↑↓ 県立奄美図書館 写真と記事は関連がありません。この記事は手元の本と図書館の本数冊を参考にした覚え書きです。
この記事は2009年10月18日 (日曜日)の記事のつづきです。
1736(元文元年)
栄文仁(えぶに)脱島
栄文仁(えぶに 人名)
喜志政(きしまさ)
能悦(のうえつ)
徳之島の若者たちの主導者三人
島がサトウキビ作りで、主食に事欠く事態を憂い
琉球王へ薩摩藩によるサトウキビ作り強制をやめさせるよう取り計らってもらうため
琉球へ向かったが代官所の捜索隊によって説得され未遂。
彼らに対する藩としての処分は、記録に見えないが
島歌の能悦節に歌われている。
脱島者として処断され、トカラ 七島に流されたのであろう。
栄文仁主(しゅ)と能悦主と喜志政主と
ナー三ちゃり (彼ら三人)
島のことしゅんち (島のことをしようとして)
トカラかち行もち (トカラに行かれた)
1778(安永7)年
稲源流罪
大島宇検の稲源、与論島に流罪
年々過酷になっていく薩摩藩による租税取立て。大きすぎる農民の負担に多すぎる役人の数。民衆の惨状に胸をいためた稲源は惣横目という顕職をなげうって、「租税減免嘆願書」を代官所へ提出、牢込め。
稲源は島役人でもありながら、付近の村人にも呼びかけ、一揆を起こそうとしたが事前に発覚。
稲源は遠島になるが、シマの人々を守るために統制と指導を徹底できた彼の指導力と人望のためか代官所は村人全員の処分を断念せざるを得なかった。このことから、シマ社会の運命共同体としての強固な結束を推し量ることができる。
その三年後、同じ宇検村で
1781(天明元年)
国淳切腹
この年、台風の被害甚大。
砂糖の代価として藩から支払われる引き合い米の支給が遅れる。
かねてから支給が規定どうりに守られず、島の民衆の惨状を見かねた宇検方の与人(島役人)、国淳(くにじゅん)が起ち上がった。
国淳は息子の国喜とともに赤木名の代官所へ向かい、
藩庫にある米を規定どうりの比率で早急に農民へ支給するよう代官所に訴え出るが、取り合ってもらえない。
国淳は意を決して、島での引き合い米の支給が規定どうりに守られない実情を書面に書きとめ、藩庁へ越訴。
が、藩の定めに異議をさしはさむ島人は、死罪、厳しい磔(はりつけ)の刑は必定だ。
代官所は国淳の逮捕に島役人たちを差し向けた。
それを見た国淳は激昂、島役人たち激しくののしる。
その縄は誰が編んだ、お前たも島民の惨状を知らぬわけではあるまい。代官所の不正に気づかぬわけでもあるまい。
そうは言っても国淳うじ、越訴は死罪はりつけであるど。
後ろで、役人をののしる村人の声を制して国淳は、いいか、よく聞け、これはわしと息子と二人でやったことである。村人たちへの手出しは無用だ。
お前たちに、縄目の恥は受けぬと、国淳その場で割腹して果てる。
国淳の庭は、血で染まり、あたりには血のにおいがたちこめた。
この事件は島役人層の人たちを震えあがらせた。
年々激しくなる藩の収奪と、抗えない藩命の厳しさを彼らは肌身に感じたのである。
以後、島役人層が保身の術に走る契機になった重要な事件であったと言われている。
薩摩藩本土では士階級に「城下士」と「外城士」(郷士)があり、その下に「郷士格」という差別的な身分制度をもうけ、藩の財政に貢献した上層島役人をそれを与えるという懐柔策で、上層役人のシマからの分離を図っていく。
琉球王国時代からつづいた島社会の再編と島差別の強化が同時に図られ、シマの村落共同体は、租税の払えないヤンチュと豪農とに分解され、さらに階層分化が進んでいくことになる。
この国淳切腹は、
1781(天明元年)。薩摩の奄美琉球侵略から172年が経っていた。
一 1609年(慶長14) 琉球王国からの割譲
二 1623年 「大島置目之条々」の布令
三 1728年 「大島規模帳」「大島物定帳」「用夫改規模帳」の布令
四 1745年 換糖上納令の発布
五 1777年 第一次惣買入制の実施
六 1830年 第二次惣買入制の実施
七 1873年(明治5)砂糖専売制を廃止し、大島商社を設立する。
八 1879年(明治12)砂糖の自由売買が行われるようになった。
藩による収奪は、以後次第に激しさを増す。
この記事は素人の勉強の覚え書きです。
「島民の抵抗」の記事はつづきます。