先日放送された「クラシックミステリー名曲探偵アマデウス」で、「ゴルトベルク変奏曲」がとりあげられていました(「“ゴールトベルク変奏曲”上司に殺される!」)。30の変奏曲が一定の規則で配列されていることなど、なかなか興味深いものでした。実演は熊本マリだったのですが、「ゴルトベルク」全曲を、日本人の演奏家としてはじめて録音したと、演奏者を紹介されていたので、「あれっ」と。
仕事をしながら、ちらちらみていたので、ききまちがいがあったのかもしれませんが、「ゴルトベルク」なら、熊本以前に、高橋悠治が1976年に録音していたはず。もちろん、そんなことはどっちでもいいことなのですが、高橋悠治の「ゴルトベルク」については、興味深い評論があったのを思いだしたので、確認がてらその評論を書棚からひっぱりだしてみました。
その評論は「高橋悠治の音楽」で、1978年に出版された柴田南雄『名演奏のディスコロジー』(音楽之友社)に収録されたもの。で、思いだしたのは、「ゴルトベルク」がどうとか、高橋悠治がどうとか、そういうことではなく、そのエッセイの最後の部分です(以下に引用)。「ゴルトベルク」にまつわる逸話の真偽はともかく、いまでもきくべき警告を含んでいると思います。
十九世紀後半以来、文学者や音楽学者たちがいかにバッハをあまりにも神格化し、演奏家たちから発想の自由を奪って来たか、ということだ。学説が学説にとどまっているうちはよいが、解説者をへて善意の鑑賞の態度を規定するのはいけない。天才の職人芸、誰かの眠られない夜を満たすための、手をかえ品をかえてのヴァリエーション。そうした、きわめて日常的な市民生活との密着から引き剥がされて、精神主義に密封されたバッハに日本人はあこがれを持っている。(『名演奏のディスコロジー』144頁)