日本男道記

ある日本男子の生き様

室津(ニ)1

2024年10月22日 | 土佐日記


【原文】 
十七日。
曇れる雲なくなりて、暁月夜、いとおもしろければ、船を出だして漕ぎ行く。
このあひだに、雲の上も、海の底も、同じごとくになむありける。むべも、昔の男は、「棹は穿つ波の上の月を、船は圧ふ海の中の空を」とはいひけむ。聞き戯れに聞けるなり。
また、ある人のよめる歌、
水底の月の上より漕ぐ船の棹にさはるは桂なるらし
これを聞きて、ある人のまたよめる、
かげ見れば波の底なるひさかたの空漕ぎわたるわれぞわびしき

【現代語訳
十七日。
曇っていた雲もなくなり、夜明け前の月夜がとても美しいので、船を出して漕いで行く。
このときは、雲の上にも、海の底にも月が輝いて同じようであった。
なるほど、昔の男は、「棹は穿つ波の上の月を、船は圧う海の中の空を(船の棹は雲の上の月を突き、船は海に映った空を圧えつけている。)」とはよく言ったものだ。
女である私は漢詩がよくわからぬままにいい加減に聞いたのである。(だから間違っているかもしれない)
また、ある人が詠んだ歌は、
水底の月の上より…
(水底に映っている月の上を漕いで行く船の棹に触るのは月に生えているという桂なのだろう)
この歌を聞いて、また、ある人が詠んだ歌は、
かげ見れば…
(月の影を見ると、波の底にも空が広がっているみたいだ。その上を船を漕いで渡っていく自分はちっぽけでわびしいものであった)


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

室津(一)4

2024年10月15日 | 土佐日記


【原文】 
十六日。風波やまねば、なほ同じところに泊まれり。
ただ、海に波なくして、いつしか御崎といふところわたらむ、とのみなむ思ふ。風波、とににやむべくもあらず。ある人の、この波立つを見てよめる歌、
霜だにも置かぬかたぞといふなれど波の中には雪ぞ降りける
さて、船に乗りし日より今日までに、二十日あまり五日になりにけり。

【現代語訳
十六日。風も波も止まないので、やはり、同じところに停泊している。
ただ、海に波がなくなって、いつになったら御崎という所を通り過ぎるのだろうかとばかり思う。だが風も波も急に止む気配が無い。ある人が、この波立つのを見て、歌を詠んだ。
霜だにも…
(霜さえ降りない暖かい地方だというけれど、なんと波の中には雪が降っていることよ)
さて、船に乗り込んだ日から今日まで二十五日が過ぎてしまった。







◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

室津(一)3

2024年10月08日 | 土佐日記


【原文】 
さて、十日あまりなれば、月おもしろし。船に乗り始めし日より、船には紅濃く、よく衣着ず。それは、海の神に怖ぢてといひて、何の葦蔭にことづけて、老海鼠のつまの貽鮨、鮨鮑をぞ、心にもあらぬ脛にあげて見せける。
十四日。暁より雨降れば、同じところに泊まれり。
船君、節忌す。精進物なければ、牛時より後に、梶取の昨日釣りたりし鯛)に、銭なければ、米をとりかけて、落ちられぬ。
かかること、なほありぬ。梶取、また鯛持て来たり。米、酒、しばしばくる。梶取、気色悪しからず。
十五日。今日、小豆粥煮ず。口惜しく、なお日の悪しければ、ゐざるほどにぞ、今日、二十日あまり経ぬる。いたづらに日を経れば、人々、海を眺めつつぞある。
女の童のいへる、
立てばたつゐればまたゐる吹く風と波とは思ふどちにやあるらむ
いふかひなき者のいへるには、いと似つかはし。

【現代語訳
さて今夜は十日過ぎのことですから月が美しい。
船に乗り始めた日から、船中では、女たちは紅の濃い、いい着物を着ていない。
それは、海の神に魅入られるのを恐れてというわけだが、今はなに、かまうものかと頼りない葦の陰にかこつけて、ほやに取り合わせる貽貝(いがい)の鮨(すし)(男性器の象徴)や、鮨鮑(女性器の象徴)を、思いもかけぬ脛まで高々とまくりあげて海神に見せつけたのであった。
十四日。明け方から雨が降ったので同じところに停泊している。
船主が節忌(精進潔斎)をする。(とはいえ船の中なので)精進物が無いので午前中で取りやめにし、十二時より後に船頭が昨日釣った鯛を、お金が無いので、手持ちの米を代金の代わりに船頭に与えて、精進落ちをなさった。
このようなことが、何度かあった。船頭がまた鯛を持ってきた。その都度米や酒を与えた。それで船頭は機嫌がいいのだ。
十五日。今日は小豆粥を煮る日だったが小豆がないので取りやめにした。口惜しいうえに、天気が悪く、船が進まないでいるうちに、今日で、二十日ほど経過してしまった。
無為に日を過ごしているので、人々は、ただ、海を眺めて、思いに耽るばかりであった。
幼い女の子が次のように歌を詠った。
立てばたつ…
(風が立てば波も立ち、風がおさまれば波もおさまる風と波とは仲良し友達なのかしら)
言うに足りない幼い者の言った歌としては、とても似つかわしい。






◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

室津(一)2

2024年10月01日 | 土佐日記


【原文】 
この羽根といふところ問ふ童のついでにぞ、また、昔へ人を思ひ出でて、いづれの時にか忘るる。今日はまして、母の悲しがらるることは。下りし時の人の数足らねば、古歌に「数は足らでぞ帰るべらなる」といふことを思ひ出でて、人のよめる、
世の中に思ひやれども子を恋ふる思ひにまさる思ひなきかな
といひつつなむ。
十二日。雨降らず。
ふむとき、これもちが船の遅れたりし、奈良志津より室津に来ぬ。
十三日の暁に、いささかに雨降る。しばしありてやみぬ。
女これかれ、沐浴などせむとて、あたりのよろしきところに下りて行く。海を見やれば、
雲もみな波とぞ見ゆる海女もがないづれか海と問ひて知るべく
となむ歌よめる。


【現代語訳
この羽根と言う所のことを問うた子のことから、(みんな)また、亡くなった子のことを思い出し、いつになったら忘れられよう。今日はまして、その子の母の悲しがられることといったらない。
京から下った人の数が足らないので、古歌に「数は足らでぞ帰るべらなる(人数は足りなくなって帰京するようだ)」というのを思い出して、ある人が(みんなに代わって詠んだ歌は、
世の中に…
(いろいろと考えてみても、この世の中で子を恋しく思う親の思い以上に痛切な思いはないことだなあ)
と言いながら嘆くのだった。
十二日。雨は降らない。
一行の中で、ふむとき、これもちの船が遅れていたのが、ようやく奈良志津(ならしづ)から室津に来た。
十三日の夜明け前に、すこしばかり雨が降ったがしばらくして止んだ。
女たちのだれかれが、水浴びでもしようということで、そのあたりの適当な場所に下りて行く。遠く海を眺めると、
雲もみな…
(空行く雲もみな波のように見える。近くに海女でもいればなあ。どれが海なのかと、たづね知りたいので)
こんな歌を詠んだことだ。





◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

室津(一)1

2024年09月24日 | 土佐日記


【原文】 
十一日。暁に船を出だして、室津を追ふ。人みなまだ寝たれば、海のありやうも見えず。ただ、月を見てぞ、西東をば知りける。かかるあひだに、みな夜あけて、手洗ひ、例のことどもして、昼になりぬ。
今し、羽根といふところに来ぬ。わかき童、このところの名を聞きて、「羽根といふところは、鳥の羽のやうにやある」といふ。まだ幼き童の言なれば、人々笑ふときに、ありける女童なむ、この歌をよめる。
まことにて名に聞くところ羽根ならば飛ぶがごとくにみやこへもがな
とぞいへる。
男も女も、いかでとく京へもがな、と思ふ心あれば、この歌よしとにはあらねど、げに、と思ひて、人々忘れず。

【現代語訳
十一日。夜明前に船を出して、室津を目指す。
人は皆寝ているので、海の状態もわからない。ただ、月を見て西東の方向を判断したのである。こうしているうちにすっかり夜が明けて、みんなが手を洗い、いつものきまりごとどもをして、昼になってしまった。
今、羽根という所に来た。幼い子がこの地名を聞いて、「羽根という所は鳥の羽のようなところかな」と言う。まだ幼い子の言うことだからと、人々が笑っているときに、例の女の子がこんな歌を詠んだ。
まことにて…
(本当にその名の通り、この「羽根」という土地が鳥の羽根ならば、その羽根で飛ぶように都にかえりたいものだ)
と詠んだのだ。
男も女もなんとかして京へかえりたいと心に思っているものだから、この歌を上手な歌だとは思わないが、なるほどねえと思って皆が覚えている。




◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

奈半の港 3

2024年09月17日 | 土佐日記


【原文】 
かくあるを見つつ漕ぎ行くまにまに、山も海もみな暮れ、夜更けて、西東も見えずして、天気のこと、梶取の心にまかせつ。男もならはぬは、いと心細し。まして女は、船底に頭をつきあてて、音をのみぞ泣く。かく思へば、船子、梶取は舟歌うたひて、何とも思へらず。そのうたふ歌は、
春の野にてぞ音をば泣く 若薄に 手切る切る摘んだる菜を 親やまぼるらむ 姑や食ふらむ かへらや
 
夜べのうなゐもがな 銭乞はむ そらごとをして おぎのりわざをして銭も持て来ず おのれだに来ず
これならず多かれども、書かず。これを人の笑ふを聞きて海は荒るれども、心はすこし凪ぎぬ。
かく行き暮らして、泊に到りて、翁人一人、専女一人、あるが中に心地悪しみして、ものものし給ばで、ひそまりぬ。十日。今日は、この奈半の泊に泊まりぬ。

【現代語訳
このような美しい景色を見ながら漕いで行くと、山も海もみな暮れ、夜が更けて、西も東も見えなくなってしまって天気のことは船頭の心に任せる。男も船旅に慣れていないものはとても心細い。まして私たち女は、船底に頭を押し当てて声をあげて泣くばかりである。このような切ない思いをしていたのに、船子や梶取は舟唄など歌って何とも思っておらず、そのうたう歌は
春の野にてぞ… 
(春の野原で声をあげて泣く。若薄で手を何度も切って摘んだ菜を、親が食うやら、姑が食うやら、帰ろうよ)
夜べの…
(ゆんべ出会うた娘っ子にあいたいものよ。銭を要求するぞ。嘘をついて、掛け買いをして、銭も持ってこないで顔さえ出さない)
この二つの歌以外の歌も多かったけどいちいち書かかない。これらの歌を人々が面白がって笑うのを聞いて、海は荒れているが心はすこし穏やかになった。
このように数日漕ぎつづけて、港についたとき、お爺さん一人、おばあさん一人が、とりわけ気分が悪くなって、ひっそり引き籠って寝てしまった。
十日。今日はこの奈半(なは)の港に停泊した。



◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

奈半の港 2

2024年09月10日 | 土佐日記


【原文】 
かくて、宇多の松原を行き過ぐ。その松の数いくそばく、幾千歳経たりと知らず。もとごとに波打ち寄せ、枝ごとに鶴ぞ飛びかよふ。おもしろしと見るに堪へずして、船人のよめる歌、

見渡せば松のうれごとにすむ鶴は千代のどちとぞ思ふべらなるとや。

この歌は、ところを見るにえまさらず。

【現代語訳
このようにして、宇多の松原を通り過ぎて行く。その松の数がどれほどのものか、幾千年を経たものかはかりしれない。松の根元ごとに波がうちよせ、枝ごとに鶴が飛び通う。なんてすばらしい景色だろうと見ているだけでは耐えきれず船人が歌をよみました。
見渡せば…
(見渡せば、松の梢ごとに住んでいる鶴は、その松を千年も変わらぬ友達と思っているようだ。)
とか。
でも、この歌は実際の景色のすばらしさを見ると、とても及ばない。



◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

奈半の港 1

2024年09月03日 | 土佐日記


【原文】 
九日のつとめて、大湊より、奈半の泊を追はむとて、漕ぎ出でたり。
これかれ互ひに、国の境のうちはとて、見送りに来る人あまたが中に、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさ等なむ、御館より出で給びし日より、ここかしこに追ひくる。この人々ぞ、志ある人なりける。この人々の深き志はこの海にもおとらざるべし。
これより、今は漕ぎ離れて行く。これを見送らむとてぞ、この人どもは追ひ来ける。かくて漕ぎ行くまにまに、海のほとりにとまれる人も遠くなりぬ。船の人も見みえずなりぬ。岸にもいふことあるべし。船にも思ふことあれど、かひなし。かかれど、この歌をひとりごとにして、やみぬ。

思ひやる心は海をわたれどもふみしなければ知らずやあるらむ。

【現代語訳
九日の朝早く、大湊から、「奈半へ向かおう」と、いって、漕ぎ出した。
この人もあの人も、かわるがわる国(=郡)の境まではと見送りに来る数多くの人の中に、藤原のときざね、橘のすゑひら、長谷部のゆきまさたちは前国司が館をご出立なさった日から、ここかしこの港に追ってくる。この人々こそ、本当に情の厚い人なのだ。この人々の深い志は、この海の深さにもおとらないだろう。
この大湊から今度こそ漕いで離れていく。これを見送ろうとしてこの人々が、追いかけてくる。このように船の漕ぎ進むにつれて、海辺にとどまっている人々も遠くなってしまった。船に乗って行く人も海辺からは見えなくなってしまった。岸にいる人々もまだ言いたいことがあり、船に乗っている人々もまだ思うことがあるのだが、今はもうどうしようもない。
こんなふうに思いは尽きませんが、この歌を独り言につぶやいてあきらめた。
思ひやる…
(海辺の人々をはるかに思いやる心は海を渡っていくが、心の中で思っているだけで、海を越えることも文をやることもできないので、先方は私たちの気持ちを知らずにいるのだろうか。「文」と海を「踏み」わたるの「踏み」を掛ける)


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

大湊2

2024年08月20日 | 土佐日記


【原文】 
二日。なほ大湊に泊まれり。
講師、物、酒おこせたり。
三日。同じところなり。
もし、風波の、しばしと惜しむ心やあらむ。心もとなし。
四日。風吹けば、え出で立たず。
まさつら、酒、よき物奉れり。この、かうやうに物持て来る人に、なほしもえあらで、いささけわざせさす。物もなし。にぎははしきやうなれど、負くる心地す。
五日。風波やまねば、なほ同じところにあり。
人々、絶えず訪)ひに来。
六日。昨日のごとし。

【現代語訳
二日。やはり大湊に泊まっている。
国分寺の住職が食べ物や酒を贈ってよこした。
三日。同じところにいる。
風波にしばらくおとどまりくださいという出発を惜しむ心があるのだろうか。気がかりなことだ。
四日。風が吹いたので出航できず。
まさつらが(一行の長に)酒や結構な物をさしあげる。このように物を持ってくる人に、何もしないわけにはいかないので、わずかばかりの返礼をさせる。とはいってもろくなものはないが・・・。
(入れ替わり立ち替わり贈り物をもらうので)裕福なように見えるが、気の引ける思いがする。
五日。風も波も止まないので、やはり、同じところにいる。
人々がひっきりなしに訪ねて来る。
六日。昨日と同じである。

◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

大湊 1

2024年08月13日 | 土佐日記


【原文】 
二十九日。大湊に泊まれり。
医師ふりはへて、屠蘇、白散、酒加へて持て来たり。志あるに似たり。
元日。なほ同じ泊なり。
白散を、ある者、夜の間とて、船屋形にさしはさめりければ、風に吹きならさせて、海に入れて、え飲まずなりぬ。芋茎、荒布も歯固めもなし。かうやうの物なき国なり。求めしもおかず。ただ、押鮎の口をのみぞ吸う。この吸う人々の口を、押鮎、もし思ふようあらむや。「今日はみやこのみぞ思ひやらるる」「小家の門のしりくべ縄の鯔の頭、柊ら、いかにぞ」とぞいひあへなる。

【現代語訳
二十九日。大湊に停泊。
土佐の国の医師がわざわざ、屠蘇、白散(漢方薬の一種)に加えて酒をもってやってきた。好意があるようだ。
元日。依然として大港に停泊している。
白散を、ある人が夜の間だけだということで、船屋形にはさんでおいたのだが、風にふかれつづけて、だんだんずれて海に落ちてしまい飲めなくなってしまった。
正月というのに、芋茎、荒布も歯固めもない。このように物が無いところなのだ。あらかじめ求めてもおかなかった。ただ、押し鮎の口ばかりをしゃぶっている。この吸う人々の口を押鮎はもしかして何とか思うことがあるだろうか。
今日は都のことばかり思いやられる。庶民の家の門に飾ってある注連縄の鯔のお頭や柊はどんな具合だろうかと皆で言い合っているようだ。

◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

大津~浦戸2

2024年08月06日 | 土佐日記


【原文】 
かく別れがたくいひて、かの人々の、くち網も諸持(もろも)ちにて、この海辺にてになひ出だせる歌、
惜しと思ふ人やとまると葦鴨(あしがも)のうち群れてこそわれは来にけれ
といひてありければ、いといたくめでて、行く人のよめりける、
棹させど底ひも知らぬわたつみの深きこころを君に見るかな
といふあひだに、楫取もののあはれも知らで、おのれし酒をくらひつれば、早く往なむとて、「潮満ちぬ。風も吹きぬべし」とさわげば、船に乗りなむとす。
この折に、ある人々、折節につけて、漢詩(からうた)ども、時に似つかはしきいふ。また、ある人、西国(にしぐに)なれど甲斐歌などいふ。「かくうたふに、船屋形の塵も散り、空行く雲も漂ひぬ。」とぞいふなる。
今宵、浦戸に泊まる。藤原のときざね、橘のすゑひら、こと人々、追ひ来たり。
二十八日。浦戸より漕ぎ出でて、大湊を追ふ。
このあひだに、はやくの守の子、山口のちみね、酒、よき物ども持て来て、船に入れたり。ゆくゆく飲み食ふ。

【現代語訳
このように別れを惜しんで、その人々が、まるで漁師が網もみんなで心を合わせて担ぎ出すようにして、この海辺で合作した歌は、
惜(を)しと思ふ…
(お立ちになるのが惜しいと思っている人たちが、もしかしてとどまってくださるかと、葦鴨が群れるように大勢して私たちは来たのです)
とよめば、その歌を大変褒めて行く人がよんだ。
棹させど…
(棹をさしてもわからない海のような深い心をあなたはお持ちなのですね)
と言っているうちに、「もののあわれ」も解らない船頭が、自分ばかり酒を飲み終わったものだから、早く出発しようとして「潮が満ちたぞ、風も吹いてくるぞ」と大声を出すので、一行は船に乗り込もうとする。
その時、その場にいる人々が時節に合わせて、漢詩をいくつかその場にふさわしいのを朗詠する。また、ある人がここは西国だけど甲斐の民謡を詠いましょうと民謡を歌う。
「このようにすてきに詠うと船屋形の塵も感動して飛び散り、空行く雲も動きを止めて漂うだろう」と男たちは言っているようである。
今夜は浦戸に泊まる。藤原のときざね、橘(たちばな)のすえひら、そのほかの人々が追いかけてきた。
二十八日。浦戸から漕ぎ出し大湊を目指す。
この折に以前この国の国司であった人の子息、山口のちみねが酒やおいしい食べ物を持って来て船に差し入れた。船旅の途中で飲んだり食べたりする。

◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

大津~浦戸 1

2024年07月30日 | 土佐日記


【原文】 
二十七日。大津より浦戸を指して漕ぎ出づ。かくあるうちに、京にて生まれたりし、女子、国にてにはかに亡せにしかば、このごろの、出で立ちいそぎを見れど、何ごともいはず。
京へ帰るに、女子のなきのみぞ悲しび恋ふる。ある人々もえ堪えず、このあひだに、ある人の書きて出だせる歌。
みやこへと思ふをもののかなしきはかへらぬ人の あればなりけり
また、ある時には、
あるものと忘れつつなほなき人をいづらととふぞかなしかりける
といひけるあひだに、鹿児の崎といふところに、守の兄弟、またこと人これかれ、酒なにと持て追ひ来て、磯に下りゐて別れがたきことをいふ。
守の館の人々の中に、この来たる人々ぞ、心あるやうには、いはれほのめく。

【現代語訳
二十七日大津から浦戸を目指して船を漕ぎ出す。このようなことをしている一行の中に京で生まれた女子を任国ではかなく死なせてしまった人がいて、この頃の出発準備を見ても何も言わなかった。
京へ帰るにつけて亡くした女子のことだけを思って悲しみ恋しがる。居合わせた人々も悲しくて堪らない。そこで、ある人が書いて差し出した歌は、
みやこへと…
(都へ帰れると思うのは嬉しいけれど、悲しいのは死んでしまって帰れぬ人がいることであった。) 
また、ある時には、
あるものと…
(今もいるものと、いなくなったことをついつい忘れて、死んだあの子をどこにいるのかと尋ねてしまうのは、悲しいことだ)
と言っているうちに、鹿児の崎という所に、国司の兄弟や、また別の人だれかれが、酒などを持って追って来て磯辺に下りてきて座り、別れがたいことをいう。新国司の館の人々の中で、ここにやって来た人々こそ、真の心の篤い人々であるように、言われもし、そうも思えもする。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

(3)忘れがたく、……

2024年07月23日 | 土佐日記


【原文】 
①忘れがたく、くちをしきこと多かれど、え尽くさず。
②とまれかうまれ、とく破りてむ。

【現代語訳
①忘れられず、残念なことが多いけれど、全部を書きつくすことはできない。②とにもかくにも、〔これを〕早く破いてしまおう。
 


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

(2)さて、池めいてくぼまり、……

2024年07月16日 | 土佐日記


【原文】 
①さて、池めいてくぼまり、水つけるところあり。
②ほとりに松もありき。
③五年六年のうちに、千年や過ぎにけむ、かたへはなくなりにけり。
④今生ひたるぞ混じれる。
⑤おほかたの、みな荒れにたれば、「あはれ。」とぞ人々言ふ。
⑥思ひ出でぬことなく、思ひ恋しきがうちに、この家にて生まれし女子の、もろともに帰らねば、いかがは悲しき。
⑦船人もみな、子たかりてののしる。
⑧かかるうちに、なほ悲しきに堪へずして、ひそかに心知れる人と言へりける歌、
⑨生まれしも帰らぬものをわが宿に小松のあるを見るが悲しさ
⑩とぞ言へる。なほ飽かずやあらむ、またかくなむ、
⑪見し人の松の千年に見ましかば遠く悲しき別れせましや

【現代語訳
①さて、池のようにくぼんで、水に浸かっているところがある。
②〔池の〕そばには松もあった。
③五、六年のうちに、千年が過ぎてしまったのだろうか、半分はなくなっていた。
④新しく生えたのがまじっている。
⑤〔松だけでなく〕大体のものが、すべて荒れてしまっているので、「なんてひどい。」と人々は言う。
⑥思い出さないことはなく、恋しい思いのなかでも、この家で生まれた女の子が、一緒に帰らないので、どんなに悲しいことか。
⑦船の人(=同じ船で一緒に帰京した人)もみな、子どもがよってたかって大騒ぎをしている。
⑧こうしているなかで、やはり悲しさにたえられずに、ひっそりと気心のしれている人と言いあった歌、
⑨〔ここで〕生まれた子も帰ってこないのに、我が家〔の庭〕に小松があるのを見るのは〔子どもが思い出されて〕悲しいことだ
⑩と言った。やはり満足しないのであろうか、またこのように〔詠んだ〕、
⑪亡くなった子が、千年の齢を保つ松のように〔いつまでも生きながらえて〕見ることができたならば、〔土佐での〕遠く悲しい別れをしただろうか、いや、しなかっただろうに。



◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。 

帰京 (1)京に入り立ちてうれし。

2024年07月09日 | 土佐日記


【原文】 
①京に入り立ちてうれし。②家に至りて、門に入るに、月明ければ、いとよくありさま見ゆ。③聞きしよりもまして、いふかひなくぞこぼれ破れたる。④家に預けたりつる人の心も、荒れたるなりけり。⑤「中垣こそあれ、一つ家のやうなれば、望みて預かれるなり。」⑥「さるは、たよりごとに、ものも絶えず得させたり。」⑦「今宵、かかること。」と、声高にものも言はせず。⑧いとはつらく見ゆれど、こころざしはせむとす。
【現代語訳
①都に入って嬉しい。
②家に着いて、門に入ると、月が明るいので、たいそうよく〔家の〕様子が見える。
③聞いていた以上に、言いようもないほど壊れ、傷んでいる。
④〔留守の間に〕家を預けておいた人の心も、すさんでいるのだったよ。
⑤「中垣はあるけれども、一つの家のようなので、〔先方から〕希望して預かったのである。」
⑥「そうはいうものの、機会があることに、〔お礼の〕品物も欠かさず与えていた。」
⑦「今夜、こんな〔ひどいありさまだ〕こと。」と、〔みなに〕大声で言わせるようなことしない。
⑧たいそうひどいと思われるが、お礼はしようと思う。


◆『土佐日記』(とさにっき)は、平安時代に成立した日本最古の日記文学のひとつ。紀貫之が土佐国から京に帰る最中に起きた出来事を諧謔を交えて綴った内容を持つ。成立時期は未詳だが、承平5年(934年)後半といわれる。古くは『土左日記』と表記され、「とさの日記」と読んだ。