575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

伊勢湾台風とテレビ ニュース ② 竹中敬一

2017年10月13日 | Weblog
伊勢湾台風が東海地方を襲った昭和34年(1959) 9月26日、その時、テレビは… 。

谷水先輩指揮のもと、CBC会館玄関前のシュロの木が倒れんばかりに揺れ、雨風が
吹き荒ぶ有様をカメラはとらえて、夜9時45分からのニュースで伝えました。
ところが、CBCの社史によりますと、当日の「午後7時すぎ、中部電力が管内の
送電をすべて中止したため、CBCの放送は自家発電に切り替えた。」とあります。
ということは、私たちが必死で伝えた生中継の映像は各家庭には届いていなかった
ということになります。
私たちは徹夜で情報を収集しましたが、情報通信網が切断され、被害の報告は
断片的にしか伝わってきませんでした。

この台風による被害が東海地方にとって、未曾有のものであることがわかってきたのは、
夜明けと共に、愛知県の桑原幹根知事が自衛隊のヘリコプターで名古屋市南部から
木曽川下流域を視察、その惨状をメデイアを通じて伝えたことからのように思います。
視察を終えてすぐ、防災服姿の桑原知事が青ざめた表情でCBCのスタジオにも現れたのを、
今でも思い出します。
桑原知事は「大変なことになっている。」と声を震わせながら、テレビを通じて、
水没している被災地の状況を報告。一刻も早く救助に乗り出さなければならない、と
関係方面の協力を求めました。

私たちはこの時、初めて台風が東海地方に悲惨なツメ跡を残したことを知りました。
それからというもの、5人のスタッフは定時ニュースの放送に追われ、被災した現地へ
取材に行くことはありませんでした。

当時の報道はまだラジオニュースが中心で、各記者クラブはじめ取材先へはラジオの
記者で占められていました。
私たちはラジオニュースの原稿や中日新聞の記事をもとに、映像に合わせてリライトして
放送していました。

被災地からの映像は当初、上空からヘリコプターで撮ったフィルムだけが頼りでした。
カメラマンは交代で名古屋空港を基地にヘリコプターで被災地の惨状を上空から撮影。
撮り終えたフィルムの缶を保護袋に入れて、CBCの屋上に投下していました。
当時、6階建のCBC会館以外、周辺には目ぼしい建物はなく、ヘリコプターの接近も
認められていたのです。
カメラマンはフィルムを投下し終えると、再び、被災地か、給油のため空港へ向かいます。
従って、カメラマンから直接、撮影内容について、くわしく聞くことはできません。

伊勢湾台風の翌日から朝、昼、夜の定時ニュースにキー局のTBSはあらかじめCBCからの
台風関連のニュースを一項目 空けて待っていました。台風が去って二、三日経った
ある日のことが思い出されます。その日は昼ニュースの担当でした。
この日は木曽川下流を撮影するという連絡だけは、あらかじめ入っていました。
このため、その辺りの情報を乏しいながら集め、予定稿を書いて待っていました。
いつもながら、逆算して放送ぎりぎり、CBCの屋上にフィルムが投下されました。
保護袋を開けるのも、もどかしくフィルムの缶に貼られたラベルを見ました。
通常、カメラマンはそのラベルに撮影内容を簡単にメモしてくれています。しかし、
私の目に入ってきたのは、「木曽岬あたり」と書かれているだけでした。
現像したフィルムを映写機に掛けると、木曽川下流の堤防の周りには おびただしい
流木らしきものが …。
カメラが近づくと、流木ではなく、死屍累々(ししるいるい)、ただ合掌するのみ。
慎重に編集し、予定稿を書き換え、やっと全国ネットに間に合いました。

こんな日々を送って、一週間は会社で寝泊まりしていたため、下宿先へは帰らずに
いましたが、久しぶりに帰ってみると、寝起きしていた部屋の雨戸が吹き飛んでいて、
僅かながらの持ち物はすべて水浸しでした。

ラジオよりテレビの映像の方に人々の関心が移っていく丁度、その頃に伊勢湾台風が
襲来しました。色々、偶然が重なりますので、この辺は次回に。

中部日本放送社報(昭和34年10月号)は伊勢湾台風を特集しています。
写真はヘリコプターよりCBC会館屋上へ撮影したフィルムの缶を入れた保護袋を
投下しているシーン。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする