時に、
なぜそんなことをしなくちゃいけないんだ、
本当にお腹が空いているのか、おいしいって何なんだ、
気の合う人が、お前にはいるのか、という影の声のような
不思議な感覚が自分の中に奔るのだ。
こう書いたあと、先生は、さらに、
私は世界とずれを感じたことはなかった。
とも。そして、教科書にも載った歌
まだ何もしてゐないのに時代という牙が優しくわれ噛み殺す
について、
世界と奇妙に共鳴しているという実感があるからこそ書けた
作品だったように思う。
ずれが感じられないからこそ自分が何も出来ないままに
じわじわ殺されてゆくのを感じてしまうというパラドックスが、
当時も今も自分を支配し、作歌の起点になっているらしい。
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先生は、俳句について、こんな言い方をされたことがあります。
あたりまえのことを、あたりまえのコトバで、
自分にとってあたりまえでなく詠む。
このコトバを理解する鍵がありそうですが・・・
よく分かりません。
どうも生きていることをパラドックスと感ずる感性が
不足しているというか、完全に欠如しているからでしょうか。
現代短歌最前線(上巻)のなかの、作者自選の200首の最初の歌です。
この歌は使われているコトバに難解なものはありません。
街という虚しき楽器、という比喩も、理解不能ではありません。
踏み鳴らす、という続くコトバが歌の流れをつくっています。
しかし、歌から受ける感じは奇妙なものです。
虚しき、というコトバが引き出す感覚でしょうか。
先生の歌の違和感は、どこからくるのでしょうか?
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200首の歌のあとの解説は、次のような書き出しです。
自分がまるでアンドロイドみたいだと思うことがよくある。
アンドロイドといっても機械のように正確になにかができるわけでもなく、
人間が持つ愚かな欲望だけはしっかり備わっていて、
どこがどうだと説明するのはむずかしいのだけれど、
いかにも人間らしく生きていることが妙に嘘くさく感じられるのだ。
十代の頃から、稀にこの嘘くささを感じることもあったが
二十代でかなりあからさまに噴出し、
三十代、それも後半になってその頻度が増えた。
たとえば、お腹がすいた、おいしいものを食べたい、
気の合う人と一緒に食べたい、という素直な欲望が
どこからか湧くのと同時に、
なぜそんなことをしなくちゃいけないんだ、
本当にお腹が空いているのか、おいしいって何なんだ、
気の合う人が、お前にはいるのか、という影の声のような
不思議な感覚が自分の中に奔るのだ。
こう書いたあと、先生は、さらに、
私は世界とずれを感じたことはなかった。
とも。そして、教科書にも載った歌
まだ何もしてゐないのに時代という牙が優しくわれ噛み殺す
について、
世界と奇妙に共鳴しているという実感があるからこそ書けた
作品だったように思う。
ずれが感じられないからこそ自分が何も出来ないままに
じわじわ殺されてゆくのを感じてしまうというパラドックスが、
当時も今も自分を支配し、作歌の起点になっているらしい。
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先生は、俳句について、こんな言い方をされたことがあります。
あたりまえのことを、あたりまえのコトバで、
自分にとってあたりまえでなく詠む。
このコトバを理解する鍵がありそうですが・・・
よく分かりません。
どうも生きていることをパラドックスと感ずる感性が
不足しているというか、完全に欠如しているからでしょうか。