あれ、でもトマトってこんな育ち方でしたっけ?
一瞬考えてしまうのですが、実はこれ、品種改良されたハイブリッド・トマトで、4メートルの高さまで成長する品種だそうです。その後どんどん横へと広がっていき、4~50平方メートルの面積になります。栽培して最初の7~8か月はトマトの兆候は見えませんが、その後、一気に実になるのだそうです。
フロリダのエプコットセンターが先駆けて作ったもので、収穫の記録は1万4000個、重さにして1500Kg。現在は各地で育てられているとのことです。
海外サイトには「イタリア人が見たらまとめて全部パスタソースにしてしまいそうだ」といった感想が述べられていましたが、確かにトマトスープにしたら実に美味しそうな熟れ方ですね。(キャプションはネットから引用)

エノコロ草の繁殖力には参りますが、可愛い植物です。

十数年前にたった一枚の葉が来たのですが・・。ローズゼラニュウムは地植えにするのは本当は危険です。

鉢から垂れ下がった茎が地面について広がっています。ものすごい生命力なのは乾燥地から来たプラントのせいでしょう。
2013.07.14 ~ 2013.07.20
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バッタイ

鶏肉のバジル炒め

揚げエビのピリ辛あんかけ

2月に取った時に比べると、同じ料金でも量が減ってコクが薄れていた。輸入のタイ調味料を減らしたか?
円安で輸入品の価格が上がったのと、アベノミックスが目指す物価のアップの効果が出て実質値上げだった。
2月のデリバリー。
◎「神戸っ子7月号」の表表紙から裏表紙までの全ページの記事と写真を、『神戸っ子』のHPで読むことができます。読みどころ満載です。
HPはこちらです。目次を見てHPの興味のある記事にアクセスしてください。




M会のメンバーと数回お邪魔したことがある「バー崑崙」が紹介されていました。

注)本エントリ作成にあたり「神戸っ子」顧問、かつM会会長の森岡一孝さんのご協力を頂きました。

天神橋筋商店街の一筋横の道を歩いて7、8分ほどで『竹うち』の見慣れた看板がみえました。


ほぼ3時間半、大声にならないようにお互い注意をしながらも、やはりいつものように談論風発。他のお客さんおやかましゅうてすんませんでした。
ノドグロの塩焼きやワタリガニなどの逸品の画像は後日アップします。

Wikipediaから引用。⇒ロコモコ (locomoco、Loco Moco) は、ハワイの料理のひとつ。日本の丼ものに近い。日本語化してロコモコ丼と呼ぶこともある。

白飯の上にハンバーグと目玉焼きを乗せ、グレイビーソースをかけたものが基本である。
近年誕生した店の中には、テリヤキチキンやマヒマヒなどハンバーグ以外の具材を用い、
それに合わせたソースなどのアレンジを加えたものを「~ロコモコ」と称する例もある。
こうしたバリエーションを持つ新しい店では、レタスなどの生野菜が追加されることもある。
もとは学生向けの安価なファーストフードだったが、ハワイの郷土料理としての色彩も濃くなってきている。
ロコモコのルーツは完全には明らかになっていない。ハワイ大学のジェームズ・ケリー教授の研究によれば、
これは1949年にハワイ島のヒロで小さなレストランを営んでいた日系人のイノウエ夫人によって発案されたとしている。
日本の伝統的な流儀で、白米をよそった丼に焼いたハンバーガー・パティを載せ、自家製のグレービーを
たっぷりとかけて若者向けの安価な食事として出したというのである。 "Loco" とはイカレた奴、あるいはLocal(地元)
との掛詞で、このレストランの常連の高校生のひとりのあだ名に由来するとも言われている。また、"moko" にはハワイ語で
入り乱れる、混ざるという意味があるが、料理の名前そのものにさほど意味はなく、単に語呂がよかったので定着したという
ところであろう。 ロコモコは今ではハワイにおいて非常にポピュラーな料理となっている。ハワイ以外の地ではほとんど
知られていなかったものの、ファミリーレストラン等のメニューに加わることで、漸次その知名度は上がってきている。
梅田に出たついでに紀伊国屋書店をうらぶらしました。ある時期は毎月買っていた「本の雑誌」と『向田邦子』さんの顔写真が目に飛び込んできたのでそのムックを買いました。
海外あちこち記から 「台湾/高雄篇」
1981年9月入国。
2001年に作成し知人友人にメール発信したものです。
1、台北ー高雄
台北から台湾南部の工業・港湾都市の高雄には汽車(中国語では火車)もありますが、時間がかかるので高雄の「中国鋼鉄公司」へ行くときは飛行機に乗って移動しました。
離陸しすぐ上昇し、水平飛行なしですぐに下降するくらいの感じの飛行です。
ある出張の一週間前、好きな小説家の向田邦子さんがこのルートで飛び、飛行機の空中分解で満員の乗客とともに亡くなりました。
後で上昇、下降のくり返しから来る機体の金属疲労が原因ではないかと新聞に出ました。
一緒に行った人が今回は汽車で行こうと言いましたが、今まで一週間後に同じ飛行機事故は統計的に起こってないから、飛行機で大丈夫と言いましたが彼は汽車、僕は飛行機と別れて乗りました。当時日ごろは、どのフライトもチケットが取れるかどうかいつも満席で大変な頃でしたが、乗ったDC10は乗客が全部で5人か6人でした。
大丈夫とは思うものの着陸するまではさすがに落ち着きませんでした。「父の詫び状」や「あ、うん」など、毎年恒例の正月の向田さん原作のテレビドラマは今も欠かさず見ます。
2、もう一つ高雄で。
港湾見学で高雄港に行った帰りに乗ったタクシーが、この国のいつものように飛ばしていました、小雨がパラついてきて嫌な予感がしました。向こうから鋼材を積んだ大型トラックがこれまた、飛ばしてくるのが見え、ウインカーを出さずに、タクシーの前で急に曲がりました。運転手が「アイヤー」と言って、ブレーキを踏みましたが、港への引込線なのか、車輪が濡れたレールの上を走っていたので、タクシーはスリップしてゆっくりと回転しながらトラックの後ろにはみ出た鋼材の方に近寄りました。
ああこれでオシマイと目をつぶったとき、鼻の先をトラックが走り抜けました。反対方向を向いて停まったタクシーの運転手はさすがに青い顔をして荒い息をしていましたが、暫くして車をまわしてホテルに向かいました。ああいう時は床に伏せることも出来ず、ただ迫ってくる激突の瞬間をスローモーションのように待っているだけでした。
今は台湾でも車があんなスピードで走っていないと思いますが日本でも神風タクシーと言われた時代があったように、モータリゼーションの初期の国はどこも交通ルールはあってないみたいなもので、結構交通事故にあった日本人も多かったです。