ひと目2万本」とうたわれる梅の名所、兵庫県たつの市御津町の綾部山梅林で淡い紅白の花々が見ごろを迎え始めた。
播磨灘をのぞむ丘陵地約24ヘクタールに約10品種が植えられ、西日本有数の規模を誇る。
綾部山の梅林と室津 2002年3月 作成。
このところ、綾部山(兵庫県揖保郡御津町)の梅林のことを神戸新聞が盛んに紹介するので、かなり前に行った事がある同じ御津町の室津や
その先の赤穂御崎にももう一回行くことにして梅を見に出かけました。
43号線のセルフのスタンドで給油をした後、阪神高速でなくそのまま国道2号線を走りました。須磨を過ぎると、山と海の間の狭いゾーンに
JR山陽本線、私鉄の山陽電車、国道2号線の3本だけが隣り合って走っている個所があります。外には何も通る余地はなく狭いエリアにこれしかありません。
戦時、交戦相手国がここに爆弾を落とせば、一発で日本の東西の物流の大動脈をぶちきる効率のいい場所だとここを走るたびに思います。
暫く走ると明石ですが、明石ではいつもなら「魚ん棚(ウオンタナ)」に行き、昼網のトレトレの魚か鯨専門店で鯨肉を買って帰るのですが
今回は寄り道なので断念し、これも外したことはない駅前から浜側へおりた「きむらや」の<玉子焼>をテイクアウトで買い、車の中で食しました。
やはりウマイ。カカーナビも私も大満足で折りの中身を変わりばんこに食べました。
この他所でいう「タコ焼き」を漬け汁にひたして食べる<明石の玉子焼>は「明石浦の地タコの生きのよさ、つけ汁の珍味、卵白と黄身のミックスには
元祖としてきむらやの貫禄十分で名物としての舌覚味あり。」と包み紙に地元紙の昭和初期の記事が印刷されている惹句どうりで、これまで一回も裏切られたことがありません。
この店の大ダコの足のおでんも軟らかさと味の良さで他所では食べられませんが、今回は遅い朝飯で家を出てきたため、無念ながらパスしました。
明石からは県道718号とそれに続くR250を行きました。沿線にはダイセル、日本触媒、多木肥料、アースなどの工場があり、
仕事で昔行ったことがある会社も出てきました。この沿線は百年ほど前までは白砂青松の海岸だったのでしょうが、
今は工場と住宅、マンションと畑、たんぼが無秩序に連なり川端康成の「美しい日本である私」はどこやねんという感じです。
友人のN夫妻の在所の高砂/曽根を通る時にメーターを見たら丁度家から60kmで、新日鉄広畑の正門前が80kmでした。
結婚式でよく謡われる謡曲の「高砂や、尾上の松の・・・」は高砂あたりが舞台で、高砂市を通過する時に大きく「ブライダル都市高砂」と
看板が出ていたので、市も頑張ってるやんと思いましたが、今日びどれだけの人がわかるんやろうとも・・・。
昔の街道跡の道を、山陽電車のレールと平行して走ったり、古い商店街を注意して走ったりして国道250号を姫路、網干をすぎ
新舞子の綾部山の梅林に着きました。
一目2万本という宣伝文句をあまり信じてなかったのですが、行ってみて一山全て梅林というスケールの大きさとむせ返る梅の芳香に驚きました。
ここまで凄い梅林は始めてでした。
梅林は 幹の太い沢山の古木が良く手入れされていて、てっきり江戸時代からの梅林かと思ったら昭和43年に農林省の何かの補助金をうまく利用して、
土地の人たちが、梅の実を採集する組合をつくり梅の植林からスタートしたとのことでした。ゴルフ場で使われているカートのレールが斜面に張り巡らされ、
手入れの道具、肥料などの運搬に使われ、良く見ると給水パイプも全山に敷かれていました。
「桜切るバカ、梅切らぬバカ」といわれるとおり、よく手入れがされていて枝がバランスよく裁断され、また高さも低くトリミングされていて
斜面に立つと丁度目の高さに、白や紅やピンクが織り込まれた絨毯が見渡す限りひろがっていました。
知らなかったが、相方によると実がなるのは白い梅とのことで、なるほど 8:2くらいの割合で白梅が多かった。山の下から上まで梅の芳香に包まれて上っていくと、
黒崎の市街地や塩田あと、そして新舞子海岸のある瀬戸内海が視野に入ってきて春霞の中に雄大な眺めが広がりました。
充分堪能して、 ここで取れた梅で作られたウメ缶ジュースをサービスでもらい、おいしく飲み干し、室津に向かいました。
室津
室津へは10数年ほど前、神戸に戻って暫くして日帰りで行ったことがありますが、今回はガイドブックで見つけた「きむら」という旅館に一泊の予約をしました。
この旅館は竹久夢二や谷崎潤一郎が滞在し創作や執筆をしたと紹介されていましたが、いまは町中から出て高台へ移転しています。
宿の一角に夢二の絵が沢山掛けられていました。 竹久夢二はここからそう遠くない岡山県の邑久郡の出身です。
(このことは大阪時代、仕事で邑久のヤンマー造船所へ行った時に知りました)
室津は江戸時代、参勤交代の西国大名が参勤交代のため瀬戸内海を船で移動するときの船本陣があった自然の良港です。宿に車をおいて、部屋で一休みしました。
部屋からは、港と小さな湾を囲んだ平地にぎっしり立ち並んだ家々と漁船の群れが真下に見えました。
その後、宿のある高台から港までおりて町に入りました。町には昔の本陣と脇本陣だった建物が二つだけ保存され、博物館になっておりよく維持されていました。
江戸時代、北海道、秋田、酒田などと交易をした北回船の胴元達もこの地にいたり、本陣もいくつもあったりで、室津は近隣では飛びぬけて富裕な土地柄だったため、
姫路藩が飛び地として所有、支配していました。姫路の殿様や上級武士はここの金持ち連中から毎年盆正月に借金しては踏み倒し、その代償として苗字帯刀、
駕籠使用の許可などで、商人のご機嫌を取っていたような説明があり、笑いました。ロシア宮廷も清朝も江戸幕藩体制も末期になると人間のやることは皆同じで、
経済が商業資本に実質的に、押さえられています。脇本陣の家は革細工の煙草入れの製造元でもあり、当時から大阪船場に販売の店を持っていたそうです。
今に続く姫路の革産業は歴史があるんやなあと思ったことと、この豊野家の「豊」という字は姫路藩の筆頭家老である「豊田」氏から使用を許され、
名乗ったという説明で、そう言えば、知っているあの豊田さんも姫路西高の出身だったなあとフト頭に浮かびました。
江戸時代、参勤交代の西国大名の往来で栄えた頃、「室津千軒」と言われたという町中を歩くと今は全くの漁師町ですが、立派なお寺やソテツの群生がある
岬の丘に結構大きな「賀茂神社」があり、長年旦那衆がいたところだと実感します。
余談ながら加茂、鴨、賀茂と漢字は色々ですが、古代、海洋民族の「KAMO族」が南洋から日本に、次々と数多く漂着し各地の海辺に定住したり、
魚を追い、川を溯って山国へ移動して住みついたりしたため「賀茂川」や「賀茂」という地名は全国各地に数知れません。
また賀茂神社は京都の下賀茂、上賀茂神社のように日本の神社の中でも相当古い神社のようです。京都の下賀茂神社にお参りした時、
その建築物が、高床式で柱と屋根だけのマレーシア、サラワクやフィリピンの家と殆ど同じ形式なのに驚きました。とても寒い京都の気候から生まれた
構造物ではありません。また下賀茂神社に祭られている神様は当然「水」の神様です。やはり海から来た先祖を祀っているのでしょう。
魚中心の夕食を旅館なので部屋に運んで来てくれ、ゆっくりおいしく食べました。食事の後、ロビーの夢二のコレクションを見て早めに休みました。
何となく外が騒がしいので目が覚め、時計を見ると明け方の5時半でした。窓を開けるとドッドドッドとエンジンを轟かせ漁船が次々と港を出て行くところでした。
真っ暗闇の中をマストに赤と緑のランプをつけ、前だけを照らして同じ間隔を取って出港していきます。小さな漁船が100艘ほども一列縦隊で出て行くのを始めて見ました。
思わず最後の一艘が出て行くまで見てしまいました。朝食の時にいいものを見たと宿の女性に言ったところ、彼女には毎朝の出来事らしく、なんでそんなものが
珍しいのかという顔をされてしまいました。
港で干物を買って、赤穂御崎を目指しました。カーブの多い海岸線に沿って走っていくと、建造中の大きな自動車専用船が何ばいか見えてきました。
いつか相生市に入っていました。船が建造されていたのはIHIの相生造船所でした。本館と思える建物やドックを過ぎると、中国から江戸時代?に移入された
「ペーロン船」の競争会場が現れ、赤と金を多用した中国風の記念館があって、テレビでしか見たことがない場所に突然紛れ込みました。車で移動すると
時々こういう思いがけない楽しみがあります。
赤穂御崎でゆっくり海を眺めたあと、山陽自動車道の赤穂ICで高速に乗り、帰りは2時間ほどで家に帰り着きました。走行距離計は242kmになっていました。
行ったとさ。