「天ぷらの八ッ手屋」や、夜 飲みにいった「みますや」はまだ健在でした。
東京電機大学の裏にあって今は小川町に移転してきた中華の「四川一貫」も夏休みで閉まっていました。
“坦坦麺”は秋に来たときの楽しみにとっておきます。
画家の岡本太郎のアトリエ兼住居だった「岡本太郎記念館」は戦前の住居表示では青山高樹町3丁目にあります。前回上京したとき、
新規開館まもなくの新根津美術館を訪ねましたが、近くの岡本記念館に足を伸ばすエネルギーが残っていませんでした。
今回は岡本太郎記念館を訪ね、地下鉄の表参道駅から酷暑の中を歩いて10分ほど、あまりに暑いので途中のスターバックスで身体を冷やし、一息入れてから入館しました。
生前そのままに残っているアトリエにピアノがありました。与謝野晶子からもらったピアノだそうです。
岡本太郎は制作に疲れるとよくピアノをひいたそうですが、品格のある演奏だったと書いてありました。
庭もユニークな庭でした。縄文土器の独自性に気がつき、世間にそれを知らしめた岡本太郎は縄文時代からの祭である諏訪の御柱祭が大好きで、
祭のたびに諏訪に行き、あの大木にまたがり急坂を逆落としで下りたいと駄々をこねたそうですが、周囲にとめられたそうです。
青山の骨董通りにはニッカウヰスキーの本社があり、その昔、神田の事務所から仕事でときどき来たことがあります。
併設のカフェバー「うすけぼ(スコットランド古語でウイスキー)」もまだ営業しているようで、その前を懐かしく思いながら岡本太郎記念館に向かいました。
8月11日の11時過ぎ、前夜のアルコールが少し残ったまま、
浅草の雷門の真下で4人の知人と待ちあわせ、吾妻橋のほとりにある
アサヒビ-ル本社のビルの上に行きました。
最高階の一部にあるカフェで生ビールを一杯飲んでから、スカイツリーがある
押上の方向へ向かいました。居酒屋の二階の掘り炬燵席でアルコール付の
昼食をとってから「スカイ鳥居」の根元部分をじっくり観察しました。
これだけの鉄鋼品の塊が天に向かって聳え立っているのはやはり感動もんでした。
人間は名の知れた連中がアホなことを沢山やってますが、無名の大多数の人たちは
黙々と、このような凄いことをやってのけているんだと思いました。
自分で撮影したスカイツリーの全画像をデジカメの操作ミスで削除してしまったため、
見学5人パーティの最長老である取手の畑中先輩からこれらの写真を送って頂きました。
畑中さん、ありがとうございました。
新居浜のT・Uさんから一宮(いっく)神社の「楠のエピソード」と共に、その写真を送って頂きました。
今はこの世から消えたNYの貿易センタービルにT・Uさんが勤務されていた頃、ニューオリンズからの帰途、
ある日の昼時にお訪ねして、小さなレストランで旨いロシア料理をご馳走してもらったのは、もう30数年も昔のことです。
「さて、今日はヒロシマの爪痕の写真をひとつ。
四百数十年前、新居浜一帯は四国征伐で強行上陸し
たヒロシマの小早川2万数千の侵略軍によって、攻め
立てられ、住民の頑強なゲリラ戦に手を焼いたヒロシ
マ軍は焦土作戦を敢行、西条から三島にいたる、すべ
ての寺社は焼き払われました。
楠は通常まっすぐ高く伸びる樹なのですが、
一宮神社の参道の数十本の楠は写真のごとく奇怪な
形をしています。
地元の言い伝えでは、焼き払われた樹木の根だけが
残り、数年してその根から出てきた芽が成長してこのよ
うになったとのことです。まさに、ヒロシマによる爪痕です。」
頂いたメールには「新居浜市の歴史」というファイルが添付されていました。
その一部をご紹介します。
新居浜市の歴史
この地方には数千年の昔から人々が住みついていたことが、遺跡や発掘物から知られる。
この地方は隣の地域とともに、豊富な金属の産地であったため、古代から、砂金、銅の鋳造、土器の製作、製塩、水産業、米の栽培、定期的にここかしこで市が開かれ、
北海岸にある港から産物が北海道までも積み出され、繁栄していたことが、6-8世紀に建てられ、その後たびたび建てなおされ今にのこる多くの神社、仏閣からうかがい知ることができる。
7世紀に統一国家によりこの一帯は神野郡という名で郡制度に組み込まれた。8世紀に、新庁舎を今日の新居浜市中村近辺に移し、そこを「新居」と呼んだ。
そして、この新居の北の海岸を新居浜と呼ぶようになった。尚、神野郡は後に新居郡と呼ばれるようになった。
9世紀以後中央政府の力が弱まり、地方の豪族たちがこの地方を実質的に支配することとなった。
10世紀にこの地方の小島に村上氏が移住し、もともと航海にたけていた住民たちを組織して海賊となり、のちに内海を支配する水軍のいしずえを築いた。
12世紀から金子氏が居城金子城によりこの地をおさめていた。
16世紀中期に、全国制覇をめざす秀吉の命により、沢津浜に強行上陸した広島の兵2万余からなる小早川侵略軍と戦って敗北した。
多大の人的被害を蒙るとともに、侵略軍のとった焦土作戦によりこの地域は荒廃し、以後寒村となった。
17世紀に徳川幕府の直轄地、西条藩および小松藩の領地とに分割された。ある山の北斜面では古代から銅鉱を採掘していたが、
住民は南斜面にもっと大きな銅の鉱脈があることを知っていたが、幕府は採掘の免許を住民には与えずに、17世紀に大阪を基盤とする企業家”住友”に免許を与えた。
住友企業は鉱石の採掘を開始、鉱石は北岸の港から大阪へ積み出され、そこで精錬、、出島へ廻送されたものが、オランダ商人によって輸出された。
住友はこれにより大きな資金を蓄積した。
銅鉱石の採掘の開始と同時期に、西条藩の免許のもとに、東北の沿岸に塩田の開発が始まった。
20年後に広島の塩田技師天野氏を招聘し、塩田の近代化と大規模化をがはかられた。
19世紀にはこの塩田は全国最大規模の塩生産者のひとつとなり、塩は港から北海道までも送られるようになった。
塩の生産は明治維新まで西条藩の事業として経営されていたが、のちに株式会社が設立された。