575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

ちょっと淋しい晩秋句会   麗

2017年11月16日 | Weblog

秋もすっかり深まり、木々の葉が散ってしまうはかなさからか、荒涼感、寂寥感のつのるお題の「晩秋」。昨日の句会は6人の出席者でちょっと淋しい句会でした。
来月からしばらく会場はYWCAになります。お気をつけ下さい。では恒例の一言講評です。

①晩秋の残り少なし白髪抜け

切実な悩み。残り少ないのは白髪でもあり晩秋でもあり。

②晩秋のバトン引き継ぐ神宮路

先日行われた熱田神宮と伊勢神宮の間を走る全日本大学駅伝の一コマ。優勝は神奈川大学でした。バトンを引き継ぐのは走者だけでなく、冬へのバトンかも知れません。

③晩秋の展覧会やジャコメッテイ

現在、豊田市美術館で開催中の展覧会。どうしてジャコメッティの作品はあんなに細いのか?何もかもそぎ落とし、切りつめられた立像と晩秋が似合います、

④晩秋の水に落花の記憶あり

「水に記憶あり」というフレーズから作ったそうです。過ぎ去った春の落下が蘇る川の記憶でしょうか?作者は亡きご両親を思い出したそうです。

⑤晩秋や満天に聴く星の声

大きな良い句ですね。作者は白馬村で星空を眺めたそうです。またたく星の声聴いてみたいです。

⑥晩き秋網戸外さむ手に重き

もう出番のなくなった網戸を外すとき、意外に重く感じるのは年齢のせいか、冷たい空気のせいでしょうか?

⑦晩秋の吐息集めて古ポスト

とても素敵な俳句です。いろんな人の吐息を集める古い赤いポスト。なんともロマンティックな晩秋の吐息です。

⑧晩秋や受けとめきれぬ定めかな

どうして愛する人と別れねばならないのか?いつかこの星とさよならしなければならないのか?物思う晩秋です。でも、「や」と「かな」の切れ字ふたつはいけません。

⑨泡立草黄をつくして秋深む

群生している外来種のセイタカアワダチソウの勢いが少し弱まったのかも?「黄をつくして」がいいですね。

⑩晩秋の疎林鋭き鳥の声

「疎林」という言葉を初めて知りました。木々がまばらに生えている林のことです。まばらなので日も差し込み、鳥のさえずりもよく聞こえます。

⑪晩秋に赤黄駆けるアスファルト

「晩秋を」にする方がいいという声がありました。赤や黄色の葉っぱがアスファルトを疾走して行く様子が目に見えるようです。

⑫晩秋やゆるい曲がりの旧街道

晩秋には旧街道が似合います。それも「ゆるい曲がり」とは!どんぴしゃですね。


⑬晩秋の飛騨牛うまし火の赤し

淋しい句が多い中、唯一明るい晩秋の一句。おいしそうで炭火も暖かいですね。飛騨牛協会に捧げたいです。


いよいよ来月は早くも今年最後の忘年句会です。
題詠は「茶の花」です。
どんな花なのか?お茶の産地、西尾に行って見てこなくては。ではまた来月がんばりましょう。
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投句が集まりました。  遅足

2017年11月15日 | Weblog
11月句会の投句が集りました。
やはりサミシイ句が目立ちます。


題詠「晩秋」

①晩秋の残り少なし白髪抜け
②晩秋のバトン引き継ぐ神宮路
③晩秋の展覧会やジャコメッテイ
④晩秋の水に落花の記憶あり
⑤晩秋や満天に聴く星の声
⑥晩き秋網戸外さむ手に重き
⑦晩秋の吐息集めて古ポスト
⑧晩秋や受けとめきれぬ定めかな
⑨泡立草黄をつくして秋深む
⑩晩秋の疎林鋭き鳥の声
⑪晩秋に赤黄駆けるアスファルト
⑫晩秋やゆるい曲がりの旧街道
⑬晩秋の飛騨牛うまし火の赤し

自由題

①木毎葉毎(きごとはごと)色違ひたる紅葉かな
②一葉(ひとは)落つ反骨の人風となり
③ひとはみなこゑとなりゆくすすきはら
④秋の空 耳鼻・眼・歯科の梯子かな
⑤秋の朝家族残して露天風呂
⑥破蓮の首うなだれて我に似し
⑦天地人菊花展前クラス会
⑧布団干す俎板を干す秋日和
⑨木の葉降る古民家カフェで一休み
⑩博愛の口開け朽ちる木守柿
⑪山里に時報こだまし木の実落つ
⑫日短の干すものすぐに影の中
⑬徘徊の道にあだ花帰り花

木枯し一号もすでに吹き、いよいよ冬の始まりです。
風邪が流行し始めています。
外出のマスクなど要注意です。
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木犀の路地にこぼるる弦の音   郁子

2017年11月14日 | Weblog
散歩の途中でしょうか。道幅も狭く両側に民家の迫った路地。
金木犀の花が満開。あたりには香りが・・・
一軒の家から弦楽器の音色が聞こえてきます。

この楽器なんでしょう?
「こぼれる」とありますから、琴、ギター、あるいはピアノ?
また、どんな曲でしょうか?

秋の昼下がり、金木犀の花も散っているようです。
平和な時間が流れていきます。
                 遅足
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吾亦紅友の消息口籠る   すみ

2017年11月13日 | Weblog
吾亦紅は長く伸びた茎の先に濃い紅色の花をつけます。
小さな花でしが、わたしも咲いていますよ、
と囁きかけてくるようです。

どなたかに友人の消息を尋ねられた時、言ってもいいものかな?と
躊躇して、口籠ってしまいました。
きっと言わないでね、と釘をさされていたのでしょうか。
しかし、そんな時ほど他の人に話したくなるのが人情。
三人の微妙な関係も伝わってきます。
ぽつんと咲く吾亦紅が効いています。

  口籠る友の消息吾亦紅

句会で、私は吾亦紅は下五にあったほうが良いのでは、と。
亜子さんは、原句の上五と意見が対立しました。

いまでは上五が良いと思っています。反省!  遅足


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あづかりし犬のよく吠ゆ金木犀   佐保子

2017年11月12日 | Weblog
金木犀は中国から伝わった花木。「犀」の文字があるのは、
樹皮が犀ににているところから。何と言っても香りに特徴があります。

ちょっと旅行に行く間お願いと言われて預かった犬。
飼い主が恋しいのでしょうか。よくなきます。
金木犀という季語によって、犬を間にした二人の関係が
ほんのりと香ってくるようです、という素晴らしい読みも。

金木犀といえばこんな句が。

  見えそうな金木犀の香なりけり  津川絵里子

また歌人の加藤治郎さんがツイッターで。

  金木犀の香りが目にみえるようだ。雨が近い。

俳人も歌人も同じような感性をもっているんですね。
加藤さんのつぶやきは、もう歌になっています。    遅足

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地言葉と浅間指さす萩の寺   結宇

2017年11月11日 | Weblog
地言葉は作者の造語か?方言のことですね。

長野県小諸を訪れた時の句だそうです。
小諸は、高浜虚子が戦争中、一家で疎開したところ。
住居のあったところは記念館になっています。
小高い場所にあり、虚子が散歩した道からは
本当に浅間が目前に見えました、と結宇さん。

古い禅寺の僧に浅間を指さし教えてもらった、
その時の様子を詠んだとのこと。
寺には立派な松がありましたが、萩の寺に。

 浅間さす指と地ことば萩の寺

「ことば」とひらがなにしてみました。
このほうが素直ではないでしょうか? 遅足
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杉本美術館で思い出したこと ⑵ ー劉生と名古屋ー竹中敬一

2017年11月10日 | Weblog
岸田劉生に関しては、資料もあって、その足跡を辿れますが、杉本健吉に
ついては、杉本美術館発行のパンフレットに載っている画伯の略歴と展示品の
簡単な説明を見る位で、詳しい履歴は知りませんでした。
前回の原稿を書いた後、杉本美術館を訪れ、杉本健吉の評伝を買い求めました。
「生きることは描くことー杉本健吉評伝ー」(木本文平著 求龍堂 2010) です。
木本氏は以前、愛知県美術館の学芸員をしておられていた方で私もテレビの取材で
お世話になったことがあります。
木本氏は杉本画伯に直接、会って聞き出した話をもとに、中日新聞に連載していた
ものを、一冊の本にまとられました。

前回、岸田劉生一家が関東大震災で鵠沼の家が倒壊して、京都へ移り住む途中、
一時、名古屋に逗留していたことを伝えましたが、その詳細はわかりませんでした。
ところが、この評伝でわかったことが沢山ありました。

まず、関東大震災で被害を受けた岸田劉生一家を名古屋から、いち早く見舞いに
駆けつけた片野元彦氏のことですが、評伝によりますと、「片野は劉生の下で
洋画を学び、草土社が一般公募の展覧会に踏み切った時に入選を果たしており、
その後は国画会で染色家として名をなした人物」とあります。
草土社は劉生を中心に結成された美術団体です。
劉生一家の名古屋での滞在先となった南武平町の片野家は「亡父 和助が広小路本町
で東園堂という薬問屋を営み、また、劉生の父吟香も銀座の精綺水本舗として有名な
薬問屋であったことから、上京や来名の折にはお互いの家に宿泊するという間柄で
あった。」ということです。

「劉生絵日記」第8巻 大正12年 (1923) 9月18日、劉生一家が片野宅にやっと
落ち着いた夜、「鈴木鎌造君来訪」とあります。その翌日も鈴木氏は片野宅を
訪れています。
評伝によりますと、「名古屋でさまざまな商売を営んでいた鈴木氏は、愛読誌
「白樺」の広告で劉生の作品を頒布する劉生画会を知って入会。劉生の自画像
作品を入手して以来、熱烈な劉生ファンであった。」と出ています。

興味深いのは、「劉生絵日記」には、何の記述もありませんが、評伝によりますと、
9月18日の夜、 杉本健吉は鈴木鎌造に連れられて、片野の家まで出かけていること
です。評伝では、「劉生絵日記」に杉本の記述がないのは「杉本が無名の画家志望
の青年であったことを考えると、いたしかたないことであろう。」とする一方、
劉生と初めて会った17歳になる杉本は、「太陽を見るような感じがした。」と後に
語ったということです。

杉本画伯は昭和29年から平成14年まで「絵日記」をつけていましたが、故人の遺志
により死後十年間は公開しないということで、この絵日記が公開になれば評伝には
ないような事実も明らかになるかもしれません。

写真は「生きることは描くことー杉本健吉評伝ー」(木本文平 著 求龍堂)と
愛知県知多郡美浜町にある杉本美術館のパンフレット。


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風が吹いている    麗

2017年11月09日 | Weblog
先日、郁子さんが所属されているコーラスグループが出演される市民音楽祭に行ってきました。
そこで聞いた「いきものがかり」の「風が吹いている」という曲。
ロンドンオリンピックのNHKのテーマソングだったみたいですが全曲聴いたのは初めてでぐっと来ました。
今の私の心にぴったりで、笑顔で歌っておられるみなさんの様子や美しいハーモニーに心が洗われ目頭が熱くなりました。

歌詞をご紹介しますと

「優しい歌 聴こえている 背中を押す言葉がある
このいのちよ この一瞬よ 誰かの光になれ

風よ吹いていけ 君とともに生きていけ
晴れわたる空が悲しくなる日もひとりじゃないんだ
声はそばにある
君と笑いたい 夢をわかちあいたくて
歌いあえるように 奏であえるように この時代を僕らを この瞬間を」

水野良樹さんの作詞作曲です。

黒のロングスカートで歌われる郁子さんのはつらつとした姿。本当に美しかったです。
15年も続けておられるそうです。やっぱり声を出すのはいいことですね。
小春日和の一日、私の心にもいい風が吹きました。郁子さん、ありがとうございました。

           秋日和優しい風が吹いて来た   麗
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11月句会が近づいてきました。   遅足

2017年11月08日 | Weblog
今回の題詠は「晩秋」です。

歳時記のもととなる旧暦では七月から九月までを秋とし、
七月を初秋、八月を仲秋、九月を晩秋と呼びます。
また、二十四節気では、寒露(十月八日)から
立冬(十一月七日)までの期間を晩秋としています。

同じ季節の終わりでも、春の終わりは日も長くなり、
夏が来るという明るい感じが。
これに対して秋の終わりには、日も短くなる。
気温も徐々に低くなり、ものさびしい気持ちに。

  帰るのはそこ晩秋の大きな木   坪内稔典

夕暮れ時でしょうか。一本の大きな木が立っています。
木に対峙した時、作者はあらためて自分も独りだと感じました、
そして、その木こそは自分の帰る場所、故郷なのだ、と。
晩秋という「淋しさ」の中に「帰ってゆく故郷」を感じ取ったのかも。
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かくれんぼ藁堆(にお)は暖かいい匂い   能登

2017年11月07日 | Weblog
藁堆(わらにお)、藁塚とも言います。
稲を刈り取ったあと、田に積み上げた藁束のこと。
秋の季語です。
作者の子供時代を思い出しての一句でしょうか。
稲刈りの終わった田でカクレンボ。
日差しに温められた藁堆は暖かで、いい匂いでした。
今の子にはどうかな?
私達の世代にとっては懐かしい藁の匂いです。

  藁塚に一つの強き棒挿さる  平畑静塔

地方によって様々な呼び方があります。
わらにょう・けらば・にご・わらぼっち・すぼけ・・・

写真は東北旅行の際、バスのなかから撮影したものです。

                       遅足




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中日歌壇 入選

2017年11月06日 | Weblog
本日の中日新聞、中日歌壇に遅足さんの歌が選ばれています。
しかも
島田修三氏、小島ゆかり氏の選 両方にありました。

(島田氏選)
コノボタン押シタラ過去ニ行ケマスカ夕焼三丁目ツギ止マリマス

(小島氏選)
中指がするするのびてバスケットボールすっぽり網におさまる

どちらの歌も素晴らしいですね。


両氏の評も紹介します。
 
 コノボタン
 映画「三丁目の夕日」の郷愁に通ずる情感。カタカナ書きもきいている。


 中指が・・
 バスケットのシュートが決まった。ただそれだけの場面が、
 「中指がするするのびて」という大胆な表現により、がぜん
 独創的な世界になった。選手の手(あるいは指)の動きまでよく見える。

おめでとうございます。郁子
 
 




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満月や地球に生を享(う)けしこと   亜子

2017年11月05日 | Weblog
秋の夜。空気も澄み渡る頃。空には満月・・・・
ふっと自分のいるのが地球であることに気づきます。
生を享けたのは宇宙の中の小さな星のひとつ、水の惑星・地球。
広大な宇宙のなかの小さな小さな人間という存在。

しかし、その小さな生は宇宙を想像する力を持っています。
僅か17文字の中に大きな宇宙を詠み込んだ句です。

お天気が続き、お月様のきれいな夜が続いてます。 遅足


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人道の丘を飛び立つ飛蝗かな   遅足

2017年11月04日 | Weblog
千葉に住む弟が名古屋へ。ひさしぶりに男兄弟3人でドライブ。
目的地は岐阜県八百津町の人道の丘。
第二次世界大戦の中、リトアニアの領事だった杉原千畝さんが
亡命を求めるユダヤ人にビザを発行。二千人以上のいのちを救ったという。
杉原さんは本国の指示に反した行動で、後に外務省を退職することに。

ユネスコの世界記憶遺産への申請が認められなかった直後、
記念館の人達はみなガッカリした表情でした。
それでも観光バスに乗った団体さんの姿も。

弟はモスクワ勤務のころに杉原千畝さんのことを知り
最近、リトアニアに行ってきたとのこと。
現地では杉原千畝さんはほとんど知られていないそうでそ。
弟たちは、はじめて八百津に。
私は2回目でした。20ねんぶりでしょうか。
今回は「なぜホロコーストは起こったのか?」ということが
気になりました。
日本国内でヘイトスピーチなど排外主義の空気が強くなって
きたためでしょうか・・・

八百津名物は煎餅お栗きんとん。
弟たちは煎餅を、私は栗きんとんをお土産に買いました。
晴れ上がった秋の一日でした。

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杉本美術館で思い出したこと ⑴ ー岸田劉生ー 竹中敬一

2017年11月03日 | Weblog
私は時々、愛知県の知多半島にある杉本美術館を訪れています。
緑に囲まれた閑静なところにあり、展示品を見て廻るには、手頃な広さで、
のんびりと過ごせます。
ここで、いつも感じるのは、杉本健吉という画家には生涯、絵が好きで、
好きで描いていないといられない天性のものが備わっていたと、いうことです。

杉本健吉 (1905〜2004)の年譜によると、名古屋市生まれ、愛知県立工業学校
図案科を卒業後、大正14年(1925)、「岸田劉生の門下生となる」とあります。
19歳の時です。この件について、晩年の杉本画伯にお会いした時、お聞きして
おけばよかったのですが、聞き漏らしてしまいました。

岸田劉生(1892〜1929) は、「麗子像」などで知られ、今も根強い人気が
あります。
杉本健吉さんが岸田劉生に会った二年前、関東大震災で劉生一家は神奈川県の
鵠沼から京都に移り住んでいます。
劉生は39歳という若さで亡くなった夭折の画家ですが、生涯の中で約7年間の
鵠沼時代が一番、充実していた時期で、多くの著作も世に出しています。

次々に話題作や独自の画論を発表し、それに感銘を受けた若き日の杉本健吉
さんは、劉生が京都に移り住んだと聞いて、弟子入りしたのでしよう。
劉生はこの時、35歳でした。

私は「岸田劉生全集」(岩波書店 1979〜1980年刊 全10巻)を持っていますが、
第5巻、大正9年(1920)から30歳になったのを期に、劉生は鵠沼日記と題して
絵日記を書き始めます。
ところが、最後の10巻目、大正14年のところを見てみると、これまで一日も
欠かさず、つけていた日記が突如、7月9日以降はつけておらず、その後も昭和
3年まで途切れ途切れにしか書き記していません。
私が見た限りでは、大正14年、杉本健吉さんとの出会いについて触れた日記は
見当たりませんでした。

話はちょつとそれますが、「劉生絵日記」をもとに、岸田劉生と名古屋との関係
について、調べてみました。
関東大震災のあった大正12年(1923)9月1日、鵠沼の家が被害を受け、劉生一家
(妻 蓁、妹 照子、娘 麗子) は、京都へ移ることになりました。
日記には、9月13日、名古屋から片野元彦という人が訪ねてきてくれて、
とりあえず、劉生一家は名古屋に落ちつくことになった、とあります。
日記から片野元彦は名古屋市の南武平町に住んでいる人である、というところ
までで、それ以外は何もわかりません。
多分、劉生のフアンで以前から交流があったのでしょう。劉生一家は9月17日、
横須賀から軍艦で静岡県の清水港へ。翌18日、列車で名古屋に着き、やっと、
片野宅に落ち着きます。

「御母さんは片野君の無事に涙を流して喜び、余等を喜び迎えてくれた。
これでやうやく、地震からまぬかれた。深く深く感謝する。」
この日から、劉生一家4人は約半月、片野宅で過ごし、妻の蓁(しげる)と娘の麗子
は大須で支那の奇術を見て楽しんだりしています。
また、劉生は片野宅に滞在中、度々、画会を開き、 片野氏ら名古屋の劉生フアンに
よって、劉生の絵の売買が行われていました。

「名古屋の町の大きい事又相当にいい町である事、どこか東京に似てゐてなつかしい
事などを知ったり感じたりした。」
東京銀座のど真ん中で生まれた劉生にとって、都会が恋しかったせいか、名古屋の
印象はよかったようです。               
                              (続く)

写真は「岸田劉生 全集」(岩波書店 1979~1980刊 全10巻」です。


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母の乗り物     麗

2017年11月02日 | Weblog
用事で実家に里帰り。いつもは家事に追われゆっくり話ができないのですが、
今回は雨で洗濯できなかったので、その分母とおしゃべりができました。

母の言葉数が少なくなって来ているので、しりとりのような言葉ゲームをして遊びました。

食べ物の単語を五十音順で「あ」から交互に言い合います。

「飴」「イチゴ」「梅干し」など。
割と出て来るので一安心。
「の」の時は「野蒜」、「ろ」の時は「ロールキャベツ」まで出てきたから「おかあさん!すごいね」とほめてあげました。とても嬉しそうで笑顔も出ました。食べ物シリーズは盛り上がります。

その調子で「じゃあ、乗り物を10個、言ってみて!」とリクエストすると。。。

母「電車、汽車」ここで止まりました。

しばらく考えて

母「かご!」

私「確かに。。。そう来るとは思わなかった!」「他には?」

母 「う~ん。渡し船」

私「しぶいね~。」

母は一体いつの時代の人なのでしょう?(笑)
人の記憶の不思議さをかいま見ました。いつも乗ってるデイサービスのお迎えのバスや、嫌いだった飛行機が出ないのが不思議です。

介護を終えた友人が、いつも家事に追われてゆっくりお話する時間がなかったと後悔していました。「掃除なんかよりできるだけそばでお話してあげて。」と言われたことを思い出しました。

母の日記を見ると

毎日一句を作ることを目標にしているとのこと。
ある日は短歌調で書いてありました。

       我が友は一人逝き又一人逝き私を残して立ち去りぬ

何とも言えない淋しさが忍び寄ってくるとこぼす母。また帰った時いっぱいお話しようね。


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