『苦い砂糖』―丸田南里と奄美自由解放運動 (単行本)
原井 一郎 (著) google
この本は、数年前に読んだのですが。
今日は、まえがきとあとがきを読みました。
嘉永4年(1851)名瀬生まれの、丸田南里(まるた なんり)は、
14歳の時(慶応初年1865年)に、
白糖製造機械設置のため名瀬に来ていた英国の商人グラバーに誘われて英国に渡った。
トーマス・ブレーク・グラバー google
明治8年(1875)10年ぶりの帰郷。
商人の自由の国イギリスや植民地上海の様子などを肌で体験してきた南里が久しぶりに見た故郷奄美の現状は・・・。
南里とって我慢がならなかったのは、県庁の保護になる「大島商社」による砂糖独占販売であった。
明治になっても、封建鎖国の藩政時代と変わらない、いや、それよりも悲惨な島民の窮状に南里は奮い立った。
大島商社独占の不法を唱える南里の呼びかけに、井の中の蛙だった当時の有識者たちは目を見開き、その日暮らしの島民たちもついに黒糖自由販売運動に起ち上がる(全島沸騰)
決死の覚悟で県庁に訴えるべく海を渡った陳情団は、捕らえられ、おりからの西南戦争に従軍させられ、またしても日本の歴史に翻弄されるのだが・・・。
この本は、その奄美自由解放運動の様子がわかりやすい表現で書かれている。
この本が書かれた2004年(平成16年)、
鹿児島県の知事は、須賀 龍郎から現在の伊藤 祐一郎に代わった。
そのとき、県は豪華な県庁舎に莫大な借金と多すぎる職員をかかえている。
わが鹿児島が、貧乏なのは今に始まったことではない。
今も昔も貧乏だ。日本有数の貧乏県。
それなのに、昔、殿様は見栄をはらざるをえなかったのか、贅沢をし、
また幕府にいじめられたりして借金が膨らみ、庶民は苦しめられた。
藩の借金地獄を救ったのは奄美の砂糖だった。
奄美の砂糖収奪は、薩摩藩財政の「御改革第一の根本」(1830)調所 広郷(ずしょ ひろさと)と位置づけられたのである。
薩摩藩では、農民は、一揆もできないほど、押さえつけられ、お上には頭があがらない。
母間騒動 1816年(徳之島)
加世田一揆 1856年(鹿児島)未遂?
犬田布騒動1864年(農民一揆)徳之島
奄美の農民は、そのために大変な苦労をした。
(島民の中には、薩摩の貧乏武士が足元にも及ばぬほどの蓄財をした人たちがいたのだが)
「苦い砂糖」という文学的なタイトルで著者が言いたかったのは、
島の先人たちの体験が現代のわたしたちとは無縁の遠い昔の話ではない、ということだろう。
著者は、「あとがき」で、
明日を模索すればするほど、現実の歪みに気づけば気づくほど、私たちは過去に目を向けざるを得ないだろう。
という、ベルグソンのことばを引用している。
アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson, 1859年10月18日 - 1941年1月4日)フランスの哲学者。
現実の直観的把握を目指す 「生の哲学」「反主知主義」
『時間と自由』 岩波文庫
『物質と記憶』 ちくま学芸文庫
『笑い』林達夫訳 岩波文庫、
最近の新聞記事にもあった、公共工事にからむ、本土の建設会社による奄美地元会社いじめ。それを長年の間、発注者の県が見て見ぬふり、の実態や、その他身近なうわさで聞く、奄美経済の実情など、まさに、この時代となんら変わっていないのではないか、と思われるほどである。
あとがきはつづく
奄美の歴史書に目を通して、まず心に突き刺さるのは「徳之島で餓死者三千人」といった
記事があまりに簡略に提示されていることだ。悲劇はそれだけにとどまらない。繰り返し繰
り返し、執拗に島々を襲ったおぞましい災厄が淡々と感情なく綴られている。
おびただしい死者の群れをなぜもっと告発する、怒りや悲しみが表現されないのか。だが事件や人物伝を描いてもその時代時代や主人公の生涯に限定され、たとえば丸田南里
が躍り出た明治初期とその遠因になった幕末の島の状況、あるいは南里以降の島民のレジス
タンスやサトウキビ作との関わりを一体的に把握するのは困難極まりない。
加えて専門書の表現はどうしてこうも、と思うほど難解で回りくどく読むのに骨が折れる。
本書は読みやすくわかりやすい表現で、「南里のその後」や現代とのかかわりなども描いている。
奄美の歴史書に登場する人物たちは、結局は島を離れ、島に帰らない場合が多い。(現在でも、成功したひとの多くはそうだが)
「奄美の歴史」って何?と改めて考えさせられた。
著者は奄美在住のジャーナリストである。