阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

小説家 原田康子さん死去、  北海道の釧路と九州の佐賀はつながっていた

2022年09月23日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2009年10月24日(土)

小説家の原田康子さんが81歳で亡くなった。自分と同時代の、活字で名前を知ってきた人が亡くなると、なんとなく寂しく感じる。

昭和31年に出版された当時28歳の原田康子さんの小説「挽歌」は、社会的現象になるほどのベストセラーになった。

当時中学生だった私は、小説を読んだ記憶はないが、映画化もされたりして、北海道の釧路が舞台だということは頭に残っている。

作者が東京在住ではない若い女性だというのも、当時話題になった理由の一つだった。

     釧路を旅行したとき、佐賀に多い「古賀」という苗字のお店が多いので不思議に思った。

その疑問は、帰宅して間もなく原田康子さんが書いた一族をテーマにした大河小説「海霧」のお陰で晴れた。 

「日本あちこち記#15 <釧路から旭川へ その二> 2002.10記」
から一部抜粋

③ 釧路市街を走っていると、古賀電気店とか、古賀内科とか佐賀発祥の古賀姓の看板がよく見えました。

相方に「おかしかよねー、なじょうして釧路に佐賀の苗字が多かやろね」と九州なまりで言って、いい加減にやめなさいと怒られながらも、

それから一時間ほど九州弁もどきを喋りながら走りました。

この旅行から帰って暫くして新聞で、吉川英治文学賞を原田康子さんが、「海霧」で受賞という記事が出ました。

あらっ、「挽歌」の原田康子さんってまだ小説を書いていたんだと思いながら記事を読みました。

それによると、明治維新早々、当時の旧佐賀藩が明治政府から釧路地方の開発、統治を委託され、佐賀から士族、商人、農民から漁民まで殖民で沢山の人が移民した。

そのうちのある一族の女系三代記を書いたものが「海霧」だと書いてありました。

そうか、釧路に佐賀の苗字「古賀」が多いのも それなら納得と相方に得意顔ですぐ報告しましたが、「ああ、そうなん」という返事のみでした。

< 釧路から旭川へ その二>の全文はこちら

#14  釧路から旭川へ その一

昨年10月の連休に釧路から旭川まで3日間走って来ました。
秋晴れの下、阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖、三湖全部をきれいに見ることが出来ました。

北海道は、学生時代の1965年にぐるっと全体を、3週間ほど一人旅をしたのが最初です。
大阪から急行「日本海」で青森に出て、青函連絡船で函館に入り利尻、礼文島を含め
道南地方を除いた殆どの北海道を回りました。
 当時は夏休みにユースホステルを使ったり、駅で寝袋で泊まったりして北海道を学割の
周遊券を使い、貧乏旅行でまわるのが関西の学生のはやりでした。

 仕事で何回か行った事を除くと、その次は十数年前、会社から勤続25年で
もらった旅行券に金を足して、道南地方を3泊4日、レンタカーで相方と今回と同じ
紅葉の時期にまわりました。

 その折り、ふだんは家に車を持たない人間が運転していても、土地の人が地道を時速
100キロで普通に走る状況に合わせて走らざるをえず、1日が終わるとホテルで
肩がこって仕方ありませんでした。無意識ながら相当緊張して運転していました。
 北海道は当時も今も車の死亡事故日本で一番多い。それは運転するとすぐ納得
出来ます。高速道でなくとも、直線状の地道をどの車も100キロ走行が通常ですから。
いったん事故があれば必ず死人がでて不思議ではないスピードで走っています。
 
今回は、まず釧路に飛び、自宅のインターネットで予約していたレンタカーをピックアップしました。
空港近くのレンタカー会社で手続きをして、乗る事になった車が一度運転してみたかった
スバルのレガシーツーリングワゴンだったので、ついていました。
予約ではエンジン容量は指定しますが、車のメーカー名、車種までは確定してくれません。
これから阿寒湖や摩周湖を廻って旭川空港で車を返すまでほぼ丸3日間を運転する訳
ですから幸先がいいと嬉しくなりました。
 
走り始めの最初は丹頂鶴のコロニーに行きました。
 


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