ミンコフスキたちによる「ミサ曲 ロ短調 BWV232」、ひとことでいうと、熱気にあふれた演奏だということができます。声楽が1パート2人の演奏とは思えない力強さがあり、音楽の推進力に満ちていて、器楽のほうも繊細でかつ力感があります。
その特徴は、
- 合唱の編成は1パート2人
- 第15曲(ニケア信条の第3曲)を初期の歌詞わりつけで歌唱
- ラテン語はいわゆるイタリア式発音
です(曲の通し番号はペータース版)。
ライブ録音の多いミンコフスキですが、このロ短調ミサ曲の録音はライブではないものの、じっさいの上演と並行しておこなわれたためか、ライブ録音に準じた熱気があります。そして、多少の瑕疵より、音楽の流れというか、推進力を重視しているように感じます。
歌唱の5声部にはそれぞれ2名の成人歌手が配されていますが、コンチェルティスト(ソリスト)とリピエニスト(トゥッティスト)を、パロットのように明確には区別せず、すべての歌手がアリアを1曲は歌うようにふりわけられています。
パロットや鈴木雅明の演奏でも採用され、このところ演奏会や録音でも採用する指揮者が多いドイツ式のラテン語発音ですが、ミンコフスキーは採用していません。それは、BWV232が普遍的であるがゆえの選択のようです。
ちょっとびっくりしたのが、第15曲(ニケア信条の第3曲)です。ニケア信条(クレド)は、はじめ8曲で構成されましたが、バッハはのちにこれを改訂し、第15曲のあとに1曲(第16曲)を追加挿入し、9曲構成というふつう演奏されるかたちに変更しました。
問題は追加された第16曲の歌詞で、バッハはその歌詞に第15曲の最後の部分、「聖霊によりて、みからだを受け、処女マリアより、人の子となりたまえり。 Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria virgine, et homo factus est.」をあて、歌詞が短くなった第15曲には、歌唱声部に修正をほどこしました。
ふつう演奏されるのは、改訂された9曲構成のニケア信条で、第15曲はもちろん歌詞がつけかえられたかたちで演奏されます。ところが、ミンコフスキは、つぎの第16曲と歌詞が重複することをおそれず、はじめにバッハがわりつけした歌詞のほうで歌わせています。
もっとも、そうした演奏はミンコフスキがはじめてではなく、リチャード・ヒコックスたちによる演奏(Chandos Records CHAN 0533)などがすでにありますが、あえて、ミンコフスキがそうしたのは、おそらくは、改訂前の第15曲のほうが、歌詞と音楽がより一体化していることを重視したためだと思われます。
たとえば、「天より降りたまえり descendit de coelis」と、第1ヴァイオリン、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、通奏低音とひきづがれる下降音型、「人の子となりたまえり et homo factus est」で転調、というふうに歌詞と音楽が密接にむすびついていて、それは第15曲でもっとも印象的なところです。
改訂された第15曲では、そうした歌詞と音楽のむすびつきが弱まってはいますが、といって、「Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria virgine, et homo factus est.」という歌詞の重複の問題がのこるわけで、バッハの改訂を尊重していないと、ミンコフスキを批判することもできるかもしれません。
個人的には、「あえて」の冒険には賛成なので、ミンコフスキの選択は歓迎していますが、このミンコフスキの録音で、ロ短調ミサ曲デビューというかたには、ちょっと注意が必要かもしれません。なお、歌詞訳は樋口隆一訳を用いています。また、興味があるかたは、以下の関連記事をご覧ください。
[追記]ニケア信条の第3曲(第15曲)と同第4曲(第16曲)について補足しておきます。
まず改訂前は図の左のような8曲で構成されていました。改訂前のニケア信条第3曲の歌詞は、以下のとおりです。
Et in unum dominum Jesum Christum, filium dei unigenitum,Et ex Patre natum ante omnia saecula.Deum de Deo, lumen de lumine, deum verum de Deo vero,genitum, non factum, consubstantialem Patri, per quem omnia facta sunt,qui propter nos homines et propter nostram salutem descendit de caelis.Et incarnatus est de Spiritu Sancto ex Maria virgine et homo factus est.
改訂後は、ニケア信条の第3曲の歌詞にEt in unum dominum Jesum Christum…、追加された同第4曲の歌詞にEt incarnatus est…と、歌詞わりつけを変更しました。この追加の結果、ニケア信条は図の右のような9曲構成となり、「十字架につけられ Crucifixus 」を中心としたシンメトリな構造となりました。