木下惠介監督 略歴
1912年(大正元年)12月5日、静岡県浜松市で8人兄弟の4男として生まれる(本名:木下正吉)。浜松工業学校(現浜松工業高等学校)紡績科を卒業後上京。33年、松竹蒲田撮影所に入って島津保次郎監督に師事。40年に徴兵され中国を転戦したが、翌年に戦傷のため帰国。43年に『花咲く港』で監督デビュー、山中貞雄賞を受賞。
51年に『カルメン故郷に帰る』で日本初の長編カラー映画を発表。54年『二十四の瞳』は日本中を感動の涙で包み、まさに国民映画となる。同年の「キネマ旬報ベストテン」では同作と『女の園』が黒澤明の『七人の侍』を抑えて1位・2位を独占。
その後も『野菊の如き君なりき』(55年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(57年)、『楢山節考』(58年)、『永遠の人』(61年)、『香華』(64年)と大ヒット作、問題作を次々と発表。えてして批評と興行は乖離しがちだが、その双方がいずれも安定して高い希有な存在だった。戦後、貧しい時代に、弱者への助け合いのメッセージを送り続けた木下の映画は希望であり、またその庶民的な視点は、大きく時代を鼓舞しリードするものだった。
64年、松竹を退社後は、テレビ界にも進出して「木下惠介アワー」などテレビドラマでも一時代を築く。76年『スリランカの愛と別れ』で9年ぶりに映画に復帰。60年代にすでにシナリオが完成していた『戦場の固き約束』の映画化に最期まで尽力しながらも、98年12月30日、脳梗塞のため死去。享年86歳。88年に木下門下の松山善三の『母』と同時公開された『父』が遺作になった。生涯にメガホンをとった映画は49作品。
「木下組」からは小林正樹、川頭義郎、松山善三、勅使河原宏、吉田喜重、山田太一など、多数の映画人が巣立っていった。
(引用はシネ・ヌーヴォのHPから)
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上映日程
1912年(大正元年)12月5日、静岡県浜松市で8人兄弟の4男として生まれる(本名:木下正吉)。浜松工業学校(現浜松工業高等学校)紡績科を卒業後上京。33年、松竹蒲田撮影所に入って島津保次郎監督に師事。40年に徴兵され中国を転戦したが、翌年に戦傷のため帰国。43年に『花咲く港』で監督デビュー、山中貞雄賞を受賞。
51年に『カルメン故郷に帰る』で日本初の長編カラー映画を発表。54年『二十四の瞳』は日本中を感動の涙で包み、まさに国民映画となる。同年の「キネマ旬報ベストテン」では同作と『女の園』が黒澤明の『七人の侍』を抑えて1位・2位を独占。
その後も『野菊の如き君なりき』(55年)、『喜びも悲しみも幾歳月』(57年)、『楢山節考』(58年)、『永遠の人』(61年)、『香華』(64年)と大ヒット作、問題作を次々と発表。えてして批評と興行は乖離しがちだが、その双方がいずれも安定して高い希有な存在だった。戦後、貧しい時代に、弱者への助け合いのメッセージを送り続けた木下の映画は希望であり、またその庶民的な視点は、大きく時代を鼓舞しリードするものだった。
64年、松竹を退社後は、テレビ界にも進出して「木下惠介アワー」などテレビドラマでも一時代を築く。76年『スリランカの愛と別れ』で9年ぶりに映画に復帰。60年代にすでにシナリオが完成していた『戦場の固き約束』の映画化に最期まで尽力しながらも、98年12月30日、脳梗塞のため死去。享年86歳。88年に木下門下の松山善三の『母』と同時公開された『父』が遺作になった。生涯にメガホンをとった映画は49作品。
「木下組」からは小林正樹、川頭義郎、松山善三、勅使河原宏、吉田喜重、山田太一など、多数の映画人が巣立っていった。
(引用はシネ・ヌーヴォのHPから)
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