『「春の小川」が話題になっていますね。春の小川の歌詞が2回改変されたとは
知りませんでした。近所なので歌碑の歌詞がどうなっているのか見に行ったところ
オリジナルのものでした。

当たり前といえば当たり前ですね。暗渠になった現在からは、ここに
[こうほね-甲骨](スイレン科の植物の一種。水生の多年生草本。
浅い池や沼に自生する)が咲く小川が流れていたとはとても考えられません。

高野辰之がこの詩を作った当時は小田急線もなく、のどかなものだったのでしょう。
ブログの写真(船橋の春の小川)のすばらしい風景が変わらないことを願っています。
ちょうどロマンスカーが通過しました。

写真のように小田急線とビルに挟まれた通りが春の小川といわれても、
まったく想像できません。電信柱に春の小川とあるのが場違いのようです。

連想できるのは、この道にある下水のマンホールだけです。
☆Wさん、そうでしたね、貴兄は歌碑がある近くの住人でしたね。
嬉しくてやがて悲しきレポートをありがとうございます。
明治以降の日本が近代化(と言われる)道を歩いてきたばかりに
失ってきたシーンの一つですね。
いいも悪いもない、まさにこれが日本人が選んだ進路がもたらした
一つのサンプルのように思えます。
ところで、ここらあたりは貴兄が弓道場に通う道に近いのでしょうか?
☆第2信のメールをもらいました。
「歌碑は代々木八幡駅の近く、私のうちは一駅隣の代々木上原ですが、
歩いて20分ぐらいです。散歩で代々木公園に行くときはこの歌碑の
近くを通っていきます。
高野辰之の家の近くのためか、代々木上原駅と代々木八幡駅のガードの
壁には高野辰之の“ふるさと”や“朧月夜”の歌詞が書かれています。
高野辰之の住んでいた家の近くには岸田劉生が描いた切通しもあります。
私が大学生の時はまさに絵と同じコンクリートの塀が残っていましたが、
今はマンションになり、坂の途中に劉生切通しの場所と案内があるだけです。
あの塀も残しておいてほしかったものです。」