阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

さくらさん光岳に登る

2010年08月10日 | ゲストルーム
北海道登山旅行から帰った垂水の住人さくらさんとは、つい先日「軽鉄塔」のメンバーで久しぶりに集まって、
ハモ鍋を囲みながらお喋りをしました。
 そして今度の便りで、静岡県と長野県にまたがる光岳の登頂報告が入りました。
Wikipediaによると・・『光岳(てかりだけ)は赤石山脈(南アルプス)の山であり、標高2591.1m。日本百名山の一つ。南アルプスの最南端に位置する。富士山南斜面の同じ標高の地点(富士宮口六合目付近)よりも緯度にしてわずか10秒、距離に換算して300mほど南に位置し、2500mを超える山としては日本の最南端にある。国内には光岳より南にそれより高い地点はない。』


南アルプス南端の光岳(標高2591m)登山

4日朝8時に神戸を出発、今回の登山仲間は4名だったので車1台で飯田市遠山郷に向かいました。
到着後、すぐに宿の裏手にある温泉“かぐらの湯”で汗を流し、早めの夕飯をとり眠につきました。

5日朝4時に宿を出て真っ暗な中、“林道赤石線”を登山口の易老渡(標高870m)まで車
を走らせ、登山開始は5時でした。今回の登山は遠山川にかかる橋を渡って易老岳(標
高2354m)までのジグザグの6時間ほどの登りがきつかった。易老岳から光小屋までの3
時間ほどの上り下りは、それに比べたら楽に感じられました。
○光岳小屋

○大入り満員の光岳小屋

光岳に着いた時は、お天気は良かったのですがガスがかかっていて富士山は見えず、
有名な光石も見に行きませんでした。
○光岳山頂標識

 6日朝は昨日の頑張った御褒美だったのか、雲海に浮かぶ朝焼けの富士山を見る
ことが出来ました。(トップの写真)
 でも私たちは下山して神戸まで帰らねばならなかったのでユックリ景色を楽しむ余裕
はありませんでした。登り9時間かかったのに、帰りは6時間チョットで易老渡まで下りることが出来ました。」
○夕焼けの雲海

○下山記念写真

♪光岳は日本百名山の一つなんですね。ハモと12年もののバレンタインは多少なりとも
エネルギーを補充したようですね。残暑はまだまだ続くそうなので健康維持にご留意
を!!
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広島勢の焼き討ちから再び芽生えた一宮神社の楠          

2010年08月10日 | ゲストルーム

新居浜のT・Uさんから一宮(いっく)神社の「楠のエピソード」と共に、その写真を送って頂きました。

今はこの世から消えたNYの貿易センタービルにT・Uさんが勤務されていた頃、ニューオリンズからの帰途、

ある日の昼時にお訪ねして、小さなレストランで旨いロシア料理をご馳走してもらったのは、もう30数年も昔のことです。

「さて、今日はヒロシマの爪痕の写真をひとつ。
四百数十年前、新居浜一帯は四国征伐で強行上陸し
たヒロシマの小早川2万数千の侵略軍によって、攻め
立てられ、住民の頑強なゲリラ戦に手を焼いたヒロシ
マ軍は焦土作戦を敢行、西条から三島にいたる、すべ
ての寺社は焼き払われました。

楠は通常まっすぐ高く伸びる樹なのですが、
一宮神社の参道の数十本の楠は写真のごとく奇怪な
形をしています。
地元の言い伝えでは、焼き払われた樹木の根だけが
残り、数年してその根から出てきた芽が成長してこのよ
うになったとのことです。まさに、ヒロシマによる爪痕です。」


頂いたメールには「新居浜市の歴史」というファイルが添付されていました。
その一部をご紹介します。

新居浜市の歴史

この地方には数千年の昔から人々が住みついていたことが、遺跡や発掘物から知られる。

この地方は隣の地域とともに、豊富な金属の産地であったため、古代から、砂金、銅の鋳造、土器の製作、製塩、水産業、米の栽培、定期的にここかしこで市が開かれ、

北海岸にある港から産物が北海道までも積み出され、繁栄していたことが、6-8世紀に建てられ、その後たびたび建てなおされ今にのこる多くの神社、仏閣からうかがい知ることができる。

7世紀に統一国家によりこの一帯は神野郡という名で郡制度に組み込まれた。8世紀に、新庁舎を今日の新居浜市中村近辺に移し、そこを「新居」と呼んだ。

そして、この新居の北の海岸を新居浜と呼ぶようになった。尚、神野郡は後に新居郡と呼ばれるようになった。

9世紀以後中央政府の力が弱まり、地方の豪族たちがこの地方を実質的に支配することとなった。
10世紀にこの地方の小島に村上氏が移住し、もともと航海にたけていた住民たちを組織して海賊となり、のちに内海を支配する水軍のいしずえを築いた。

12世紀から金子氏が居城金子城によりこの地をおさめていた。

16世紀中期に、全国制覇をめざす秀吉の命により、沢津浜に強行上陸した広島の兵2万余からなる小早川侵略軍と戦って敗北した。

多大の人的被害を蒙るとともに、侵略軍のとった焦土作戦によりこの地域は荒廃し、以後寒村となった。

17世紀に徳川幕府の直轄地、西条藩および小松藩の領地とに分割された。ある山の北斜面では古代から銅鉱を採掘していたが、

住民は南斜面にもっと大きな銅の鉱脈があることを知っていたが、幕府は採掘の免許を住民には与えずに、17世紀に大阪を基盤とする企業家”住友”に免許を与えた。

住友企業は鉱石の採掘を開始、鉱石は北岸の港から大阪へ積み出され、そこで精錬、、出島へ廻送されたものが、オランダ商人によって輸出された。

住友はこれにより大きな資金を蓄積した。

銅鉱石の採掘の開始と同時期に、西条藩の免許のもとに、東北の沿岸に塩田の開発が始まった。

 20年後に広島の塩田技師天野氏を招聘し、塩田の近代化と大規模化をがはかられた。

 19世紀にはこの塩田は全国最大規模の塩生産者のひとつとなり、塩は港から北海道までも送られるようになった。 

塩の生産は明治維新まで西条藩の事業として経営されていたが、のちに株式会社が設立された。

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